スパンコールの海で
世は賑やかですね、と勝頼は言い、景勝は黙って頷くことで返事に代えた。首肯に籠められた皮肉な思いを、勝頼は敏感に察した。
よい意味で賑やかと言ったのではない。勝頼から見れば、世はまるで餓えた獣の群れで溢れ返っていて、かれらの叫び声や足音や腥い息や、あるいは無秩序な戦闘の巻き起こす喧騒で、がやがやと賑わっている。活気があるかといえば、成る程、活気はあるだろう。だが、それだけだ。秩序も律法も無い。
「俺や貴方も賑わいの内、か」
「……」
景勝は、今度は首を振った。他の誰かと同じとは言われたくない。それは勝頼の心中と同じだった。互いに、父と呼んだ男の影から脱却しようと足掻いている。
「西の様子はどうです、弾正殿」
「……未だ、しかとは」
「……なるほど」
かすかに勝頼は頷いた。険のある目許が更に険しくならないよう意識しながら、もう一度「なるほど」と言った。景勝は嘘を吐いてはいない。隠していただけだった。
天正七年の半ば頃、勝頼は景勝に「織田信長と和解したい」と打ち明けた。御館の乱とそれに続く内戦を経て、それぞれの父の代に宿敵として対立していた武田と上杉は、勝頼と景勝による協力関係という全く逆の状況になった。勝頼は、信玄の敷いた強硬路線から、彼独自の友好路線へと転換したいのだ。上杉とは和解した、次は織田だった。
それを聞いた景勝は、珍しく表情を動かして渋面を作った。武田が織田と和解し、手を結んだならば、武田と上杉の関係はどうなる。景勝はごく僅かな、しかし厳格な言葉で詰問した。勝頼の方針は、織田が上杉を攻撃しないと言う前提がなければ成立し得ない。それとも上杉を捨てて織田を取るつもりか。勝頼は説明の不足を詫びて、上杉と織田も和睦してはどうか、と言った。勝頼と景勝のどちらかが信長との和解を成立させたなら、もう一方もその和議に加われるよう計らう。そういう約定が結ばれた。
以来、勝頼と景勝は各個に信長と接触してきた。交渉の進捗は折々互いに知らせ合った。競争相手ではあるが、そこには誠意がなければならない。不誠実な態度を取れば、せっかく得られた協力関係が瓦解する。だから勝頼はわざわざ雪の越後までやって来て、景勝側の進捗を知らせる手紙が届かない理由を尋ねたのだった。
「一向に、進まない」
「それは俺にも言えます。押し掛けてしまって、申し訳ない」
「……」
景勝は首を振った。誠意を欠いたのはどちらか、追求すれば角が立つ。水に流さないまでも、あえて有耶無耶にして、現状の修好を保つのが得策だった。
意を汲んで勝頼も言葉を切った。しばしの沈黙があった。
それにしても、と勝頼は思う。上杉景勝という無口なこの青年は、一体何を考えているのか。言葉は極めて少なく、表情もまた乏しかった。情感が欠落しているかと思えばそうでもなく、むしろ細やかな気遣いの出来るほうだった。ただそれが表に出ないと言うだけで。
開け放った障子の向こう、庭のほうでがさがさと茂みが動いた。葉に積もった雪を払い落としながら薄褐色の毛玉がころころと転がり出て、跳ねる様に室内に飛び込んできた。きき、きい、と毛玉が鳴いた。景勝の飼っている猿だった。
「今日は姿が見えぬと思えば、庭にいたか」
「その様で」
猿は景勝の膝に飛び乗ると、親に甘える子のように、景勝の衣服や手を引っ張ったりつついたりしている。勝頼にはちらりと一瞥をくれただけで、あとは見向きもしなかった。勝頼は目許だけで苦笑した。
「やはり俺には懐かぬ」
「……きっと、慣れないだけ」
「懐かれぬのはいつもの事です、何にも」
膝に乗った猿を、景勝の指が撫でていた。勝頼はふと目に留まったその小さな動きに、景勝という青年の情感の在り処を見る思いがした。無意識の仕草なのだろう、景勝の双眸は変わらず勝頼に向けられていた。
「可愛いものですか」
猿は、と目線で尋ねる。景勝の眼も、猿に向いた。注目された猿は、きょときょとと二人の男を見比べている。
「ええ、かわいい」
訥々と答える景勝の瞳は、光の加減だろうか、ごく淡い色に見えた。勝頼は薄色の双眸に、一家の当主の酷薄さと、一介の青年の多感さを読んだ。どこか似ている、と思った。景勝は勝頼に、どこかしら似通っているのだ。
(どこがだろう、巨大な先代を戴いた家の後継としてか。それとも、その遺影が示す道を敢えて外れようとするところだろうか)
かつて彼らの父たちは、それぞれ越後の龍、甲斐の虎と恐れられた。それぞれが、毘沙門天を信仰し、不動明王を崇拝していた。仏神の守護を得て互いを打ち倒そうとするふたつの獣の争いを、しかし勝頼はどことなし冷めた眼で見つめてきた。
信玄は謙信が間違っていると言った。謙信は信玄が間違っていると言った。そのどちらもが仏神の名と己の名誉とに誓った真実であるならば、どちらも間違っていて、正しくない。勝頼は若い心の裡に、答えの出ない堂々巡りの問答を植えつけられていた。父の言葉を信じるか、同盟者の言葉を信じるか。
勝頼にとって信玄という人間は、ついに父親たりえはしなかった。いつでも信玄は、勝頼の向こうに違う誰かを見ていた。勝頼の面影から、すでに亡い誰かを思い出していた。それは勝頼の母だったかもしれないし、信玄が滅ぼした諏訪の王だったかもしれない。いずれにせよ、勝頼には、勝頼自身を見つめられた思い出は無かった。
一方、上杉景勝という人間は、勝頼にとって新しい種類の人間だった。一家の主という意味なら義兄の北条氏政がいる。が、氏政と景勝とでは、勝頼の感じる距離が違ったのだ。氏政は遠かった。勝頼には氏政が何を考えているのか皆目分からなかったし、氏政もまた勝頼を分かろうとしなかったように、勝頼には思えた。だが、景勝はもっと近いところにいた。字は上手かったが、口が巧い男ではない。飾らず、気取らず、まっすぐに伝えてくる、そんな言葉を話す人間だと勝頼は思った。未だ打ち解けてはいなくても、景勝は勝頼にとって初めて対等に接する事が出来る人間だった。
(……いや、俺と彼とは似ていない。ただそう見えるだけで、きっと、俺たちの本質はまったく違うところにあるのだろう)
対等であるということは、同様であるということと等しくはない。いま彼らが似て見えるのは、たまたま彼らの選択した手段と目的が同じだったからに過ぎない。交渉による信長との和睦、等しいのはそれだけだ。三国の和を得て、そして何を成すか、そこはおそらく違う。
勝頼は自身の他愛ない考えを切り捨て、白銀に覆われた庭に目を向けた。繁る庭木の枝の形が薄らと見えて、勝頼は見たまま感想を漏らす。
「……今年は、雪が少ないですね」
「近頃、降らぬだけ」
むしろ例年よりも多い、と言外に景勝は答えた。
「海が近いと冷えますか」
「俺は、ここしか知らない」
「なるほど。今日だけなら、甲斐の方が寒いくらいです」
言葉を交わしながら、勝頼は思う。目の前に端座し、膝上の猿と戯れる、ひとりの青年を思う。雪深いこの国で生まれて育ち、凍みいるような波濤を子守の唄に、引き裂くような寒風を纏い、氷と白い吐息とを従えて立つ、上杉景勝という青年。
はじめは文書での会話だった。景勝の書く文字は強く、迷いが無かった。それは文字を書き慣れているという以上に、いま己が何をするのか、そのことを性格に理解しているためだろう。勝頼はそういう感想を持った。
直接顔を合わせたとき、想像していたよりずっと小柄な景勝の姿に勝頼は驚いた。無論、顔に出しはしなかったが、鋭く察したのかどうか猿に殴られた。ほんの子猿であるし、別段痛くもなかったが、景勝は鄭重に猿の非礼を詫びた。周囲では予想外の突発事態に軽い動揺が起こっていたが、その中にあって実に泰然とした行動であり、態度であった。勝頼は、文書の中の景勝と目の前にいる景勝とが、不思議に混ざり合って複雑な像を結んだように思えた。率直なのか、朴訥なのか、豪胆なのか、それとも鈍いのか。その時には分からなかった。
(きっと、そのどれでもあり、どれもが不足なのだろう。奥底が見えない。しかし、信用するには足る)
景勝という人間を知るほどに、勝頼の中でその思いは確実に育っていった。勝頼には、まだ景勝の正体は分からない。それでも信用することは充分できた。
少なくとも景勝は、詭弁じみた言い訳を大義名分に掲げたりはしない。
勝頼にはそれで充分だった。
「俺は波の打ち寄せる大海に馴染みが無い。だからきっと間違っているが、俺は貴方となら、このかまびすしい波乱に船を進められると思います」
「…………」
「精神論と思ってくれて結構。これは山国の人間の他愛も無い感覚です」
勝頼にしては、家族以外に向ける感情として最大級の好意だった。じきに彼らの道は違う方向へ分岐する。けれどそれまでは、ともに歩む事ができると思った。
「……それは、忠告ですか」
「あるいは提言でも、警告でも。解釈は任せます」
気負うことなく勝頼は言った。景勝は、相変わらずの感情に乏しい顔でじっと勝頼を見据えている。
勝頼は景勝を信じる。『だから』不誠実な真似はしないでくれ。『仮に』どちらかの信が崩れたなら、その時は前代と同じ轍を踏むことにもなるだろう。
景勝が勝頼を信用していなくてもよかった。表面上の友好だけでも文句は無い。交わした約定が履行されれば満足だった。
きい、と猿が鳴いた。景勝の膝から降りて、雪の庭へと駆け出していく。
「四郎殿」
景勝が呼んだ。
「何か」
「信用と、信頼は違う」
信じて用いるか、信じて頼るか。
「信頼は、まだ。信用は、したい」
「……忠告ですか」
「ただの、感想です」
少ない言葉の中に、勝頼は景勝の思いを悟った。
信頼するには、まだ時間が足りない。何の躊躇いもなく背中を預けるには、まだ、彼らの間には互いを理解する為の時間が足りなかった。
信用するには、少しばかり遠い。甲斐と越後は離れていて、領域の接する信濃は広かった。そして、結んだ手はわずかな突端であり、やわらかな脇腹を無防備に晒すことはしていない。
けれど、かなうならば信じたい。
「貴方は……勇敢だ。少しばかり俺を買い被ってはいませんか」
「貴方は、嘘を吐かない」
「…………」
「だから、怖くない」
勝頼はわずかに微笑した。先に勝頼が突きつけたのと同じ言葉を返された気がした。嘘を吐かないならば警戒する必要は無い、嘘を吐いたならば害を蒙る前に叩く。
期せずして、約定を再確認する結果となった。
「わかりました。今の言葉、覚えておくことにしよう」
彼らの係わりに必要なのは誠意だった。己を偽ることなく、相手を欺くことなく。時代を鑑みれば青臭い理想論かもしれなかったが、しかし、すくなくとも武田勝頼と上杉景勝の同盟にはそれが必要だった。
同時に、孤立という孤独の只中にいる勝頼が希求する存在として、景勝を選ぶためにも、誠実であることが絶対条件であった。
綺羅星が瞬くように、世のあちこちには火焔があった。
煌星の閃光のように、世のあちこちには人々があった。
またたきの刹那、炸裂した星々は細かな破片となった。
きらびやかな破片の満ちる海で、彼らは少しだけ歩み寄り、わずかのあいだ手を取って、不器用な船で漂う。
いつか彼らがまたたきの破片となるまで、海の中で。
終
武田勝頼と上杉景勝
参考:鴨川達夫「武田信玄と勝頼」、谷口克広「織田信長合戦全録」