諜報員と諜報員と
鼻水を垂らした少年がたたっと近寄って、ある一軒家の玄関のステップに腰かけてぼんやりとしている青年に話しかけた。そこは白い一軒家で、よくある芝生の庭付きの家だった。
「何してんの」
「友人を待ってんのさ、今日は結婚式があってね、出席すんのさ」
「へえ、そう。それよりなんか面白いことない?今暇なんだよ」
「お前、聞いといて今すげえ適当にあしらったね、まあいいけどさ」
「暇なの~」
と手をバタバタとさせた。
「はいはい、でも面白いことねえ」
やれやれと言った風に肩をすくめたたが、青年は、少年の相手をしてやることにした、彼も暇なのだ。
「なんか、面白い話をしてくれるのでも良いよ、僕、クラスの出来事をちょっとした新聞にしててそれが評判なんだけど知らない?」
「悪いね、知らない。ふうん、新聞ねえ」
「今月の分はまだ内容が決まってないから、なんか面白い話してよ、、参考にするからさ。」
「初めからそれが狙いか」
「あ、面白い話が思い浮かばなかったら最悪つまらない話でも良いよ」
「さっきからグイグイ言うね、まあ、良いよ。友人が迎えに来るまで暇だからね。面白いかつまらないかはわからないけれど、ちょっと昔の話をしよう。大帝日本国の話をね」
西暦二〇一一年。
大帝日本国が取り仕切る大陸決起集会、の三日前、五月十四日。都京帝大学では、まだ、二限が終了した直後で、昼ノ休憩ノ部に入って一刻も経っていないころだった。
氷室太郎 は、食堂でお盆に食べ物を載せれるだけ載せてレジに運んでいるところだった。昼飯時の混雑の中、そのヒョロヒョロした体を流れに逆らってあちこちにぶつけながら会計へと向かっていた。
レジ打ちの従業員は、顔色を一切変化させず、黙々と彼の分の清算も済ませる。学生証が電子金にもなっていて、集積回路を使って、煩わしいお釣りのやり取りをしなくても事前に課金をすれば使えるようになっていた。
会計の流れを通り過ぎて、お茶を汲みに行き、そして、野菜に調味料を掛けて、キョロキョロとあたりを見渡して、目的の場所を探した。すぐに、彼の行く場所は見つかったようだった。というのも、彼は人ごみが一番厚い席を探すだけで良かったからだ。
食堂は、係の人が、この時間帯は一番込みますので席を詰めてご使用ください、と言って回っている。詰めて詰めてようやく入るかどうかわからない人数が食堂に押しかけるのだ。それもそのはず、この都京帝大学は、内地外地合わせて毎年五千人が入学し、それぞれが大学四年生までいることを考えてみるだけでも、実に二万人。しかも、一部の学科は六年生であるし、大学院、つまり修士、博士課程の学生や、教職員を合わせると二万では済まない。それだけの人数を捌くのに、六つの食堂しかないのだ、混み合うのも当然である。
氷室太郎は、そしてその中の一際混み合っている部分の中空である台風の目へと向かった。
「やあ、氷室くーん。君は今日もしけた面をしているね。ダメダメ。僕を見習って、さあ、ほら、もっと綺羅綺羅を振りまくんだ……、おっと失礼、すぐに顔を変えるのは無理か、なら、僕の顔を印刷したお面を付けると良い。後で印刷してきてあげよう」
一際、目立つ男が氷室太郎の方を向いて、輝かしい真っ白な歯をきらめかせ、髪を右手でさらりとなびかせて声を上げた。彼の名前は皇極千。滑らかな色素の薄い髪がなびくとそれだけで空間が輝いている。顔は超が付くほど整っているイケメンであり、氷室太郎はぶしつけな皇極千にぎりりと歯噛みをしながら答える。
「結構だ!! 別に、顔の良さが人生を、決めはしないだろ」
とはいったものの、氷室太郎は、如何ともしがたい顔面偏差値の歴然とした差を自覚しているだけにイライラしていた。
(俺は、もっと大切な目的があって生きているんだ、顔だけが全てのお前とは違う)
冴えない工学部電気電子工学科の大学生氷室太郎は、自分を保つために問題をすり替えて心の中で毒づいた。
「まあまあ、そう怒るな、僻むなって、ほらほら、僕の顔でも見て落ち着くんだ」
氷室太郎は、もう早速カンカンに怒って、今にも爆発しそうだった。
「氷室くん、取りあえず座ったら。そんなに気にすることは無いよ」
と取り持ったのは、緑竹真理だ。髪の毛は目が隠れるほど伸びきっていて、その上、厚ぼったい眼鏡が顔を覆い隠している。実験を抜けてきたばかりなのか、上下は汚れても問題無いような単色で単調な着古しただぶだぶの服を着ており、女の子とは思えないほど身だしなみには気を使っていなかった。彼女は理学部きっての才女として有名である。
「太郎、どんまい」
と盛大に笑いとばしたのは、上背が高い縛道さしきだった。胸からは豪快に盛り上がった二つの塊が扇情的に、シャツをはち切れんばかりに引っ張っている。長い髪の毛を後ろに一括りにしていて、その絹のような束は滑らかに垂れ下がっている。頭髪が美しいだけでなく、彼女の顔は彫りが深くて、高い鼻はキリリと凛々しい。
笑い飛ばされて、さらに氷室太郎はかっとなった。縛道さしきも空気を読まないで発言するきらいがあった。女の子だけど、豪胆なのだ。
「なんでこう問題児が多いかなあ、全く」
少し小柄な青年、蓬莱一一が、縛道さしき等を見ながら薄い目を細めて息を吐いた。
距離を置いてそんな様子を見ながら、ほとんど口を挟まずに黙々とご飯を食べているのが、喪上葬一である。童顔の美少年だが、どこか無感情な鉄面皮で、他の者たちは彼が笑っているようなところを見たことは一度も無かった。機械のような人間で、凡そ非の打ち所がない非常に優秀な人間で、医学部医学科の生徒であった。
こうして、六人が揃ってご飯を食べていた。この六人の周囲に人が集まって人だかりが出来ている。正確には、氷室太郎を除く五人に群がっているのだ。
周囲に集まっている人間は口ぐちに、氷室太郎をさして聞こえないように陰口を叩いていた。どうしてこの面子であの何の変哲も無い人間が一緒にいられるのかしら、とか、恥ずかしくならないのかしら、などといったような内容である。
一見彼ら六人は何の共通項も無いように見える。しかし、この六人が一緒にご飯を食べるというのにはそれなりにわけがあった。
彼らは同じ活動団体に所属していたのだ。その名もむさらこい。ここにいる六人は全員、小説研究会むさらこいに所属しているのである。
楽しく(?)談笑している六人だった。
突然、盛大に何かを落とした音が建物中に響き渡り、一時、食堂中が静まり帰る。
「馬鹿野郎!! 落としてんじゃねえ!!」
「すみません、すみません」
と平謝りしている声が続いて起こる。怒鳴っているのは、食堂の店員のようだ、そして、怒られているのも、店員のようだ。殴りつける鈍い音が響き渡る。
「お前さあ、国帰れよ。 使えねえなー!」
殴られたのは、青い瞳をして、黄色の髪の毛を持っている外地の少年であった。
怒られているのが外地の人間だとわかると、皆再び一様に談笑を再開し始めた。その男は少年を、一層殴ったり蹴ったりしていたが、もう誰も気にする者はいなかった。
氷室太郎は、その様子を悲しみを湛えた目で見つめ、そして、何事も無かったかのように慌てて目を逸らした。
小説研究会むさらこいでの日常は、甚だ日常的に始まりを告げたと言って良い。多少のごたごたはさておいて、取りあえず新入生八人は同じ団体に所属する者同士自然につるむようになっていった。二人はいつの間にか消えてしまって、残りの六人でいつも一緒にいることが多かった。
残りの二人も仲が良かったのだが、突然行方がようとして知れなくなった。
むさらこいに入った主に顔の良い新入生達のおかげで、むさらこいは一躍一回生で有名な団体と相成った。
ところで、氷室太郎は、誰にも言えないある秘密を抱えて、毎日を暮しているのであった。少し顔が良いから図に乗っている皇極千や、気の合わない縛道さしきなどの存在に我慢してまで同じむさらこいにいるわけがあったのだ。
小説研究会むさらこいの例会が始まった。この団体は毎週月・木の午後7時から、例会、と言う名のお喋り会を開いていた。今回は月曜日の例会である。
きゅぽん、と黒の油性筆記具の蓋を引き抜いて、蓬莱一一は白板にさらさらと文字を書いていった。
「今年の学園祭に出す部誌はどんなものを書くか決めるべきだよね」
むさらこいの部室の一番奥から、部室の中央のちゃぶ台周りでたむろしている部員達に問いかけた。いつもの面子が揃っていて、この話を切り出すのにちょうどよいと蓬莱一一は判断したのだった。
緑竹真理は、ちゃぶ台でレポートを仕上げていて、氷室太郎はその隣で語学の課題をやっていた。
縛道さしきは、重そうな二つの塊をたゆんと胸にぶら下げて、仰向けに寝転がりながら喋った。
「どうせ出すなら、江戸時代の強そうなやつが良いよね」
蓬莱一一は呆れて突っ込んだ。
「適当に答えるな、それは部誌やない武士や……それに面白くないし。そうじゃなくて、むさらこいの冊子のことだよ」
「ああ、そっちね、はいはい。でもそれ、ちょっと気が早すぎでしょ、学園祭は十一月だ」
「……確かに早い」
美少年、喪上葬一も、同調するように呟いた。
「とか言って、去年散々だったのは覚えていないかな、さしき」
蓬莱一一はぴしりと言い放ち、さらに追い打ちをかけるように続ける。
「去年の部誌がどういうことになったとか覚えているよね? 先輩がいなくなって、色々あって多数決で俺が責任者になった。そのときはもう十月半ば、で、これ完成無理だろ、ていうか無理じゃね、って状況。だけど誰も協力してくんなくて、全然原稿集まんないじゃんね? で結局出来たのが悪ふざけの究極系だよ」
「何だっけ?」
「前衛文芸だとか言って、文芸版四分三十三秒になった奴さ! 四分三十三秒は演奏者が何も弾かない曲だけど、俺達の奴は、全頁真っ白ていうね。で、そのとき、さしき、お前俺になんて言ったか覚えてる」
「いや、全く覚えてないけど」
「原稿集めるともっと早くからわかってたら、ちゃんと原稿出したってね」
「う~ん、そんなこと言ったかもしれない、けどわかんない」
「今年はちゃんと完成させて出さなきゃな」
「書いたら出すわ」
「書くんだよ」
喪上葬一はそんな縛道さしきと蓬莱一一を見比べていた。ところで、先ほどから皇極千は大人しく、夢中になって窓の外を眺めているようである。……単に、窓の外ではなく窓に映る自分の姿に酔いしれているだけだった。
縛道さしきは、仰向けのまま、ぶつくさ言い始めた。
「私も暇じゃなくてね~、今財布になってくれる男が十人、彼氏が三人……体が足りないんだよね」
氷室太郎は思った。
(こいつ……最低だ)
蓬莱一一は聞いた。
「浮気がばれたらどうするんだ」
「大丈夫、大丈夫、上手く立ち回ってるから」
そのとき、強引に部室の扉がどんと開かれて、一人の男が現れた。顔は涙に掻き暮れて、手には包丁を持っている。その刃物に、この部室にいる縛道さしきを除く全員が、瞬時に反応して警戒度を上げた。
その男が、叫ぶ。
「お前、俺の他にも付き合ってる奴いるんだってな!! 俺は、俺は遊びなのか!?」
やっぱり上手く立ち回ってなんか無かったか、と皆思った。
縛道さしきは慌てて寝転がっていた体勢から起き上がる。
「いや、遊びだなんてそんなことないよ、そんな、あははは」
「一緒に死んでくれ!! お前を殺して、俺も死ぬ!!」
氷室太郎は、とんだ悪女に入れ込んでいるな、とその男を不憫に思った。
縛道さしきはその言葉を聞いて突然神妙な表情になって、さりげなくその男にすり寄って自分の体を密着させて、甘い言葉を囁く。
「あなたが私のことをそんなに愛してくれているなんて知らなかった。今自分の本当の気持ちに気づいたわ、私が本当に好きなのはあなただけだって。私、あなただけを愛してる」
「さしき……」
包丁が手から離れて床に転がり、そして、二人は抱き合った。抱き合ったまま、縛道さしきはむさらこいの皆にいたずらっぽくウインクをした。なんて悪女だ、氷室太郎は、小声で呟いた。
半開きになっていた扉が、再びけたたましい音を上げて荒っぽく開けられた。そこには、手に草刈鎌を持って立つ男がいた。二人が抱き合っている姿を見て茫然として、目から涙を流した。
「僕と一緒に死んでくれ!!」
抱き合っていた男は驚いて、縛道さしきを離した。
「この男は一体誰なんだ?」
二人の男が向かい合い、険悪な雰囲気となった。
草刈鎌を振り上げようとする男に、縛道さしきは慌てて、再び色目を使ってすり寄って、甘い言葉を囁いた。
「……愛しているのはあなただけ」
男は、草刈鎌を落として頬を上気させた。今の縛道さしきの言葉に先ほどの男が反応した。
「どういうことだ、さっき俺だけを愛しているといったじゃないか」
縛道さしきは、ぎくり、とうろたえた。
「え、ええ、言った、言ったかなあ?」
ちょうどその時、携帯電話が着信をしらせてけたたましく鳴った。鳴ったのは、縛道さしきの携帯で、縛道さしきは携帯を確認すると
「私、抜けられない用事がちょっとあるから、じゃ、また」
これ幸い、とこの空間から颯爽と抜け出した。呆気に取られる者達を置いて、逃げ出していった。残された男二人はしばらく立ちつくしていたが、やがて、彼女を追って扉の外に走って行った。
蓬莱一一は、その姿を複雑な心境で見つめていた。
氷室太郎は、その様子を眺めて一体何の用事なのだろうか、と疑問に思った。そんなことを思っているとき、氷室太郎宛に電子文書が携帯に届いた。八桁の暗号を押して、画面を開く。
その内容に目を通してから削除し、氷室太郎は、遂にその日が来たか、と思った。しかし、彼は感情を顔には一切出さずに、彼も下宿へと一旦帰ることにした。
明日深夜〇一時〇〇分に、都京帝大学第三学区域先進理工学棟浅沼研究室から研究の成果を奪え。
氷室太郎に送られた文面は、それだけであった。
氷室太郎は、下宿に戻った。氷室太郎の下宿は、六畳で、便所、風呂無しで、申し訳程度の台所とガスコンロが付いていて、家賃三万円の、学生によくある必要最小限の部屋に暮らしていた。
部屋の奥にある箪笥の引き出しを次々と開けて、それぞれの棚のそこに隠してある書類を引き出して、全て細切れに引き裂いてから一まとめにする。
冷蔵庫を開いて奥の板のねじを全て外して取り出して、そこの裏に隠してあったソ連製の電子記憶媒体は、電子調理器具の中に入れて電磁波で完全に使い物にならないように内部回路を焼き切った。
一まとめにした紙の束は、そのあとに裏山に持って行って穴を掘り、そこに入れて火を付け、消し炭になったことを確認して土で埋めた。
それら全ての作業を終えても、まだ、午後五時を少し回ったところだった。氷室太郎は、床板の一枚に布をあてて金槌で下に叩いて行く。コン、という音とともに床板の片側が下に落ちぬけて、もう片方が跳ね上がる。そして、そこから氷室太郎は大型のナイフを取り出した。スペツナズナイフという特殊なナイフだ。それを取り出すと、今度はそこに空いた空間を埋めるための木材をはめて何事もなかったかのように元の状態に戻した。
氷室太郎は、万が一盗み出すことを失敗して足がついてしまったときのために、部屋に隠してあったソ連本国からの内文書を全て処分したのだった。
全ての処分をしている間に、考えていたことは、氷室太郎自身にも驚きなことに、むさらこいのことと、それと、緑竹真理のことだった。
(緑竹真理と初めてあったのは、むさらこいでだった。緑竹真理は、いつも落ち着き払っているようで、素がおっちょこちょい……。もし俺がソビエトのスパイじゃなかったら、もっと親密になれただろうか。いかんな、思考がドンドン深みに嵌ってってる、殺すことになるかもしれない対象に近づきすぎてるな……、むさらこい、か……)
氷室太郎は、万年床に寝転んでぼんやりと天井を眺めた。
(俺がむさらこいに所属しているのは、何もあのサークルにスパイが他にもいる、という情報のためだけじゃないよな、やはり、アイツがいたのが大きい。まあ、アイツもスパイだが)
一人で、氷室太郎は、くすりと笑った。
(お国柄、というのかもしれないが、一発で緑竹真理はスパイだって分かったな、あの国は人種制限とかしてるせいで、スパイと言えども、見た目でなんとなく、あっ、独国の人間だってわかるんだよなあ。
あの、顔を覆い尽くす髪と分厚い眼鏡も似合ってないし、それが勿体ないんだよなあ、顔の素材は無茶苦茶整って、綺麗なのに勿体ない)
目をすっと細める。
(独国のスパイと中華人民共和国のスパイがいるらしいという情報だった。が、結局、中華人民共和国のスパイは誰だかわからずじまいだったな、まあ、単なるガセだったと思いたいね)
手の中でスペツナズナイフをクルクルと弄んで、氷室太郎は、ぼんやりと決行の時を待った。
夜も更けて、午後一時を少し回った頃。
満月の二日前だったが、どんよりと重なった雲がその光を隠してくれていて闇夜が濃い。
先進理工学棟は、北部校内の更に北の端に存在しており、また、御影通りという古くからある道路がそこから北に百メートルほど行ったところにあった。時折、その道路からクラクションの音が聞こえてくる。先進理工学棟は、外側にも階段がついていて、各階に入り口がある四階建ての建物で、また、全体的にHの形をしている。
氷室太郎は先進理工学棟を目前にして、侵入経路を確認していた。大陸決起集会が二日後に迫っているため、主要な教授、研究員達はそれに付随して行われる学会の発表の準備に追われて、この棟には誰もいなかった。ただ、全ての扉に、暗証番号式の鍵が備え付けられていたし、建物の周囲には監視カメラが数台と、もう少し離れたところに警備員が一人常駐している小さな監視所があるため、侵入するのは容易ではなかった。
(普通の人には無理だが、俺にとってみれば侵入するのは出来ない話じゃない)
氷室太郎は、闇に乗じて、駆け抜ける。カメラは建物の周囲の地面を死角なく撮影していた。
このカメラに映らないで侵入する方法はいくらかあった。一つの侵入方法に、下には無いが上空にはあるカメラの死角を突く方法がある、それが氷室太郎のやろうとしている方法だった。
氷室太郎は、先進理工学棟の隣の五階建てである理学研究科四号館の外壁のタイルに、指とつま先を掛けて駆け上がる。みるみる内に屋上までたどり着くと、先進理工学棟を眺めた。
隣と言っても、その間は二十m以上離れている。しかし、氷室太郎は顔色を全く変えずに屋上のへりから離れて、十メートルほど助走距離を稼ぐ。それから、先進理工学棟の方へと振り返ると、息を整えて全力で走り始める。氷室太郎は、その貧弱そうな見た目に反して、わずか六m程の助走で全速力に達し、フォームを整えて屋上のへりに足をかけて大きく飛んだ。
凄まじい勢いで先進理工学棟に近づいていくが、同時に重力に引っ張られて、ドンドンと落ちていく。
地面に落ち切るよりも早く、先進理工学棟に到達して、二階の階段のそばの壁に氷室太郎はぶつかった。完璧なタイミングで伸ばした両足を壁に押し当てて、それから屈伸運動で衝撃を見事に和らげて分散させた。大きな音を立てることも無く壁に着地して、そして、二階のドアの前へと降り立った。
(とりあえず、侵入は問題無くクリアだ)
暗証番号を打ち込みロックが解除されたのを確認してドアを引き、建物内部に入った。つまり、Hの左下に当たる部分から氷室太郎は侵入に成功した。
(浅沼研究室は三階の東端にあたる場所にある、そう遠くはないな)
そう、確認して建物の中に進もうとしたとき、視界の端に何か映った。直感的に、ドアのガラスを通して外を見ると、氷室の目はそこに人影を捉えた。そして、その人影は、一階のもう一方の入り口に近づいていた。
(なっ!!)
そこには、同じようにこの先進理工学棟に侵入しようとしている縛道さしきの姿があった。カメラに全く映らないか、というと確実ではないが、闇の一番濃いところを縫って少なくとも顔は絶対に映ることがないように進んでいた。黒いコンバットスーツに着替えていたが、自己主張の激しい胸は隠しようが無かった。
(アイツもスパイか? なら中華人民共和国のスパイか? ていうかなんだあれ、縛道、本当に潜入するつもりあるのか?)
縛道さしきは、両手にギラギラと輝く銃を持っていたのだ。使うたびに大きな音を立てる武器しか持って来ていない縛道の姿。氷室太郎はその大雑把さに驚いた。氷室はというと、腰にスペツナズナイフをさしているのみで、最小限の装備で身軽にしていた。氷室は、もう少し詳細に観察して、縛道さしきは持っている銃を判定した。
(右手に持っているのが、回転式連発拳銃でS&W社のM29、そして、左手に持っているのがセミオートマチックのコルトガバメントか。銃撃戦でも繰り広げるつもりか?)
そして、腰にさしているスペツナズナイフがいつもより重く感じられた。
(もし俺と目的が同じならば、俺は、縛道を殺さなければいけないのかもしれない)
氷室は、むさらこいの中で彼が気に食わないと思っている者ですら、殺したくない仲間であると、自分が心の奥で思っていることに気付き、自嘲気味に渇いた声で薄く笑った。
縛道さしきは、建物の中に入ったようだ。氷室は縛道さしきの姿を見逃さないように少し移動をする。二階から向かい合った一階を見下ろすと、建物に入った縛道さしきの姿が氷室は確認できた。冷徹な獲物を狩る目で眺め続ける。
しかし、再び建物の外で動く影があって、氷室はそちらに意識を移した。今度は自分が入って来たところと同じ側から、人影がやって来た。氷室の真下の一階から入るように動いている。それは、ナルシストのあの皇極千であった。
皇極千が手に持っているのは、スリングショットと呼ばれるものでY字型に飛び出た金属のフレームの先からゴムが伸びている所謂パチンコであった。ゴムの復元力によって弾を打ち出すもので、単なる玩具では無く、れっきとした武器である。皇極の手に収まっているものは、強力な中空ゴム使用し、グリップ部に9.5㎜の鉛玉を45発収納でき、また、優に二百ヤード以上を飛ばすことが出来るクラブマンという名のスリングショットだった。
皇極千はカメラに映らないところまで近づくと立ち止まり、なにかの丸めたものをホルダー部に乗せて、ぎりぎりとゴムを引き絞った。
手を離してその弾が飛んでいき、と同時に皇極千は優雅に堂々と一階の入り口まで歩き始めた。そのとき、偶然にも雲が晴れて、派手好きの彼を演出したかのように、月光に髪をなびかせながら入って行った。
先ほどの弾は、単なるビニール袋を丸めたものだった。皇極千は、一つのカメラの前に、ビニール袋を打ち出したのだ。あたかも風で偶然飛ばされてきただけかのようにゴミが一瞬カメラの前に飛び出て、強制的にカメラの死角を作り、彼はそこをついて侵入したのだった。
更なる闖入者に氷室太郎の鼓動は速くなっていった。
(どういうことだ? 中華人民共和国のスパイは二人いるのか? いや、それは無い、中華人民共和国のスパイが二人いたとしてもそれなら同時に侵入するだろう。じゃあ、一体これはどういう状況だ? あまりにイレギュラーだ)
氷室太郎は、一筋縄ではいかない今回の仕事に警戒度を過去最大に引き上げていた。そして、彼の最も恐れていることが起こった。
彼の向かい側、つまりHの左上部分、の外へと通じるドアが開いた。とっさに、空いているドアの中へ体を滑りこませたが、隠れる瞬間、氷室は、誰が新たに入って来たのかを確かに確認して冷や汗を流した。入って来たのは、独国のスパイ、緑竹真理だった。
そんなふうに隠れる氷室の姿を三階から見ている者がいた。
蓬莱一一だ。実は、氷室が飛び移って来た時にはもう既に侵入を終えており、ずっと観察していたのだ。
(氷室君、混乱してるね。ま、そりゃそうだろうね、まあ、そもそも、誰がどこの国のスパイかすらも、あまり情報として持ってなかっただろうからね)
すうっと目を細める。
(流石に全員をやり過ごしてまんまと逃げおおせる、なんて楽なことは出来そうにないな。狙うものを手に入れるには、他の皆をどうにかしないわけにはいかない、か。だけど、それにしても同じ日に同じ場所に集まりすぎじゃないか、どういう状況だ?)
歩き出そうとしたそのとき、またたきすら許されないほんの一瞬、蓬莱一一は、油断なく周囲を眺めていた目に、この建物の外で何か影が映ったような気がした。
(気のせい……、じゃなかったな、今のは。俺の目は見逃さなかった、俺じゃなきゃ見逃してたな? はっきりとはわからなかったが誰かが、走り抜けてこの建物に侵入したってことか。ならば、間違いない、喪上くんだ…………あ~あ、マジか……)
蓬莱一一が眼の端に捉えた影は、確かに喪上葬一であった。
カメラに映らないでこの先進理工学棟に入る方法は、いくつか確かにある。そして、今、喪上葬一が取った方法は、その中でもずば抜けて人間離れの方法であった。彼が取った方法は単純明快だが、最も難しい正攻法である。カメラに映らない速度で突っ切るという荒業だ。ここに設置されている防犯カメラは、fps30、つまり、毎秒30回撮影して動画をつくっている。従って、約0.033秒に一回ずつ写真を撮っていて、一回の撮影ごとに約0.033秒、インターバルが存在している。その空白の0.033秒にカメラの画面外から、この棟の扉の前まで走り抜けたのだ。
(英国の喪上くんまで出張ってくるとは、俺も想定外だねえ。むさらこいオールスターじゃないか。しかし、こりゃまた厄介なことになったなあ。
ソビエト連邦KGBの氷室くん、アメリカ合衆国中央情報局のさしき、独国BDNの真理さんに、仏国対外治安総局の千くん、そして、グレートブリテンSISの喪上くん。そんでもって、俺中華人民共和国の蓬莱一一。揃いも揃ったり、だな。
それと、武器。さしきの二挺拳銃っていう例外は置いといて皆大体一人一つ各々の武器を持ち込んで来ているって感じだな)
そこで、蓬莱一一は、自分の右ポケットの膨らみをぽんと撫でた。
(しかしなあ、こんなに揃いも揃うっつーのは、どういうことよ、妙に引っかかるな……。しかし、本当に厄介なことになった。あの喪上くんまでも何とか出し抜かなきゃならんとは骨が折れるぞ、これは……)
そのとき、一階で二つの人影が動き、衝突した。突然、ダン、と銃声が一発鳴り響いた。
先進理工学棟一階。
縛道さしきは両手に拳銃を持って、ゆっくりと目的の場所を探して進んでいた。
「えーと、三階の研究室に行く、で良いのかな?」
縛道さしきはキョロキョロと周りを見渡しながら進んでいく。大学構内には所々に地面を照らす水銀灯が立っていたが、この建物の中は月の灯りも人工の電灯も無いせいで、一段と濃い闇が隅々に出来ていた。
(うーん、目がまだ慣れないなあ、電気付けちゃうおうか? なんちゃって)
右手に掴んでいるリボルバーを、人差し指に掛けたトリガーガードでくるくると回転させる。
(ったく、仕事のせいでデートが潰れちゃったのは、まじでムカつくなあ、ただでさえ、今日財布役の二人が使い物にならなくなったあとだってのにさ~)
先進理工学棟の内部の階段は中央に設置されており、縛道さしきは、気もそぞろに二階へ上がる階段を目指して歩いていた。
縛道さしきは、後ろで扉が開く気配を感じた。縛道さしきは、背筋に悪寒が走り急いで振り向く。くるくるとリボルバーを回していたため、慌てたさしきの指はうっかりと引金を強く引いてしまった。
銃声が鳴り響く。
弾丸はコンクリートの壁を跳ねて、当たった箇所でチュンと火花を上げて、飛んでいった。
振り返って、後方に何もないことをしっかりと確認した縛道さしきは、拍子抜けした気分になった。
(なんだ、なんもいないじゃん。うっかりうっちゃったよ、今の銃声で守衛さん来ちゃうとめんどくさいけどまあいっか……、!!)
縛道さしきが気付いたときには、その伸び上がる影は目前にいた。一瞬のうちに至近距離へと近づかれたことに縛道さしきは驚愕をしていたが、体は冷静に動いていた。二挺の拳銃の引金に掛けている指に力を込めて撃とうとする。しかし、縛道さしきは、撃つことが出来なかった。
縛道さしきは、遅れて自分の状況を把握して、絶望した。
(一体何者なの!?)
両方の拳銃が、ともに発砲できないように無力化されている。リボルバーであるM29は、弾倉を掴まれて、さらに撃鉄の部分に指を挟まれているため、撃てなかった。そして、セミオートマチックのM1911は、スライド部分を掴まれて後ろ側に押し込むように握られて、こちらもまた撃つことが出来なかった。
そのまま、なすすべの無い縛道さしきの顎に膝蹴りが入って、縛道さしきが見ている景色が歪んだ。縛道さしきは、薄れゆく意識の中で、その影が喪上葬一であることを確認したが、もはや、何の意味も持たなかった。顎から脳を揺らす強烈な一撃が入って後方にのけぞるように倒れ込み、縛道さしきは、両手の拳銃を放す。
さらに、容赦なく追い打ちをかけるように、その影が動いた。
そこで、蓬莱一一は、目を逸らした。
(…………)
本来ならば、喪上葬一の動きを最後まで観察するために、目を逸らしてはいけなかったが、蓬莱一一は、縛道さしきが無残にやられる瞬間を見ていることが出来なかった。
今の銃声は、三階にも聞こえており、また、外の小屋にいる警備員にも聞こえたはずで、場合によっては厄介なことになることを危惧して蓬莱一一は、外の観察をしていたが、そちらには一向に動きは無かった。
実際、警備員はその何かが爆発するような音を聞いていたが、一度聞こえただけだったので、北の御影通りを通ったポンコツ車のバックファイヤか何かだろうと早合点して、いつも通り本を開いて暇つぶしに興じていた。
廊下に仰向けに倒れている、縛道さしきと、そのそばで立ち尽くしている喪上葬一を、廊下の曲がり角の影から観察している、皇極千の姿があった。
(一体、どういうつもりなのかな? 喪上葬一。あれはどういう意図なのか、わざわざ……。 ま、僕の美しさの前では全てが無意味、いずれにせよ、邪魔者は葬り去るだけさ。どんなに強くても今のキミは隙だらけ)
9.5㎜の鉛玉を、クラブマンのホルダーに乗せて、ぐいい、とゴムを引き伸ばす。
(キミはここで、わけもわからず倒れていくのさ)
いざ、手を離して発射しようとしたとき、皇極千は自分の目を疑った。さっきまで、立っていた場所に喪上葬一の姿は影も形も無いのだ。
(あれ?)
そして、皇極千をどこからともなく衝撃が襲った。その攻撃が左からだったのか、右からだったのかもわからないまま、皇極千は意識を失っていった。
蓬莱一一が眼を一階に戻したとき、ちょうど二人目が倒れるところだった。倒れた姿は、ギリギリ壁の影になって確認出来ないが、立っている者が誰かは、良く見えた。
(……当然ながら、喪上くん、だな)
蓬莱一一は困った面持ちをしていた。
(はあ。……聞きしにたがわないなぁ、ありゃ。ただの人間と言われるよりも改造人間だって言われた方が確かに納得出来る。弾丸は、発射された後に見て避けれるとか、そんな馬鹿な話が回ってくるのも納得の強さだ。それにまだ喪上くんは一切武器使ってないか)
喪上葬一の首が少し動いたかと思うと、その次には高速で移動を始めていた。
(おっと、俺の位置がばれたかな? ……こりゃ、やりあうしかないなあ。やりあうにしても、喪上くんにはもう少し消耗してもらいたかったが、しょうがない……)
先進理工学棟二階。
突然鳴り響いた銃声に、氷室太郎は、身を強張らせた。
(縛道が誰かと戦っているのか? 誰と? 皇極か?)
様々な考えが浮かんでは消えていくが、氷室太郎にとって、なにからなにまで想定外の出来事で、全てが憶測の域を出ない。
廊下を歩く音が、研ぎ澄ませた氷室太郎の鼓膜を叩く。
(俺が今隠れているところから、緑竹のいる場所が十メートル以内に入ったら、俺は緑竹を殺せる、そして、殺さなければならないのか)
否応なしに速まる鼓動。スペツナズナイフを手に取って、壁から背を浮かせていつでも出られる体勢に移行する。
氷室太郎が手にしているスペツナズナイフは露国の特殊部隊に配備されたナイフで、柄の中に強力なばねが仕込んであるものである。鍔の部分に配置されたレバーを押すと刃がばねの反動で飛んでいく。射程は当然一般的な銃弾よりもずっと短いが、十メートル以内の敵に対する殺傷力は絶大である。
(もし、俺がスパイじゃなかったなら、もっと別の……いや、考えても無駄か)
廊下を歩く音が着実に近づいてきた。その足音が、廊下の中央にさしかかってきたとき、氷室太郎は隠れていた扉の後ろから、飛び出した。
三階の廊下で、蓬莱一一は、喪上葬一と向かいあっていた。
(はー、やっぱり直接対決は免れんね……まいったなあ)
蓬莱一一は、手をぶらぶらとさせて、軽くほぐした。そして、薄い目をすっと細めた。
(チャンスは一度、同じ手はそうは通じないだろうから)
蓬莱一一は、自分の右ポケットの中の重みを感じていた。
分厚い雲が少し晴れ、窓から月光が、喪上葬一の端正な顔を照らす。絹の様に白い透き通る肌が映える。喪上葬一の顔はいつものように、仮面でも貼り付けたかのように表情が無い。
再び、月が雲に隠れ始めたとき、喪上葬一が先に動いた。
瞬きすら許されない一瞬の中で、蓬莱一一は辛うじて喪上葬一の動きを目で追うことが出来た。
反射的に横に跳ぶ。つい先ほどまで蓬莱一一の体があったところに、代わりに喪上葬一が必殺の構えを持って立っている。
(やっぱ、とんでもなくはえぇなあ、おい)
蓬莱一一は、横に跳躍したその勢いで研究室の扉を押し破って入った。扉を押し倒して、転がり素早く方向転換して、入って来た方向を向くように腰をかがめて立ち上がった。
蓬莱一一が飛び込んだ研究室は、壁中に金属の管が通っており、天井からも何本かつるされていた無骨な部屋だった。大きなダクトが教室の前方と後方に付けられていて、天井をぶち抜いて、一旦この建物のどこかに集められている。部屋の中央には、透明な窓が嵌められた無骨な形の金属の塊が置いてあり、それを覆うように、周囲がアルミの断熱材が無造作に巻き付けられていた。
物理系研究室で、次世代燃料によるエンジンの開発と燃焼現象のプロセスの研究を主に行っている部屋だった。中央の燃焼室の隣にハイスピードカメラなどがあり、二色法などを用いて解析を行っているが、他にも基本的な熱電対も置いてあった。また、部屋の四隅に、たくさんの本や実験器具が乗せられた長机がどんと居座っている。
蓬莱一一は、その研究室の中から、喪上葬一を仰ぎ見る。
(ちょっと物がごたごたしてる部屋に入っちまったが、まあこの際どうでもいい。一発で決める……、例え音速の弾を避けれたとしても、俺の弾丸は音速の比じゃないからな)
喪上葬一が、遅れて研究室の中に入った。一挙一動が、流れるように行われて全く隙が無い。
(隙は無いけど、隙が無いなら作ればいい、なんつってな)
今度は、蓬莱一一から動いていった。床を思いきり蹴り、高速で距離を詰めていく。
喪上葬一は、その姿に全くたじろぐことなく、左手を前に出して半身で構えて待ち受ける。
その喪上葬一に対して、蓬莱一一は、何千何万回と訓練してきたたった一つの動作を彼の為し得る最速でやり遂げる。蓬莱一一は瞬時に、ポケットから獲物を取り出し、スイッチを押した。
(俺の弾丸は光速だぜ?)
カッ、
と強烈な光が喪上葬一の顔面を襲う。蓬莱一一が取り出して使用したのは、ジーリン社製フラッシュライトだった。四五〇〇ルーメンの強烈な光が喪上葬一の網膜に直撃して、一時的に視力を奪うことに成功する。
蓬莱一一は、突進を続けて、喪上葬一との間合いを狭めていく。
(あと二歩!! じゅうぶん!!)
スタングレネードとは違って、フラッシュライトが視力を奪っていられるのはせいぜい十数秒が限界であったが、それだけあれば十二分に勝負を決することが出来る、と蓬莱一一は確信した。
しかし、喪上葬一は目を封じられてもいささかも意気を失することなく、見えない目に動じることなく、腰のサブバッグから、彼の武器を取り出した。
(ちっ!!)
細い金属光沢のある紐で、両端に持ち手である金属の輪が付いており、両手にそれを持って、周囲を牽制するように凄まじい速さで振り回した。
その金属線は、細かい刃が無数に組み合わさって出来ているワイヤーソーで、空気を切り裂きながら、幾重にも宙を舞い、煌めいた。
ワイヤーソーが触れた机は、瞬時に斬り落ちて、壁際の細いパイプは切断された。
(無茶苦茶するなあ、畜生!)
切断されたパイプから、シューと掠れた音がして、プロパンが流れ出す。
(だけども、あてずっぽうで放った攻撃に当たるほど俺は甘くないっつーの!)
ワイヤーソーの軌跡をかいくぐりながら、フラッシュライトを握りしめた手を、喪上葬一の頭蓋骨に全力で叩き付ける。持てる力全てを持って蓬莱一一は叩き付けるつもりだったが、無意識のうちにブレーキがかかった。手が喪上葬一の頭に近づけば近づくほど威力を無くして、最後にはこづく程度の威力でしか結局頭部を叩くことが出来なかった。蓬莱一一は、むさらこいのメンバーと一緒にいすぎたのだということを痛感した。
(畜生、俺は甘いな)
蓬莱一一がこづいた箇所から、喪上葬一は状況を正確に把握して、目が見えているのと全く変わらない精度で蓬莱一一の場所と体勢を知覚し、反撃に転じた。
たった一度のチャンスを逃した蓬莱一一になすすべはなかった。気付いたときには地面に仰向けに投げ倒されて、首にはワイヤーソーが巻き付けられていた。
喪上葬一が手を横に引きさえすれば、総頚動脈が簡単に破れて蓬莱一一は死ぬ。その状況で蓬莱一一は言った。
「殺してくれ、喪上くん」
「……」
喪上葬一は、蓬莱一一の腹部に乗って、両足で両手を踏みつけながらじっと蓬莱一一を眺めていた。
「殺してくれ、喪上くん。別に恨みはしないよ。小さい頃から俺もずっとこんなことをやってたからね、命を取られて仕方がないのはよくわかってる。だから、さっさと殺してくれ」
「……」
しかし、喪上葬一は、何も答えず、それでいて、殺すでもなくじっと蓬莱一一を見つめていた。蓬莱一一は、すぐに殺さないのは、尋問でもするつもりだからだろうか、と考えた。彼は、いかなる拷問にも耐え抜き口を割らない訓練は受けてきたが、本当に敵に掴まって拷問を受けたことは一度も無かった。死ぬときも楽には死ねないか、とそう心の中で呟いた。
「どうした、殺さないのか?」
「…………、どうして僕を殺さなかったの?」
唐突に喪上葬一が口を開いた。予想外に逆に問いかけで返され、面喰った蓬莱一一は、ぶっきらぼうに答える。
「さあね」
「……」
そこで、喪上葬一はずいっと身を乗り出して、くっつきそうな程顔を近づけた。
「…………条件を飲んでくれたら、殺さない、約束する」
蓬莱一一は口をつぐみ、警戒した。例え、どんなに聞こえの良い条件を提示されても、引き受けてはいけないことを蓬莱一一は知っていたからだ。
そして、喪上葬一は言った。
「…………僕と付き合ってくれるなら、蓬莱は殺さない」
氷室太郎が扉の裏から飛び出して、スペツナズナイフを素早く正確に緑竹真理向ける。緑竹真理は驚いて、腰のホルダーから何かを取り出そうとして、氷室太郎が言った。
「動くな」
氷室はその緑竹真理の腰にさしているものをちらりと見た。
(テーザー銃か)
テーザー銃とは射出出来るスタンガンのことだ。緑竹真理の持っているモデルは、瞬間電圧は数十万Vに達し、服の上からでも筋肉を弛緩あるいは失神させることができ、当たり所によっては死に至らしめる可能性もある凶器だ。
緑竹真理は、大人しく氷室太郎の言葉に従っていた。氷室が持っているナイフがどんなものか緑竹真理も知っていたからだ。
「両手を上げろ……、そうゆっくりだ」
(なんでこんな羽目になってるんだろう。俺は、この人を、殺せるのか?)
再度自分に問いかけずにはいられなかった。口と体は、緑竹真理を的確に無力化しながら、しかし、頭の中は混乱で埋め尽くされているのだった。
一方、緑竹真理は、分厚い眼鏡の下で、氷室太郎を冷静な目で眺めていた。
無骨な研究室の中で、
「え?」
と、思わず蓬莱一一は問い返した。聞き違えたかとも思ったが、確かに聞いたとおりなのだ。
「付き合うって、どういう意味だ?」
ややあって、喪上葬一は答えた。
「…………恋人になるということ」
「え」
蓬莱一一は、混乱していた。喪上葬一は男だったためそのままの意味に受け取ることが蓬莱一一には出来ず、何かの隠喩か、それとも冗談なのか、とも思った。じっと様子を窺ったが、喪上葬一の顔色からは一向に真意がうかがえなかった。しかし、それでもむさらこいでの付き合いは長い。いつも顔を合わせていれば、一見無表情に見える彼の表情の微妙な機微も読み取れる。蓬莱一一は、喪上葬一が本気で言っていることはわかった。
(本気で俺と付き合いたいって、そういうことなのか? 俺なんかと? まさか? 喪上くんと付き合ったら殺されないですむ? だとしても、俺は……)
ぐるぐる思考は回り続けて、蓬莱一一は、そのまま何も答えることは無かった。その様子を見て、喪上葬一はぽつりぽつりと喋り始めた。
「…………ごめん、知ってる、一一君が誰のことを好きなのか」
蓬莱一一は、首に巻き付けられたワイヤーソーが緩んでいくのを感じた。
「……ずっと、見てたから。……付き合ってくれたら、殺すっていうのは嘘。僕にはキミを殺すことは出来ない……、いや、キミだけじゃないか」
「うん? どういうことだ?」
蓬莱一一は最後のその言葉に引っかかりを感じて問いかけた。
喪上葬一は、その端正な眉を一ミリほどよせて呆れた。
「……」
「ちょっと待ってくれ、どういうことだい、なんでそんな顔してるのさ。俺なにかまずいこと言ったか?」
「……失態が見られてなかったことを喜ぶべきか……」
「だから、何を言ってるんだい?」
「……キミ、僕のこと、この棟に入ったときから観察してたくせに肝心なとこを見てなかったんだね……」
蓬莱一一は、そこである考えがピンと脳裏に浮かんできて、まさか、いやただの希望的妄想だ、と否定したが、しかし、さっきの言葉を考えれば考えるほど、それ以外に考えられなくなった。
「さしきは喪上くんに殺されていない、ということか?」
恐る恐る尋ねた。
喪上葬一は、ワイヤーソーを蓬莱一一の首から完全に外して、腰のサブバッグにしまってから、立ち上がりそっけなく答えた。
「……皇極君も生きてるよ」
蓬莱一一は縛道さしきが生きていることがわかって、隠し切れない喜びが表情から溢れ出していた。
(何もかも最悪の状況だと思っていたが、まだ、誰一人死んでない! 方針を変えるべきだ、俺達は殺し合う必要は無い。少なくともむさらこいの仲間を誰一人殺さなくても済む折り合いの付け方があるはずだ……)
そこまで考えたところで、蓬莱一一は、不意にこの夜の始まりから感じていた違和感が強くなるのを感じた。
(やはり、おかしい。この状況はあまりにも特異的すぎるんだ、そもそも六か国のスパイが同じ日に同じ建物に侵入して争うなんて偶然がそうあるだろうか?作為を感じずにはいられない。……いつからだ?……あるいはもっと前の時点で……)
蓬莱一一は起き上がった。研究室は、もう何事も無かった状態に戻すのは不可能なほど破壊されており、相変わらず壁の表面を通っているパイプは、喪上葬一のワイヤーソーで切断されたために、可燃性ガスを漏らし続けていた。
(気を付けないと引火して、危ないな、いっそ、証拠隠滅のためにさっさと着火してしまおうか)
そう思いながら、喪上葬一によって斬られた箇所を眺めていた蓬莱一一の表情が、変化した。驚愕に目が見開かれた。
斬られた机の残骸の中から、小さな機械が覗いていた。
「喪上くん!!」
切迫した蓬莱一一の声に反応して、喪上葬一は蓬莱一一の視線の方向にあるものを見て、そしてそれを拾い上げた。
「……盗聴器」
喪上葬一は、それをぱきっと手の中で軽く握りつぶした。蓬莱一一は、さらに研究室の中を目を皿のようにして睨んだ。隠されている機器はどうやらそれだけではなさそうだった。
(盗聴器だけじゃなく、カメラも設置されている。そして、それが監視している対象は、恐らく、ここの研究じゃない。間違いなく、それで観察しているのは、俺達だ)
「俺達は捨てられたのか」
蓬莱一一は、ぽつりと呟いた。
「…………」
「急いでここから逃げるぞ、むさらこいの全員を連れてだ」
蓬莱一一が駆けて研究室から飛び出して、それを追いかけるように喪上葬一が後に続いた。
階段を駆け下りると、二つの影が立っていた。氷室太郎と緑竹真理だ。氷室太郎は、慌ただしく現れた二人に驚いた。氷室太郎はナイフを誰に向けていればいいのか躊躇していた。蓬莱一一が、先に喋った。
「待て、氷室くん!! 俺達は敵じゃない、とにかくここから逃げるんだ!!」
「どういうことだ」
氷室は質問した、依然として、警戒を解くようなことはしない。どのタイミングで誰が自分を殺しにきたとしても対処できるように、気を張り詰めている。
「俺達は全員、本国に捨てられたんだ」
「一体どんな根拠があってそんなことを言うんだ?」
と氷室太郎反発した。氷室太郎は、唐突にそんなことを言われても口では信じようとはしなかった。しかし、氷室もまた、この不可解な状況に疑問を持っており、蓬莱一一のその言葉にわずかに内心動揺していた。
「一刻も早く逃げなければいけない。あまり説明している時間はない! 行くぞ」
その言葉と同時に、氷室は手に痛みが走り、ナイフを取り落した。いつの間にか喪上葬一が氷室太郎のすぐそばにおり、そして、氷室太郎と緑竹真理の手を握って、蓬莱一一の後を追って走り出した。
「な、ちょっと」
緑竹真理と氷室太郎は、反対する暇も無く、手を強引に引っ張られてぐいぐいと先進理工学棟の中を走っていた。氷室太郎は、彼らに悪意が無いことを感じていた。
階段を駆け下りて、一階に着くと二人が気絶して倒れていた。
「……僕が連れていく」
と言って、喪上葬一は、両手を離して右肩に縛道さしきを担いで、左肩に皇極千を担いだ。蓬莱一一は焦って言った。
「よし、ここから離れるぞ」
そして、むさらこいの仲間全員と逃げようとした矢先に、バン、とこの棟の入り口のドアが次々に外側から強引に内側へと倒されて開けられた。
何十人という人間の足音が同時に響いて、入ってくる。軍服に身を包んだその男達のそれぞれが、アサルトライフルを構えて突入してきた。
蓬莱一一の動きは止まる。
(逃げるのが遅かったか)
カッカッカッ、と革靴で軽快な音を立てて、スーツを着込んだ男が遅れてやって来た。ライフルを構えた男達はその男に道を譲って左右に分かれる。廊下の中央に現れて、むさらこいの面々と正面に向かい合った。スーツの男はかなり若く見えるが、実際の年齢は四十か五十には到達していただろう。シャツ、ネクタイ、時計、身に着けているもの全てが高級なブランドで固められていた。スーツの男が顔にいびつな笑顔を浮かべて、この場に似合わないやけに陽気な声で話しはじめるのだった。
「やあやあ、初めまして、わざわざ、まずは君たちが海を渡ってこの国に来てくれたことを、しかも長期滞在してくれたことを労おうか、はっはっ」
廊下に彼の笑い声だけが虚しく響いている。軍服を着た男達は表情を崩さずライフルを油断なく構えている。
「一応自己紹介しとこうか? あまり、というか、ほとんどぼくは表に出ることはないんだけどね? いや、でも君達ならぼくのこと知ってるかな?」
蓬莱一一は、実際にあまりにも敵が大きすぎたことに、行き場の無い焦りと絶望を感じていた。
「ま、改めて。防衛庁長官官房秘書課諜報部部長の三上っていう者だ。はっは、今日は噛まずに言えたよ、まあ、よろしく。っつってもすぐにさよならだけどね」
にやり、と汚い笑みを更に浮かべ続けた。
「しかしねえ、君達にはがっかりだよ。本当に。君たちがここで死ぬ最後の諜報員になるからと思って、色々あつらえたのにね、途中で殺し合いを止めてしまってほら、参ったよ。皆さん楽しみにしてたのに」
(こいつら、人をおもちゃだと思ってやがる。俺達の戦いは、見世物になってたってわけか)
氷室太郎は、憤った。
一方、蓬莱一一は、胸に怒りを覚えながらも、頭はこの状況を打開する手段が残っていないか探していた。喪上葬一の並外れた機動力も両肩に人間を担いでいては、むやみに動きを取れない。少しでも怪しいとみなされた動きをしたら、すぐに撃たれてしまうだろう。
(生き残る手段が残っているとしたら、俺がやるしかないし、今しかない。この男を人質に取るんだ。そうすれば、相手がこの人数でもまだ逃げることは出来る! こいつが後ろに下がったら、もう俺達にチャンスは無い)
蓬莱一一の心臓が早鐘のようになっていた。焦りが極限まで高まり、額を冷や汗が伝う。
向かい合うむさらこいの面々と五メートルほど離れて、三上はいた。そして、蓬莱一一から一メートル先のところに、縛道さしきが落とした拳銃が二つがあった。
(あれを取って狙いを付ける俺が早いか、撃たれて終わるのが先か……)
焦った思考が、どん詰まりの状況で藁にすがるかのように、凡そ不可能な選択に最後の活路を見出していた。
三上は、相変わらず間の抜けた調子で話をつづけた。
「さて、君達の国全てと、大帝日本国は、ようやくつい先日秘密条約が締結された。条約の内容はまあこうだ、諜報員は、大帝日本国に送らないし、そして、そんな諜報員は存在しない、とね。そういうわけで、君たちの処分は、うちに一任されてるのだよ」
三上が気持ちよく喋っているその最中、蓬莱一一は、飛び出して拳銃を拾おうとした。しかし、飛び出した直後にピタリと動きを止めた。蓬莱一一の首筋に後ろから冷たい金属があてられているのだった。
緑竹真理が、テーザー銃を引き抜いて、蓬莱一一に押し当てていたのだ。
(そうか、しまった!! そうか、そうだったのか、全ての違和感の原因はそこだったのか!! 畜生)
動きを封じられた蓬莱一一は、もう生き残るすべを見出すことが出来なかった。最早、何をやっても無駄だと悟り、全てを後悔した。
「よくやった、真理。後で、特別可愛がってやろう。はっは、しかし、君達も随分ぬるいものだな。手に入れた情報に簡単に騙されてしまう。こうはなりたくないものだねえ」
蓬莱一一は、もう全てを悟っていだ。
(緑竹真理は独国のスパイ、というだけじゃない。緑竹真理の本質は、大帝日本国のスパイ、二重スパイ!)
その事実に思いあたら無かった蓬莱一一は、激しく悔いた。もう少し早く気付いていたら、最後の一手も、もう少し他にやりようがあったのではないか、と、あったはずの生き残る可能性が浮かび、そして、それらが蓬莱一一を責めた。
三上は話をつづけた。
「この建物はね、昔から君達諜報員の血を吸ってきた建物だ。うちの偉い人達に生の殺し合いがえらく好きな人が、相当数いてね。諜報員をここで始末しながら見世物にしていたんだよ。ところが、数年前、その諜報員がいなくなる条約を締結するという流れが新たに湧いて出てね。この出し物がやがて見られなくなることが決定したんだ、やあ、よく覚えているよ、そのことが昨日のことのようだ、何もかもみな懐かしい」
三上は、大げさに身振り手振りを用いて、演説をしているようだった。何か子供のころの話でもするかのように感慨深げに話している。
「そして、最後の諜報員達はとびきり趣向を凝らして殺そうという話になったんだ。そこで、僕にその白羽の矢が立った。そこから、中々苦労したんだよ。 どういう趣向にしようかと散々考えて、友人同士を殺し合わせるのは、面白かろうとなったんだ。そうなるとまず、諜報員たちを一か所に集めて仲良しごっこをさせようというとこから始めるわけだけど、試行錯誤したね。結局、真理をあのむさらこいとかいう団体に入れて、そこにスパイがいるっていう話をわざと流したら、意外にも上手く集まってくれてね。そして、上手くいったと、安心していたんだよ」
突然、声色が変わって、声に怒りが混ざった。
蓬莱一一は、いよいよ、演説にも最後の時が近づいてきたかと思い、そして、自分の死を覚悟した。そのとき、蓬莱一一の背中に指が置かれた。指はつっと動いてそして、離れ、また、動いた。首筋にピタリとテーザー銃を突き付けているため緑竹真理は蓬莱一一のすぐ後ろにいた。そして、蓬莱一一と緑竹真理の体が盾になって誰にも見えない死角で、緑竹真理は蓬莱一一の背中に空いている左手を動かして文字を書いていた。蓬莱一一はすぐにそれがメッセージを送ろうとしているのだと分かった。
緑竹真理もまたむさらこいの仲間なのだと蓬莱一一は思い直した。焦りが急速に静まり、冷静にこの状況を分析していった。絶対絶命の状況だというのに、この奇妙な連帯感が心地よかった。
三上は、全くその様子に気付かないで、髪を振り乱してやけになったように叫んだ。
「条約も無事に締結した。各国の諜報部に話は付けた。揃いも揃った諜報員同士を戦わせる世紀の見世物となるはずだったんだ!! 僕の仕事は、成功して、更なる躍進を遂げるはずだったんだ!!」
緑竹真理は文字を書く手を止めた。蓬莱一一は、そこまでの全ての文字を把握した。出来ることは限られており、そして、書かれたのは、ひらがなでわずか六文字だった。『あいつをうつ』。
蓬莱一一は、緑竹真理がこの首筋に当てているテーザー銃で三上を撃つことを理解した。
(一矢報いるわけだ。奴らが味方だと思っている緑竹真理がテーザー銃を横にずらして撃つだけだ、それは成功する可能性が高い。そこから、俺が何をできるか、だ。死ぬ覚悟で一矢報いるなら、その一瞬の混乱を狙って、銃を拾って三上を撃って確実に殺すことくらいだ。現実的に考えれば、俺が先刻やろうとした、三上を人質にしようとする案は無謀すぎる、楽観的過ぎた。悠長に待ってはくれないだろう。人質にとることを宣言しようとしたところで即座に射殺だ。じゃあ、銃を向けたらすぐに撃つしか一矢報いる方法は無い。だけど、本当にそれしかないのか?)
三上は振り乱した髪を整えてから、再び薄気味悪い笑顔に戻って話し始めた。
「僕の予定を狂わせたお前達にはここで死んでもらう。まあ、女には、まだ利用価値があるから生け捕りだ。せめて、そっちは楽しませてくれんとね」
軍服の男達は、肩に担がれたままの縛道さしきと緑竹真理を除くむさらこいの人間に、絶えず注意を払って、少しでも妙な動きを見つけたら撃てる状態で待機していた。
蓬莱一一は、頭を高速で巡らせた。最期の時は、近い。
(むさらこいの仲間達を生かす方法は無いのか?一瞬のその隙をついて、窓の外に出るか? いやその程度じゃ、狙い撃ちされて終わりだ。 他に使えるのは無いか? 俺のポケットにあるのはフラッシュライトだけ……だめだ打開策にはならない。スタングレネードがあれば、せめて、発煙弾でもあれば逃げる手立てになったかもしれないのに…………あっ! そうか、そうだ!! 隙を作れるかもしれない!! 成功するかはわからない、だけど、やってみる価値はある!)
蓬莱一一は、自分の命を懸けるに値する行動を思い付き、そして、迷わずそれに自分達の運命を委ねることにした。もう、うだうだと考えている時間も無かった。
最後の時が、来た。
三上が右手を上げて、まさに発砲をさせようとしたとき、緑竹真理が動いた。そして、蓬莱一一は、首の後ろに密着されていたテーザー銃が動いたのと同時に走り出した。
緑竹真理は引金を引き、バチバチと放電をしながらテーザー銃のカートリッジが飛び出す。正確に、三上の胸に当たり、三上は短い悲鳴を上げた。
緑竹真理の予想外の動きに、軍服の男達は、一瞬気を取られるが、動き出した蓬莱一一に照準を合わせて引金を引いた。蓬莱一一の周囲を弾丸が飛び交い、蓬莱一一の足元のすぐ横に着弾する。
しかし、蓬莱一一は足を止めることなく、拳銃の元までたどり着き、リボルバーを手にし、照準を三階の窓に合わせ、発砲した。
弾丸は、一階のガラスを破って、そして、三階のガラスを破って、コンクリートの壁に着弾し跳弾した。コンクリートと弾丸がぶつかって火花を上げた。そして、三階の空気中に着実に溜まっていた可燃性ガスに、一気に引火した。
乾いた発砲音と、ガラスが砕ける音、そして、爆発音がほぼ同時に響く。地響きに近い爆音が轟いた。
三階の窓という窓から爆風が飛び出した。建物が大きく揺れる。三階はもはや使い物にならないレベルで深刻な崩壊を見せていた。柱も何本か崩れて、床や天井がボロボロになり、土煙と、燃焼による黒煙が盛大に吐き出される。建物の周囲に煙が溢れた。
大爆発と、崩れそうな建物に、完全に慌てふためいて、軍服の男達は動転していた。
蓬莱一一は、窓を割って外に飛び出し、それに続いて二人を担いだ喪上葬一と緑竹真理が飛び出した。
男達の何人かは、すぐに我に返って、逃げ出したスパイ達の出てい行った方向に向かってライフルを立て続けに発砲したが、煙のせいで当たっているのかどうかは全くわからず、闇雲に撃ち続けた。月明かりの無い闇夜に、ライフルの音がタタタタタと鳴っていた。
五月十五日未明に、都京帝大学先進理工学棟で大爆発が発生した。実験に使われるガスに引火したと思われ――
それは、翌日の新聞に小さく載せられた記事だ。当然ながら、事実は隠されて、詳細な原因は不明の事故として公表されていた。
さて、ところで、むさらこいの人間達は逃げ切ったのだろうか?蓬莱一一、氷室太郎、緑竹真理、縛道さしき、皇極千、喪上葬一、は今どうしているのだろうか?きっと疑問に思うことだろう。
少なくとも、どの新聞にも彼らスパイが捕まったというようなことは報道されていなかったのだ。
この話の続き?そうだなあ。どこかで、協力しながら楽しく生きている、という楽観的でかつ甘い結末、かどうかは知らないね、残念ながら。
ははっ、怒るなよ、本当に知らないんだ。どうだろうね。ははっ。
からかってない、からかってないって、おっと、友人達が呼んでる、いかなきゃ。
え、仲が良さそうだねって? そりゃな。奴らは俺の大事な、自慢の仲間達さ。
今回はキャラを同時に動かすということを課題に頑張って作ってみた作品です。少し特殊な書き方になってしまったなあという感……次の作品は普通に地の文が一人称の奴にしたい。書き終ってみて反省すべき点は多々ありますが、調べながら書き込んでいったりするのが色々楽しかった作品でした。(それと、こんなんでもBLタグって付けなきゃいけないんですかね……)それはともかく、拙い作品ですが、読んでいただきありがとうございました。




