終わりかけの余白
俺は、と光秀は思った。
俺は、俺は。その先が出て来ない。空腹の故に頭のめぐりが鈍っているのだ、と思い至るまで、しばらくの時間が要った。
抱え込んだ鉄砲の重さが痩せこけた肩にのしかかった。鉄の砲身が浮き上がった骨に痛かった。まるで野良犬だった。食うものがあるだけ、犬の方が幾らかましかもしれない。光秀は道端の獣の死肉は食えないし、そこいらに生えている草の食い方も知らなかった。
街道から少し入った道の脇に木陰を見付けて座り込んだのが、数えて三日前のことになる。鉄砲を抱えた光秀の姿に、食い滓程度の飯を分けてくれる人間が二人あった。間の一日は背凭れ代わりの樹の皮を剥がして、ろくな味のしないそれを噛んで凌いだ。
まったく貧乏だった。空腹は人を苛立たせるが、度の過ぎた空腹は人からすべての気力を根こそぎ奪っていくのだ、と光秀は悟った。根こそぎ奪われた先に待つのは無だった。極楽の安寧でも地獄の業火でもなく、何も無い、全き虚無がそこにいる。
そう思ってから、はて「無」が「在る」とはどういうことか、鈍い頭がくるりと回った。
(ああ、だめだ。考えると腹が減る)
光秀はのろりと立ち上がった。どうでも食い物を探さねばならない。何かしら腹に入れれば、聞き苦しくない言葉の一つでも言えるようになるだろう。小難しいことを考えるのは後でいい。今は食い物のことだけを考えて、とにかく生き延びねば仕方が無かった。
「俺は」
痺れたように力の入らない足を踏み出すとき、掛け声のように呟いて思い出した。
「野良犬の餌には、なりたくねぇ」
ここに辿り着く前、座り込んだ道端の向かい側で、群がった畜生に食い荒らされて骨になった動かない人間を見た。生きている人間を鉄砲で打てば、ぱっと鮮やかな血肉の色が見える。死んだ人間の血や肉は、それよりずっとよどんだ黒だった。あんな色をしたものには、なりたくなかった。
とぼとぼと街道を歩いていく光秀の背に、これから落ちようとしている陽の熱さが鬱陶しく追いすがっていた。
幾年か、あるいは幾十年か経った。
光秀はまだ生きていた。魔王と呼ばれた男に従い、その黒翼の影からだだっ広い地平を見た。魔王の翼に覆われた大地は焼け爛れていた。この男は破壊者なのだ、光秀は思った。
(ありったけぶちまけて、手当たり次第に壊して、それからいっとう高い塔を建てるのか)
織田信長という権力をあまねくゆきわたらせるために、国々にはあまりにも雑多なものものが多すぎた。だから壊して、均した。
単純なその理屈に、光秀は戦慄し、同時に幾らか痛快な心持ちも感じていた。役に立たないものを後生大事に仕舞い込んでおくことほど、この世に無駄なことはない。
まったくその通りだった。
しかしそれがすべて正しいかどうか、光秀は敢えて考えないようにしていた。政治や戦争の善悪を考えるのはよいことだ。だが信長の行動は政治や戦争ではなく、まったき革命だった。であるならば、革命の始まってしまった以上、その善悪や是非をいくら考えたところで意味など無い。ただ考えるべきは、その革命の奔るみちすじと行き着く最果てを見極めることだけだった。軌跡を外れれば鬼籍へと落ちる。
(アンタは、アンタの権力の塔を建てて、それからどうするつもりなんだ。王となるのか。それとも神にか。どちらにせよ俺の生きる場所はそこに無い。塔に住まうのは魔王の眷属と、いっぴきの閻魔だけだ)
光秀は武将でありながら、文官でもあった。鉄砲を撃つだけが能だった過去から脱却して、光秀は文と武を兼ね備えた。後付けの知識教養だろうと、実際に役に立てばそれでいいのだ。そして、書状を眺める同じ目で標的を捉え、筆を走らす同じ指で引き金を引けた。銃床から伝わる衝撃が肩を震わせ、その振動はからからに乾いた快感に取って代わった。奇妙に乾燥した手ごたえのまま、轟音の度に遠くで誰かが血を噴き出して死んでいった。ばっと散る赤黒い飛沫の残像は光秀の右目に焼き付いた。照準を合わせる為の右目が、にんげんの死に様を記憶する為のまなこになった。ちかちかする残像の赤黒い色が、光秀が人を殺したという証だった。それをいつまでも記憶することを狂気と呼ぶならば、光秀は確かに、とうの昔に狂っていた。
それでも、光秀は信長の高い塔に居場所は無いのだ。そこは、あらゆる忌まわしいものの王と、彼を取り巻くきらびやかな宿将たちの住処なのだ。臓腑の底から頭蓋の天辺まで信長に酔いきった人々にしか、そこに住まう許しは与えられなかった。
(それじゃ駄目なんだよ。俺が欲しいのはアンタのおこぼれなんかじゃねえ。俺は俺の天地を手に入れたい。アンタが俺の踏み台になれよ)
従ったのは、あくまでその時点で光秀より信長のほうが強かったからだ。力量の均衡が変われば光秀の立ち位置も変わる。光秀の力が信長を凌いだとき、光秀は黒い翼の魔王を捨てるつもりだった。織田という魔物の巣は、明智光秀という一個の武将を完成させるための揺り籠だった。とこしえの忠誠は、光秀の中に存在しなかった。
腹の奥底に仕舞い込んだ野心の熾き火に息を吹きかけたのは、海を渡ってやってきた異様な面貌の伴天連だった。
『あなたは、彼に主の裁きを下すのです』
囁かれたむず痒い宗教に興味は無かったが、光秀の気を引いたのは、彼が信長を倒す役目を振られた、というひとつの事実だった。伴天連は、遥か彼方の本国にいる彼らの主人の命令で、この日ノ本を制圧しようとしているのだ。信長は、伴天連が日ノ本を得るための最初の殲滅をする役だった。だから伴天連は信長に媚びて彼を支援し、信長は己を援ける伴天連の行動のみを採用した。利と害が水面で一致し、織田信長の破竹の革命はここまで成ってきていた。
『しかし、』
殲滅はもう終わりなのだ。日ノ本の歴史に作られた、革命の炎による空白。それは室町というひとつの時代が終わるときに生まれた、みじめったらしい余白だった。
『オダ軍はそう簡単に倒せる相手ではありません。あなたの持つアケチの軍勢で対抗できるでしょうか』
『出来るかどうかではなく、すると決めたらする。成功の約束はしないが、代わりに貴方の要求を呑んでもいい』
『ならば、わたしたちの関与を秘匿して下さいますか。異邦人の指図で国が動くのは好ましくないでしょうから』
『分かった。俺の報酬は首ひとつ。あとは好きにすればいい』
革命の申し子を討ち取ろうと光秀が決意したのは、報酬と口に出したときだった。それまで、光秀の中で、信長を斃すことは夢想でしかなかった。夢の輪郭が不意に現実味を帯びた。
硝煙の臭いが鼻腔の奥によみがえった。
光秀は殺戮者の目をあげて、終ぞ名乗らないままの伴天連を見やった。
『破壊を以て破壊を終わらせる。日の満ちる国をよみがえらせる為の、俺がふたつめの革命を起こしてやるよ』
言い終わると同時に光秀は立ち上がり、伴天連との会談はそこで終了した。だから気付かなかった。光秀の背を見送る伴天連の眼は、底冷えする冷徹さでもって現実と計画を見据えていた。踊らされたのは信長だけではなかったのだ。そのことに、光秀はとうとう気付かないままだった。
終わりかけた余白の、その始まりの部分に光秀は立っていたのだ。
炎を吹く本能寺の大屋根が、薄明の空にぼうぼうと黒煙を噴き上げていた。
(よくよく炎に縁のある寺だ)
押し寄せる熱波を顔に感じながら、光秀は皮肉な心持ちで思った。本能寺は今までにも、幾度か焼け落ちている。その度に復興し、そしてまた焼かれる。光秀の放った炎も、その連鎖の新しい輪になった。
信長は死んだ。
四方を火に囲まれて、逃げ場を失ったところを狙撃した。あかあかと揺らめく炎の朱を背景に、信長から散り落ちた赤黒い血の色は、光秀の目にそれはそれは鮮やかに刻み付けられた。
(これで殲滅という名の余白が終わる。アンタの革命も、アンタの時代も、もう終わりだよ)
鉛の弾に乗せた訣別の意志は、魔王が第六天に羽ばたく黒い翼をへし折って、その存在を灰へと叩き落した。
ふたつめの革命は成功した、はずだった。何もかもが手筈通りになると、光秀は思っていた。
(しかし、)
殲滅が終わった後は、再生が始まらなければならない。破壊する者が織田信長という魔の王であるならば、創造する者はいったい誰なのだ。光秀はそれを知らなかった。伴天連からは何も知らされていなかった。
(雲行きがおかしい。あの独裁者を排除した俺に、なぜ干戈を向ける。誰もがアイツを恐れていたはずだ。それなのに、なぜ俺の革命を支持しない)
疑心が光秀のなかに生まれた。彼を取り巻くもろもろの情勢が、光秀を白い目で見ていた。惟任ご謀反。誰も光秀を革命家と呼ばなかった。きな臭い焦燥を抱えたまま、光秀は予想されうる覇権争いのための準備をした。
そのうち、毛利との戦いに派遣されていた羽柴秀吉がとんぼ返りしてくる、という報せが届いた。光秀は愕然とした。いいように利用されたことに気付いた。伴天連は始めから光秀に覇権を与えるつもりなど無かった。始めから、光秀を使い捨てにするつもりだったのだ。ふたつめの革命は稲光のように一閃して、破壊を破壊する。光秀に求められていたのは、そのただ一閃だけだった。用が済めば捨てる、否、彼らという黒幕の存在を秘匿させるために、伴天連は光秀の口を封じに来るだろう。それが羽柴秀吉というみっつめの革命だった。
『偽善を語る犬畜生が、俺を騙したのか!』
視界が真っ赤になるほどの怒りの衝動を感じた。踊らされたのは信長だけではなく、光秀もまた、滑稽を演じる傀儡だった。そして幕を引きに来るのが、よりにもよって秀吉だとは、光秀にとっては笑い出したくなるほどの屈辱であり、憤激の原因だった。
幾筋も翻る羽柴の幟旗と、光秀の水色桔梗は山崎で戦った。無残な戦だった。光秀は単身逃亡した。
俺は、と光秀は思った。
俺は、とうとう俺の天地を手に入れられなかった。生き延びようという意志が、光秀にはもう残っていなかった。歩き通しの脚が軋んだ。光秀は崩れ落ちるように座り込んだ。
抱え込んだ鉄砲の重さが、疲れ果てた肩にのしかかった。鉄の砲身がやつれて浮いた骨に痛かった。まさに負け犬だった。すぐ傍にあった大木の幹に寄りかかって、霞み始めた目を閉じた。瞼の裏の暖かい暗闇には、火焔の朱を背景に散り咲く赤黒い模様がくるくると浮かんでいた。
そうだ、そこへ行けばいい。光秀は虚ろな意識で思った。鉛の弾で信長の頭蓋を吹っ飛ばしたように、そうやって何も無い所へ行けばいい。望んだ何をも得られないのならば、光秀は敢えて生きようとは思わなかった。死んでしまっては元も子もないが、惨めなまま生きていても、そんな空虚な生き様は死んでいるのと同じことだ。光秀はもう全部を終わりにしようと思った。
残り少ない火縄に火を点けた。鉛玉と口薬を取り出した。考えなくても光秀の手は勝手に動いた。幾千幾万と反復してきた、その最後の動作だった。
銃口を額に向けて、思い直して口に銜えた。つんとした鉄の味がするな、とうっすらと思った。引き金を引く一瞬、光秀は信長の眼を思い出していた。本能寺を焼く炎の壁越しに、たしかに信長と目が合った。不断の激情を宿していた魔王の目は、そのとき、凪いだ水面ほども静かだった。
(何が言いたかったんだよ、アンタは……)
答えに思い至る前に光秀の指は引き金を引き、迸った閃光が明智光秀という存在の終幕を告げた。
(俺はアンタには敵わねえんだな。こんな無様な死に様晒すなんざ、まったく野良犬の餌もいいところだ)
終
明智光秀と本能寺の変
地味に短編の「そして灰へと」とリンクしています。
参考:立花京子「信長と十字架」