サタンの端くれ
ばちばちと木材の爆ぜる音が辺りに渦巻いていた。夜明け前の淡い漆黒を茜に染め上げる劫火が、騒々しい爆音と激情の舞踏で信長を照らしていた。
本能寺に火の手が上がるのは、これが二度目である。破壊の爪牙が伸びた数では四度であった。寺というのは往々にして破壊されるものなのだ。それはなにも寺という器物に限ったことではなく、そこに集う人々も、人々が縋る信仰も、また往々にして灰燼に帰した。そういう事を何度も繰り返してきた信長にとって、今日の本能寺の破壊が特別たり得るのは、その破壊の渦中に信長が居るという点においてであった。寺領はすでに、明智の軍勢によって散々に踏み荒らされている。
信長は火の回りの遅い方へ移動しながら、飛び散った火の粉で弦が焼き切れた弓を投げ捨てた。
「乱、弓を寄越せ」
常に側に控えている乱丸を呼ぶが、返事は無い。ちらりと振り向き、小柄な体躯が炎の下に倒れ伏しているのを見て舌打ちをした。首の辺りに矢が見えた。生きてはいまい、信長は思った。
あちこちで喚声と悲鳴とが交錯して、混沌とした音の塊が潮騒のように揺蕩っていた。信長は壁のように吹き上がる炎を突き抜け、堂宇に入った。四方の壁は明々と炎上していた。じきに燃え尽き、崩れ落ちるだろう。信長は堂の真中に立った。正面に曼荼羅を背負った仏像が見えた。信長は仏の像が嫌いだったが、炎に囲まれ、世界の縮図を負ったその仏像に向かい合った時、不思議に平静な心持ちになっていた。薄く開いた仏の目をきりと見据えて、信長は呟いた。
「僕はお前のように微笑いはしないが、お前と似た縮図を背負っている」
その仏は曼荼羅――悟りの世界の図を負っていた。信長はその背に、彼の手にしてきた諸々と、彼の壊してきた諸々とを背負っていた。それはすなわち彼の得た国々であり、彼の作ろうとした国であった。信長は今までに踏み倒してきた幾多の人々を思い浮かべた。弟信行の切れ長の目や、斎藤義龍の剛直な背筋、浅井長政の冷ややかな微笑、足利義昭の神経質な眉、松永久秀の飄々とした声音、武田勝頼の不器用な渋面。信長はそれらの人々を憎悪してはいなかったが、ただ彼の描く革命の図にそぐわなかった不運を憐れんでいた。
「僕は哀れな人々を多く殺した。哀れでない人々も殺した。壊した。僕は地均しをした」
曼荼羅を背負った仏は、静かに湛えた古拙な微笑で信長に応えた。
「僕は事変なのだ。お前や他の全ての人々はそれを理解しなくてもいい。僕という事変が齎した全てを見れば、いい」
めきめきと材が千切れる音がした。炎の侵食によって、堂宇の梁が重量に耐え切れなくなったのだ。轟音と共に仏像は真っ赤に焼けた木材の下に埋もれた。幾千の火の粉が一つの曼荼羅の終幕に喝采を送るように舞い上がった。信長も手を叩いた。その曼荼羅の死は静穏で騒々しく、鮮烈だった。実に見事だ、と信長は思った。
「さて、次は僕の番だ」
信長は振り返る。揺らめく炎の壁越しに、鉄砲を構える光秀が見えた。信長という事変に幕を引くのは、他の誰でもなく光秀だった。そのことに信長は納得し、同時に光秀を哀れに思った。
「可哀想な男になったな、日州。あれほど僕を第六天魔王だと恐れていた癖に」
照門の向こうの光秀と目が合った。信長は灰に還った曼荼羅に向かい合ったときのように、凪いだ水面ほども静かな心持ちだった。少し目を細め、貪欲な野心家の成れの果てを思った。
引き金の動きは見えず、銃声も聞こえなかった。その一瞬で織田信長という四十九年間の事変は終わった。
「お前の掲げるそれは、他の誰かの望みなのだ」
織田信長
「終わりかけの余白」(明智光秀)と「そして灰へと」(羽柴秀吉)と合わせて本能寺メモリアル三部作(仮)




