椿色の鎖を掲げて
敗者は敗者さ、と豪胆な平民は笑った。
「僻地は僻地だ、あそこは砂だって人を殺す」
騎将軍として北の奥地に砂を踏んだ公孫敖は、同じく車騎将軍として出陣した衛青に語った。
「いいや、むしろ砂の方が恐ろしいな。……おっと、もうこんな言葉遣いはしちゃいけねぇんだった」
「……いえ、気にすることはないですよ」
「お前も……閣下もお口振りをお改めください。貴方はいまや、押しも押されぬ凱旋将軍ではありませんか」
自分で言ったとおり、慇懃な口調に改めた敖だったが、青ははたしてこれが彼の悪戯なのかどうか少し悩んだ。
結果として悪戯半分自嘲半分だろう、と見当をつける。
「先輩が地位を鑑みてそう仰るのならば、自分は過日の恩義を忘れぬよう振舞います」
こちらも悪戯半分に混ぜっ返してみた。案の定、嫌そうな顔の敖があっさりと音を上げた。もともと、飾り立てたきらびやかな言葉遣いが苦手なのだ、この快男児は。
大袈裟に震え上がってみせ、わざとらしく口許を押さえて「歯が浮いて逃げ出しちまう」と嘆いた。
「それは一大事です。かくなれば青めが先達の歯に成り代わり、お役に立つと致しましょう」
「分かった、分かったから止めにしよう。……で、何の話だっけか」
「砂の話です」
「おう、そうだそうだ」
ぱしん、と敖が膝を打った。
半月前、青たちは匈奴討伐の為に北の塞外へと出陣した。漢の北辺、桃水の流れる上谷郡から、青は一万の兵とともに打って出、匈奴の騎馬軍団を散々に打ち負かした。西隣の代郡から敖が、その西の雁門郡からは驍騎将軍を拝命した李広が、そして今回の出兵ではもっとも西の雲中郡からは軽車将軍となった公孫賀が、それぞれ満身の気魄と共に進撃した。四人のうちでは青が最も若く、敖や賀を先輩と仰いでいた。飛将軍と謳われる李広は雲の上の存在だった。
しかし、鮮やかな勝利を飾ったのは青だけだった。賀は匈奴軍と行き会わず、まったくの空振りで舌打ちと共に帰還してきた。広は戦術の弱みを突かれ、一時は敵の捕虜となったものの辛くも逃げ帰った。敖は激しい戦闘の末、将兵七千を失う敗北を喫した。結果として青の勝ち星が引き立てられ、凱旋した青は関内候の爵位を与えられた。
敗軍の将は裁かれねばならない。公も敖も死罪を贖銅して平民へと落ちた。武官の身分も剥奪され、今は市中に仮住まいしている状態である。
青はそんな敖を訪ねてきたのだ。戦闘訓練なら、青より長く積み重ねてきた先輩である。なぜ負けたのか、それが知りたかった。
「飛将軍殿は、ありゃあ仕方ねぇぜ。戦い方の相性ってモンがある」
「はい。防衛戦ならば無類の強さを発揮する方です」
「だけど、それじゃあ撃退する事は出来ねぇ相談だ。だから俺たちは騎射を鍛えた。そしてお前は、その戦い方で勝った」
「はい」
青は素直に頷いた。気を遣って言い繕っては話が進まない。敖も気にせず、「しかし、だ」と続ける。
「お前は運が良かった。もちろん、それだけじゃねぇが、運ってのはでかいぜ。俺が負けたのもそれだ」
「……運が無かった、と?」
「負け惜しみに聞こえるだろうが、他に言いようも無いんでな」
悔しがるでもなく言い、敖は酒杯を取って一口呷った。青が手土産に持ってきたものだ。
青は肴を摘んで口に放り込む。運が悪くて負けたと言うならば、どんな敗将だとて言い逃れが出来よう。だが、敖がそんな無様な真似をするはずが無い。
「風だよ、砂嵐だ。物凄い風が砂を巻き上げてこっちへ吹いてくるんだ。向かい風だから矢は飛ばねぇし、砂で視界も利かねぇ。それでも向こうにとっちゃぁ追い風だから、ここぞとばかりに射込んできやがってな……あれには参ったぜ」
「まさか……風下に布陣したんですか?」
「阿呆ぬかせ。弓矢で勝負しようってのに、わざわざ風下になんか回るかよ。ぶつかってしばらくしたら、急に風が強くなったんだ。初めは横ッ風でな。それでもすぐに弱まったから掃射の合図を出そうとした。その矢先に、風向きが変わった」
それが漢軍にとっては向かい風だったのだ。
匈奴の騎手たちは好機を逃すまいと矢継ぎ早に鋭い鏃を降らせる。強風に乗って勢いの付いた矢は、盾を並べて守る前衛の防御をおもしろいように突き崩した。盾が倒れれば、その後ろに控える射手たちを守る壁は無くなってしまう。なすすべなく撤退したのだが、敵の追撃は厳しかった。どうにか振り切ったときには兵の大部分を失っていた。
「風ばっかりは、いくら訓練した所で好きに動かせるモンじゃねぇからな。お前も気をつけろ。砂漠の嵐は怖ぇぞ」
「はい」
青は神妙に頷いた。もとより、自分の実力だけで勝ったとは思っていない青である。これが初陣だったのだ。戦地に赴く前から将軍の肩書きは賜っていたが、それは姉が今上帝に愛される寵姫だからである。外戚ゆえの特別待遇として得た役職だった。戦功を反映したものではない。
むしろ、青は薄ら寒く思ってさえいたのだ。あまりにも鮮やかに勝ちすぎた。今は誉めそやされても、これがずっと続くわけではない。どこかで瓦解しそうで、凱旋の鞍上では終始落ち着かなかった。
いつか敖を襲った砂嵐が青にも牙を剥くかもしれない。
そうなる可能性を、青は肝に銘じた。
「まあ、格好つけて講釈垂れたところで、俺が敗者だってのは事実なんだがな」
「……はあ」
引き締まった雰囲気をぶち壊してくれる先輩である。あっけらかんと言い放ち、幾度目か酒杯を呷った。
酩酊するほど強い酒ではないが、それにしても水でも飲むように干している。
(……やっぱり、来ない方が良かったのかな)
気にしていないように振舞っていても、痛烈な敗戦の傷はなかなか癒えないのだろうか。砂嵐の脅威を知ったのは良かったが、青の訪問は敖の傷を抉ってしまったのではないか。
そんなことを思った青が、そろそろ辞去すべきかどうかそわそわしていると、目ざとく気付いた敖は呵々と笑った。
「おい、何に気を揉んでるか知らねぇが、その図体でもじもじしてんじゃねぇよ。曲がりなりにも将軍だろうが。ちったぁ落ち着け」
「……はあ、そうですが」
「そうです、だ。第一、お前がやっても可愛くねぇ。建がいたらしこたまからかわれるぞ」
「……それは遠慮したいですね」
青も笑った。頑健な体格のよく喋る先輩を思い浮かべ、そういえば凱旋祝いの品を貰っていた事を思い出した。挨拶には行ったが、きちんと礼を言わなければそれこそ何を言われる事か。昔の恥ずかしい思い出をほじくり返してからかわれては堪ったものではない。
「今日は用事あるのか? 無ければ少しくらい遊んでいけ。挨拶回りは肩が凝るだろう」
「……はい、そうします」
それからひとしきり昔話に興じ、春の陽が傾く頃になって青は腰を上げた。
行き先は告げてあるが、夕刻を過ぎれば食事を抜かれてしまう。罰則ではなく、無駄を嫌う青が「夕餉の支度までに帰らなかったら自分の分はいらない」と料理番に言ってあるからだ。さすがに、将軍である自分が今は平民の敖に馳走になるわけには行かない。
戸口まで見送りに出た敖は、短く呼んで青を引きとめた。
「いつかお前も挫折するかもしれねぇ。俺と同じようになるかもしれねぇし、帰って来ることが出来んかもしれねぇ。それでも、俺たちは武器を取って生きる事を決めた人間だ。後悔はするな。俺たちの鎖は決して外れねぇんだ」
「鎖?」
「赤い鎖だ。雪の中の椿みてぇにな。それに、俺たちはもう囚われちまってる。だから逃げ出そうなんて考えるな。選んだ己を悔いるな。流した分の赤が色を増しても、立つ事を諦めるな」
「……」
青は黙って敖の言葉を反芻した。
赤い鎖に囚われた将軍。重圧と痛苦に藻掻く武人。
(…………ああ、それは)
それはまさに、今の公孫敖という元将軍を表わしていたし、他の幾人もの武人たちを表わしてもいた。誰かの血を流した者は、その赤に囚われる。逃げても悔いても、赤は消えない。
それでも、鎖を引き千切る事が出来なくても、彼らは己の足で立つ事が出来る。怨嗟と断末魔に晒されながらも、彼らは生きることが出来る。それを諦めてはならない。地べたに落ちた鳥は、いつか再び大空へ羽搏く事ができるのだ。
「……なんてな。昔、祖父さんから聞いた事だ。業は業さ」
「覚えておきます」
「待ってろ。俺は必ずそこへ戻る。それまで、落っこちてくるんじゃねぇぞ」
にっと敖は笑った。いつもの快活な笑みではなく、挑戦的な、不敵な笑みだった。
青も同じ笑みを返す。
この男は、まだ諦めていない。悔いていない。もうすでに、過去など見ていないのだ。彼は再び、軍に指揮する将となる。
「待っています」
二人の武人は、拳をひとつ打ち合わせて別れた。
終
前漢 公孫敖と衛青
先輩の建は蘇建です。