君のアイロニー
何をどうしたって、人間はちっぽけな存在なのだ。
小笠原貞次は声に出さずに囁き、眼前に座す弟のくろぐろとした双眸を見た。深淵をうつしたように、貞慶のまなこは光というものを許容し得なかった。
「用件って何だ、喜三郎」
薄々察しながらも、貞次は尋ねた。こくりと貞慶の喉が上下して、唾と一緒に最初の言葉を飲み込んだ事が知れた。
言いたくないことなのだ、貞次は思う。
「大したことじゃねぇんだ」
「そうか」
「……ごめん、兄貴」
気まずそうに貞慶が俯いた。膝に置いた手を見る。指先が所在無げに膝頭を叩いていた。
「いいって」
貞次は言った。
なんとなく、分かってはいたのだ。いつか貞慶が貞次の前に現れることは。そして、その用件が決してこころよいものでないことも、また、貞次は随分昔から予想していた。
「親父やアニキは、どうしてる?」
「又兄ィは死んだよ、越中で」
「親父は、」
「奥州のどこかにいる」
「……そうか」
薄い溜め息を吐いた貞次の表情を見て、貞慶は、一度何かを言いかけて、もう一度言った。
「やっぱ、気になるか?」
「んー、まあな。家族だから、さ」
「そうだよな……」
貞慶はそう言うと、また俯いた。貞次には、まるで貞慶が泣き出すかのように見えた。小さい頃、もう何十年も前に見た弟は、もっと溌溂としたこどもだった。だから貞次には、貞慶の持ってきた用件が予想通りであると理解できた。
人一倍、寂しがりで甘えん坊の末弟だった。
「喜三郎」
「ん?」
「お前がやりたいようにしろよ。おれは、そうするのがいいと思う」
貞次には未練は無かった。出家した時、あるいは、もしかしたらそれよりもっと前に、きれいさっぱり置いてきた。唯一引っかかっていた家族の消息も聞けた。貞次と家族とを結んでいた何かは時と共に稀薄になって、今日貞慶が来たことで無くなったのだ。
貞慶は唇を噛んで顔を上げた。貞次は、相変わらずまっくろにくすんだ貞慶の目を墨の様だと思った。
「兄貴、」
「おう」
「これで、終わりにするから」
すらりと音がして、貞慶が短刀の鞘を払ったのが見えた。
銀色の刃先が腹に吸い込まれるのを感じながら、貞次は弟の墨色の双眸をうつくしいと思った。
何をどうしたって、人間はちっぽけな存在なのだ。
独りで足掻いても大きな流れには抗えない。時代は変わった。かつて在った権威が覇を唱え続けることは叶わなくなった。貞次が望んだ社稷の安泰は、貞慶の手でつくり変えられるだろう。
墨の色をした両目は、希望も絶望も等しく俯瞰する。誰も信じない代わりに誰にも裏切られない道を、貞慶は選んだのだ。
貞次は目を閉じ、音をたてずに微笑んだ。
(お前がいちばん、家族をすきだったのにな)
( 小さく聞こえた謝罪の言葉が、たぶんきっとそれがほんものだ。 )
小笠原貞次と小笠原貞慶
貞次は貞慶に殺された説。




