子供に還れぬ皐月を過ごす
「あなたはなにを望んでいるの?」
その問いにどう答えたか、長慶は思い出せなかった。あれはいつの事だっただろうか。もう随分昔の記憶だ。色褪せた景色と錆び付いた人々と、褪せない藍。悲しい記憶に呼び覚まされる声音。
振り返れば悲しい事ばかり覚えている。胸の奥から咽喉へと突き上げる、冷たくて熱い、清冽に澱んだ、暗闇の情動。
多くの人の死を見て来た。多くの人の悲しみを見て来た。それより多くの、憎しみを背負って来た。
『私は狡い男なのさ。そうやって無様に生き永らえても、私は貴方の為に生きる事を止めない』
『俺たちなら平気だぜ、兄者。何せ、俺たちはあんたの為に生まれて来たんだからな』
『それでも俺は、貴方を恨みはしない。初めから、貴方の為の命なのだから』
振り返れば随分多くの苦しみに遇って来た。家族が、大切な仲間が、自分と同じ目で見られる事が、何よりも辛かった。
「悪人は私一人で充分だ。君たちが同じ道を歩む必要は無い」
弟達は、家臣は関係ない。悪人は、偽善者は、殺戮者は自分なのだ。
長慶は幾度、そう叫びたかったか。それももう、数える事を止めて久しかった。
憎悪される兄の為に生きるなと言いたかった。彼らには彼ら自身の命を生きて欲しかった。しかし弟達が選んだのは兄の為に生きる命だった。
『ボクらかて、嫌やったら嫌や言うてますやん。好きでアンタさんの所に居てますんやで』
『ちいちゃい頃からの縁ですやろ。弟できたみたいで嬉しかったんですわ』
これ以上、自分の為に命を賭けるなと言いたかった。命は誰にも侵害されない、その人自身の宝なのだから。
長慶は幾度も、そう叫びたかった。命を奪うことに苦しみ、奪った命を思って苦しんだ。
命に貴賤の差など無いのだ。押し潰された父の命も、長慶が押し潰した仇敵の命も、等しく宝であるはずだった。貴人だから、凡人だから、それが何だと言うのだ。誰しもが侵害されざる命を持っているではないか。誰しも、同じ人ではないか。
幼い日、三好家の当主として生きる覚悟を決めた時に、誰かの命を奪う事もその為に憎悪される事も、その憎悪を背負う事も決意した。他の誰かが命を守るように、長慶の父もまた、命を守りたかったはずなのだ。
(なぜならあの時、父様は子供が生まれる事を知っていた。会いたかっただろう。大きくなった子供を見たかっただろう。父様は終に、その願いを叶えられなかった)
生まれた子供が男の子だと、双子だったと、元長が知ったら何と言っただろうか。周囲は縁起が悪いと騒いだ。男児の誕生は歓迎しても、双子の誕生には眉を顰めた。だが元長なら、きっと喜んだだろう。跡継ぎという意味でなく、元長は子供が好きだった。家族を大切にしていた。どんなに人に憎まれても、元長は優しい父親だった。
(ああ、あれは父様の十三回忌の折だ)
元長を偲ぶ為に、優しかった父の死を悼む為に、兄弟が集まった時の事。
下の弟達は、顔も知らない父親の死をどう思っていたのか。何しろ、元長が死んだ年が、彼らの生まれた年なのだ。その年、長慶は十一だった。上の弟達は六つと五つだった。父親の記憶はあっても、顔まで思い出せるだろうか。
それでも、彼らは父を想い、泣いた。
『兄上があまり泣いては駄目だよ。誰も仕切れないじゃないか』
『仕方が無いだろう、出てくるものは止められない』
『兄者、目ェ真っ赤だぞ』
『言うてやりなや又四郎。殿サンはな、大殿サンの事はっきり覚えてはるさかいにな』
『…………』
『ありゃ、万五郎大丈夫か? ほれ、洟かみ? はい、ちーん』
『……自分で出来る……』
『殿サンもな、ええ齢なんやから自分で拭かはらなあかんでしょう?』
『やんなぁ。いつまでも童子のまんまじゃあ居られへんのですよ』
『……うるさいぞ、甚介、弾正』
『あ、そや。安宅サン、どこ行ったんやろ』
『ほんまや。どこ行ったんやろな』
悲しい記憶に呼び覚まされて、あの日の声が鮮やかに蘇る。
今より若い松永兄弟の声。幾分幼い之相の声。声変わりの真っ最中で掠れ放題の一存の声。兄より一足先に変声期を抜けた冬長の低い声。
途中で姿が見えなくなった冬康を探す声。
『勝手に抜け出したのか? 探してくるから、此処で待っていてくれ』
溢れる涙を無理矢理手の甲で拭って駆け出した。行ってらっしゃい、と気の抜ける久秀の声が追って来た。長頼は涙でくしゃくしゃの弟達をからかって励まそうとしていた。
『万五郎はいつの間ァにそないに野太い声にならはったん?』
『……変な声で悪いか』
『そう拗ねんといてや。な、又四郎もこんな声になるんかな?』
『あー、なりそやな。ものすっごい濁声ンなりそやわぁ』
『父上の声も低かったかな』
『んー……どやろな。ちょっと殿サンに似てるかな』
『そっか。ぼ……私はあまり覚えてないな』
『んん? あれ? どないしたん、豊前クン。ワタシなんて言いはるん?』
『……い、いいだろう別に何だって!』
『へぇー、そっかぁ。殿サンの真似してはるんやろ』
『かいらしなぁ。ボクらも真似してみよか、兄ィ』
『兄者、似合わねー』
『お前にだけは言われたくないぞ!』
「摂州」
人気の少ない寺の裏手に、冬康は居た。
緑の眩しい植え込みをぼんやりと眺めて、膝を抱えて座っていた。
「あれ、兄さん」
「あれ、じゃない。急に居なくなるから驚いたぞ」
「うん、ごめんなさい」
心ここにあらず、と生返事が帰ってくる。
隣に腰を下ろして、長慶も植え込みに目を向けてみた。柔らかそうな緑が濃緑に紛れてちらほらと見える。花は咲いていないようだった。
「兄さんは、」
「うん?」
「父さんのこと、いっぱい覚えてるんだよね」
「ああ」
冬康は遠くを見つめたまま尋ねた。
「どんな気持ち?」
「…………」
「いま、どんな気持ち?」
長慶は冬康の横顔に目を当てた。一人で泣いていると思ったが、涙の跡はどこにも無かった。
「兄さんは一昨年、父親になった。ぼくはまだ子供はいないけど、兄さんは、どんな気持ち?」
三度、冬康はそう尋いた。
長慶は目を緑に戻して、多感な弟に答える言葉を探した。
「……悔しい、かな」
「どうして?」
「子供は可愛い。自分の子供なら尚更だ。千熊は今年で三つ。だが父様は、又四郎と万五郎が大きくなった所を見る事無く、亡くなられた」
「…………」
「子供の一年は早い。あっという間に大きくなる。ついこの間生まれたばかりだと思っていたら、もう言葉も覚えている」
長慶は息子が生まれたときの事を思い返してみた。小さくて柔らかくて、皺くちゃの変な顔をした、温かな命。産婆が取り上げたら盛大に泣いたという。長慶が初めて見たときは、母親の腕に抱かれて乳を吸っていた。
あの小さないきものが、今では元気に走り回って、しきりに話しかけてくる。最近覚えたばかりの「ちちうえ」という言葉を誰彼構わず連呼しているのが、当の父親としては複雑な気分だった。
「かわいいよね、千熊は。ぼくにも『ちちうえ』って飛びついてくるんだよ。ちゃんと教えたの?」
「言葉の意味までは覚えていないのかな。私を呼ぶ時は『とー』と言っていたから」
「あらら。じゃあまだ先は長いね」
ふわっと笑みを浮かべて、冬康は少し俯いた。
「そう……先は長いんだよね。いずれ、千熊も元服して大人になって、子供が出来て。兄さんはお祖父ちゃんになって。その頃にはぼくも子供がいるのかな。兄さんより早くお祖父ちゃんになることはないと思うけど」
「なられても困る」
「だよね。…………父さんは、『父さん』のまま、死んじゃった。お祖父ちゃんになれなかった。生きてたら、今年は四十四歳なんだよね」
長慶は答えられなかった。
「やっぱり、ぼくも思うよ。悔しい、って。お祖父ちゃんって呼ばれる父さんを見たかった」
それは長慶とて同じである。孫の顔を見せたかった。元服前の子供だった長男が、今では父親なのだ、その父である元長は祖父なのだ。そう報告したかった。
人は墓前に告げれば良いと言うだろう。だが墓の下に居るのは元長ではない。命を失った抜け殻なのだ。抜け殻は何も言わない、何も答えてくれない。だからそれは元長ではないのだ。
「本当はね、今日ここへは来たくなかったんだ。ぼくがどれだけ無力か、思い知らされるみたいで嫌だった」
「父様の事を言っているのか?」
「ううん、それもあるけど、それだけじゃない。父さんがもう居ないのは分かってる。もう絶対に戻ってこないのも分かってる。時は流れてしまったんだから。なのにぼくは何もできなくて、居なくなった人を取り戻せなくて、だからぼくは無力なんだ」
「…………」
「どうしようもない事なのは承知してるよ。そんな事、誰にもできはしないんだ。だけど……だけど、ぼくは」
「もういい」
振り切るように長慶は言った。聞きたくなかった。時の流れを巻き戻せない事を無力と言うならば、一番無力なのは長慶だ。過ぎた時の流れの呪縛を解けないまま、大きくなってしまった。
「もう数えるな、父様の居ない時を。還らない人を願うのは、もう止めろ」
「……兄さん……」
「悲しいなら泣けばいい。悔しいなら憤ればいい。私たちに出来ることはそれしか無いのだから」
遺された者に出来るのは生きる事だけなのだから。
冬康は目を見張ったが、泣かなかった。泣く代わりに、言った。
「じゃあ、ぼくは笑うよ。楽しい事をいっぱい覚えておくことにする」
それなら悲しくないよね。冬康は呟いて、精一杯の笑顔を作った。胸に痛い笑顔だった。
(あの後、私は全てを覚えておこうと思った。楽しい事は摂州が覚えておく。ならば私は、私が生み出してしまった悲しみを全て覚えておこう、と)
それを言えば冬康が反対するのは分かっていたから、長慶は「そうか」とだけ答えた。そうしたら、冬康は怪訝そうに首を傾げて訪ねてきたのだ。
『あなたはなにを望んでいるの?』
「兄」ではない「あなた」は何を望むのか、と。
見透かされていたのだ。痛みの記憶を受け入れる決意を。
(私は何と答えた?)
望んでいたのは苦しみではない。辛さも痛みも苦しみも悲しみも憎しみも全て受け入れて、そして望んでいたのは、一体何だっただろうか。
長慶は思い出そうとした。けれど、どうしても思い出せなかった。
ひとつながりの記憶の中で、そこだけぽっかりと抜け落ちてしまったかのように、その問いに返した答えだけが思い出せない。
それほど難しい事だっただろうか。忘れてしまうほど些細な事だっただろうか。
(どうして思い出せない?)
長慶の記憶力はまだ老いてはいない。見聞きした事を忘れてはいない。
ならば何故思い出せないのか。
考え込んだ長慶に、襖の向こうから久秀の呼ばわる声が聞こえた。
「入れ」
思い出の中の若い面影が、襖を開けて入ってきた久秀に重なる。久秀も年を取った。もう五十路も半ばである。
暗く翳った久秀の表情から、長慶はその用件が訃報であると悟った。
果たして久秀が告げたのは冬康の死だった。
「医師の皆さんも手ぇは尽くしてくれはってんけど……ついさっき、亡くならはりました」
「そうか……」
また悲しみが一つ、長慶の記憶に加えられた。若い者ばかりが死んでいく。長慶はまた、取り遺された。
「弾正」
「はい」
「葬儀の手配を。甚太郎も呼んでおけ」
後悔はしないと誓った。こうするのが最善だった。重病人に船旅をさせても、淡路に居るよりこの飯盛山城に居た方が良かったはずだ。ここなら優秀な医師にいくらでも診せられる。だが、その医師の手にも負えなかったというだけだ。
それならば、せめて近くに居られただけで、長慶は幾らか慰められた。自分の知らない所で死なれるのは嫌だった。
(私はまた、我儘を言ったな。私の都合で物事を動かした。私の都合で、命を動かそうとした)
傍に居て欲しいと思ったのは本当だった。しかしそれは、長慶の自己満足に過ぎない。他人の自己満足に巻き込まれた冬康は、さぞ迷惑だろう。いつでも笑顔を絶やさなかったあの弟がそんな事を面と向かって言うなど考えられないが、それでもきっと、心の中のどこかではそう思っていたことだろう。
他人の自己満足に巻き込まれて、元長は死んだ。いままた冬康も、同じように死んだ。
(人とは結局、自己満足を振り翳し誰かの命を押し潰さなければ生きられないのか。それならば私の願った日々は)
『……私は、静穏を望む。静かに、誰にも干渉されずに、ただ家族と暮らしたい。それが例え、』
(叶えられる事など、決して無い)
無為な願いだったとしても。
終
三好長慶と家族
万五郎は野口冬長で、十河一存とは双子という設定……だったはず。