Lesson8 ピアノ男子、感謝する
ピアノの師匠の元彼女からの急襲(?)から一週間。
アユたちは日曜に無事試験を終えて今はとりあえず一呼吸しているところである。来週からは前期試験が開始されるが4年ともなれば、1~3年の間にきちんと取るべき単位を取っていれば、試験はほぼ皆無だ。
そんなわけで学生最後の夏休みがやってくるが、9月からは教育実習なのでそんなにふわふわと遊んではいられない。卒論という最後の難関もじわじわと近づいてきている。
梅雨も中休みかもう明けるのか、今日は天気がよくて結構暑い。だがしかし音楽室は窓を開けないため全室クーラー完備、問題ない。音楽室の扉を開けると生き返るってもんだ。
ということで、今日も今日とてピアノのおけいこである。 真面目に楽譜を開いたが、ふととある記号を見つけて「ププ」と思わず笑ってしまった。
「何いきなり。気持ち悪いな」
「いや、これ……この横に点のついてる音符、何て言ったっけ」
「付点二分音符だけど」
「これ、友達に似てて……」
「は?」
葉子ちゃんは、口元の、正面から見て右横にほくろがある。ショートカットでパッと見ボーイッシュに見えるのにそのほくろのせいか妙に女っぽく見える誰得物件だ。
そしてその、付点なんちゃらがどうも葉子ちゃん(の口元)に見えてしまう。
「音符を友達に似てるなんていうヤツ、今までいなかったぞ……」
どうしよう。今度葉子ちゃんの顔を見たら笑ってしまいそうだ。
笑いを堪えていたら五十嵐くんは「そこまで付点に拘るなら」と、びしびしと私に付点のついた音符の曲を練習させた。別に付点に拘ってはいない。
*
付点のついた曲は難しい。左手が弾く隙間に右手を弾くこのバランス! 左手で四角、右手で三角を同時に書くようなややこしさだ。
「そういえばさ、スイミングスクールのインストラクターってことは、やっぱり四谷さんて水泳得意?」
この後の私のバイトのことから思いついたのか、五十嵐くんはすっかり頭と手の連結に疲れた私に休憩がてら聞いてきた。
「まあ一応」
「小さい頃から習ってた?」
「父親にね。父が水泳得意だったから。弟と二人、すごい仕込まれた」
「俺と一緒だ。俺も小さい頃から母親にすごい仕込まれた。ピアノ」
うちと逆だなあ。父親に仕込まれる娘。母親に仕込まれる息子。
その息子の方は丸椅子から立って伸びをしながら話は続く。
「兄貴はそれこそバイエルでさじ投げたんだけど、俺はなんか逃げられなくて、練習させられたね。その反動で中学入ってからはサッカー始めてサッカーサッカーで。でも、やっぱりピアノももう身体に染み込んでて、サッカーやりつつもピアノも弾いてた。学校のピアノでJ-POPとか弾くと女の子にキャーとか喜ばれてさ、あのときはマジで母親に感謝したよ」
「ははは」
私はピアノ椅子に座ったままだが、五十嵐くんはそのまま窓際に寄って窓枠に座った。
「四谷さんは? 水泳で嫌なことや良かったこと、あった? あ、水泳部だったとか?」
「ううん、高校では部活に入ってなかった」
あの頃はそれどころじゃなかったし。
「嫌なことはなかったな。私は泳ぐの好きだったし。弟は疲れるって言ってたまに嫌がってたけど、小学生の市民大会で優勝したことがあるぐらい泳ぐの速かったよ。今は泳いでないけど」
「……やめたってこと?」
「うん、まあ」
暫く沈黙が続いたあと、五十嵐くんがおもむろに話し出した。
「……俺もさ、実は、ピアノやめてたんだ。母親が亡くなって、結構ダメージくらって。
母親は病気が発覚して3ヶ月で亡くなった。手術して、体力無くなって、食事もとれなくなって、どんどん痩せて……。亡くなる数日前に『ピアノ弾きたい』って言ってた」
ふと、元彼女の話を思い出した。彼女と話したことはもちろん五十嵐くんには話していない。
「それからずっとピアノが弾けなかった。家にグランドピアノがあるんだけど、全然触れなくて。自分の部屋にもデジタルピアノがあるけど、それも弾かなかった。極々たまに触れる程度」
私は黙って聞いていた。他の部屋からつたないピアノが聴こえてくる。
「四谷さんと初めて会った日、あの日ほんとにたまたまピアノの音が聴こえて、ピアノ室を見つけたんだ。大学にあんな部屋があることすら知らなかった。空いていたし、他の部屋でも学生が自由にピアノを弾いている風だったから、ふらふらと入って」
小さなピアノ室の中は、誰もいない。
家とは違うピアノ。
違う環境。
そしてそこには自分一人だけ。
目の前にあるのは、ピアノ。
「……だから、つい、弾いちゃったんだ。久しぶりすぎてボロボロだったな」
「久しぶりには全然聴こえなかったよ。すっごく上手かった」
「四谷さんにはそう聴こえたかもしれないけど、実際はボロボロだったんだよ。ブランクあったし、やっぱり弾けなくなるよ」
両手を広げて、手指をばらばらと動かして見せる。大きな手だ。
「あのときだけのつもりだったんだよ。やっぱりまだピアノに触るのは早いのかもって思って。でも四谷さんに聴かれてて何故かピアノ教えることになって」
あのときの強引な自分を思い出してちょっと身を縮こませる。
「それから、少しは指慣らしておかないとな、って久々に家でピアノに向きあったんだ。初めはデジタルピアノで、自分がピアノから離れる前に練習していた曲ばっかり弾いてたんだけど、そういえば教える相手は初心者だよなと思って、バイエルとかブルグミュラーとか、子供の頃弾いてた曲を弾いてたら、いろいろ思い出して。母親のこととか……」
少し言葉に詰まって俯く彼を私は黙って見ていた。
「いや、悲しいことじゃないんだ。小さい頃教えてもらったこととか、厳しかったけど、上手に弾けたときとかの喜んだ顔とか……。連弾したり、たまにはアニメの曲とかやったり、そういう楽しかったことを……思い出して」
そして、お母さんが亡くなってから、5年ぶりに、グランドピアノを弾いた。
誰も弾かないピアノに、毎年調律を頼んでくれていたというお父さん。
きっとお父さんもお兄さんもピアノを弾かない彼を心配しただろう。
窓から外を眺める。もうお昼だから日射しが強くなってきている。五十嵐くんは目を細めた。
「俺、感謝してるんだ。四谷さんに。すごく」
「え? なんで?」
いきなりふられて少し狼狽える。私、何かしただろうか。
「きっかけを与えてくれた。それに、四谷さんに毎週ピアノ教えながらさ、俺、ピアノが好きだなあって、なんで離れてたんだろうって痛感したんだ。それでまたピアノに触れるようになった。穏やかな気持ちで」
「いや、それ結果論でしょ。時間薬とタイミングというかそもそも私の図々しいこっちの都合全開な力技がたまたま、」
「結果論でも力技でもたまたまでもいいんだよ」
そう言うと五十嵐くんは窓枠から立ち上がって、まだ座ったままの私の前に数歩歩み寄った。
そして、まっすぐ私の顔を見る。
「ありがとう。ほんとに」
ありがとうと笑う五十嵐くんの目はちょっと赤かった。そういえば、初めてピアノ室で彼と会ったときも、彼の目は赤かったような気がした。あのときはどんな気持ちでピアノを弾いていたんだろう。私の視線に気づいたのか、誤魔化すように笑って話を続ける。
「なんか俺いい年してすげーマザコンだよな。実は、こういう母親のことが原因で今までの彼女みんなダメになってる」
「何ですかみんなって。今までのって。歴代の彼女? 複数ですか? 自慢? 自慢ですか? 今まで彼氏のいたことのない私への」
「違うよ! 丁寧語やめて!」
一瞬前と違う冷たい視線を送ると、焦ったように言うからそれに笑った。
ふと先週の、元彼女の話が頭をよぎる。彼は、もう自分で気持ちを整理した。もう少し待てば、二人は別れなかったのかもしれない。
「マザコンの定義はよくわからないけど、いいんじゃないの? 親のこと大事で何がいけないの? 私も自分のお父さんやお母さんのこと大事だし好きだよ。当たり前のことでしょ」
私の言葉に、五十嵐くんも、
「そっか」
と微笑んだ。