誰も愛さないで欲しいから
「お前、俺を裏切るつもりか?」
嘲笑するように掛けられた声が、真理の背筋を凍らせた。
「……裏切るって何よ」
殊更に眼に力を入れて、気圧されないよう覚悟して振り向いた。真理の視線の先には義昌が居た。
「説明しなければ分からねぇか?」
「ええ、ぜひそうしてほしいわ」
口許だけで嗤ってみせる。義昌の前では、真理は毅然としていたかった。
「お前は俺の妻だ。妻は夫を裏切らないものだろうが」
「だったら裏切ってなんていないわよ。私はただ、日頃のちょっとした出来事を手紙に書いて送っただけ。それが裏切りかしら?」
「じゃあ、密告と言い換えれば満足か? 言い訳をするなら、俺を言い負かすくらいの事を言え」
義昌は底意地の悪い微笑を浮かべて言った。真理の一番嫌いな顔だ。義昌がこういう顔をするとき、彼は決まって真理の嫌がる事を考えている。
しかし、今日は真理にも手札があった。
「私が密告したというなら、敵に内通している貴方はどうかしらね。それは裏切りと言わないの?」
義昌の目許が険しくなった。図星を突いたのだ。真理は密かな優越感を覚える。
確たる証拠があるわけではない。けれど、義昌が織田と通じている事を、真理はほとんど確信していた。
「夫の主は私の主でもあるわ。忠誠を尽くすのが道理、だから知らせた。裏切り者は、ねえ、どっちかしら?」
「余計な感傷を……そういうのはな、馬鹿のする事なんだよ」
「程度の低い挑発ね。貴方みたいにいい加減な人を軽佻浮薄と言うのよ」
義昌が鼻で笑った。突き放すような鋭さを持った嘲笑だった。
「だからお前は馬鹿だと言うんだ。迂闊に知らせて、仙太郎がどうなるかも分からねぇのか?」
「……何ですって?」
真理は愕然とした。長男の仙太郎は、甲斐に、勝頼の下にいる。婚姻という薄っぺらな契約で親族となった義昌を、最も効果的に牽制する為の人質だった。
「お前の兄だ、あの殿様のやりそうな事くらい分かるだろ?」
「……そんな事……しないわ、仙太郎は私の息子なのよ」
「俺の息子だというのも、事実だ。可哀想に、母親がうっかりしてたせいで伯父に殺されるなんてな」
「止してよ! 貴方、自分の息子が殺される事が平気なの!?」
悲鳴のような真理の詰問に、義昌はひどく冷え切った微笑で答えた。
「ああ、そうだな」
真理が一度も見たことのない、残酷で冷徹な顔だった。義昌はずっと、この顔を真理の眼から隠してきたのだ。
憎悪、あるいは怨恨。義昌の双眸に揺らめく鬼火は、明らかに、現し世の向こう側を映していた。
「武田の血が入った子供など、俺には不要だ」
「……何……」
「いい加減に理解しろ、俺はお前が嫌いなんだよ」
言い捨てて、義昌は踵を返した。内通の支度か、隠蔽か、真理には義昌の行動など見えてはいなかった。
自らの行動が愛息子の命取りとなる事実、それを義昌に指摘された事に、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。
真理姫(真竜院)と木曽義昌
「炎のように」の二十年後くらい。




