Lesson13 マイペース女子の居場所
一つしかない改札の出口に、五十嵐くんはいた。アーチ型の車止めに軽く腰かけていた彼は、私をみとめると、ちょっとほっとしたような顔で笑う。
「どうしたの、一体」
ここに五十嵐くんがいることが、どうも実感がわかない。一体なんで、と問う私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、呑気にペットボトルの水を口に含む。
「ちょっとした小旅行気分だった。海って、湘南か千葉しか行ったことないから三浦半島は小学校の移動教室以来だよ。でもここあんまり観光地っぽくないね。海って近い?」
「あっちの道路渡って少し歩けば海岸だよ。テトラポットばっかで浜とかないけど。観光地はもうちょっと手前かもうちょっと先」
「へえ。海行ってみたい」
「暗いからあんまり見えないよ」
「それでもいいから」
なんなんだ。
自転車を引いて彼と並んで歩き海を目指す。ほどなく、海岸沿いの道路に着いた。道路沿いの歩道のさらに内側に遊歩道がある。海側は胸ぐらいの高さの擁壁になっていて、その向う側はテトラポットが設置されている。私たちは自転車を遊歩道の入口に止めて、中へ入った。そのまま彼は塀に腕を乗せ海を見ているが、私は背中を寄りかからせて道路側を向いた。
「さっき最初に電話出たのって」
「あ、弟。ごめん態度悪くて……」
「学食で四谷さんを拉致っていった?」
「そう、あれ。ほんと態度悪くて……」
「いやいい。そっかなるほど」
何がなるほどなんだ。
しかし翼はほんとどうしようもないな。そういえば一昨日の陽菜の電話応対はどうだったんだろう。聞くのがコワイ。
我が家の弟妹について真剣に悩んでいると「お母さん、どう?」と訊かれた。
「え? あ、うん、月末に退院して会社行ってるよ」
「そうなのか。じゃあ、四谷さんは今なにやってるわけ」
「うーんと、まあ家事、かな」
五十嵐くんは暫く黙っていたが、
「で、いつ戻ってくんの」
と問いかけられた。どきりとした。
「うん……まだちょっと決めてない。母も完全復帰したわけじゃないし」
本当は戻っても問題ないだろう。陽菜はさびしがるだろうが、母も松葉杖とはいえ通常生活を送っている。それに、母には支えてくれる相手が現れた。私は別にいなくてもいいのだ。そう、いなくても。
「どうかした? なんだかいつもとちょっと違う」
そう言って海から私の方へ顔を向ける彼に、私は「そんなことない」と微笑みかける。彼はそれに笑い返すこともなく、また海へ視線をやった。
「星、よく見えるなー」
「ここ、海岸沿いに住宅しかないからね。観光地行くとコンビニや飲食店の明るさで見えにくかったりするけど」
今日は雲もなく、夏の大三角形とさそり座が健在だ。
「子供のころ、家族でこのあたりから星空見たよ。それで、大抵お父さんが『きらきら星』を歌うの。へったくそなんだ」
思い出して、笑う。まだ憶えてる、お父さんの声。ふと横を見ると五十嵐くんは私をみて微笑っていた。
「それで前、きらきら星、リクエストしたんだ」
「あれすごいよかった。正直言うと泣きそうになった。また弾いてほしい。今度は私抜きで」
ほんと、私たちって、お父さんだお母さんだ言ってる気がする。マザコンとファザコンでお似合いっていうのはあの場しのぎとはいえ言い得て妙だった。
そういえば五十嵐くんのお父さんも、奥さんを亡くして5,6年ぐらいだろうか。再婚の話とかあるのかな。そんなプライベートすぎることは聞けないけど……。そんなことを考えていたら自分の口からポロリと漏れる。
「うちの母、再婚するかもしれない」
「え?」
「あ、まだ推測だけど。お相手はいるみたいなんだ。入院中も付き添っててくれて今も通勤の送り迎えしてくれてる。母より結構若そうなんだ。母もやるよね」
「それで、落ち込んでんの?」
思いもかけない言葉をかけられた。落ち込んでる? 私が?
「そう、見える?」
「なんとなくね」
「お父さんが亡くなってもう8年だし、お母さんに新しい相手ができることにいいと思うんだ」
「うん」
五十嵐くんは頷いたまま黙っている。
私もそのまま黙っている。
「……それで?」
穏やかなトーンで、続きを促される。
私は、くるりと、海側を向いた。さそり座の赤い星が目に入る。
「……うちのお母さんはおっとりというかのんびりしていて、いつも私が『ほらお母さん、しっかりして』ってフォローしているような人だったの」
「うん」
「だからお父さんが亡くなったときは大変だったんだ。保険で家のローンとかは賄えたけど、子供も3人いるし今後の生活とか考えるとね」
「うん」
「だから私は、全部は無理でも、少しだけでもお父さんの代わりになれるようにって、働きに出たお母さんを励まして、家事をして、バイトして、弟や妹の面倒を見て……」
そんな生活はそこまで大変だとは思っていなかった。もともと要領はいい方だし、親族や先生に「偉いね」「頑張ってるね」と言われ続けてきて、もっと頑張れる、もっと、と思っていた。
大学進学で家を出るのは不本意だったけれど、4年したらお父さんと同じ教師になって戻ってくる、そしたらもっともっと頑張ろうって思っていた。
でも。
「でも、今回帰ってきて、気づいたの。──うちの変化に」
お母さんには恋人ができて、ツバはしっかり家を守っていて、ヒナは料理もできるようになってる。私が家を出ている間に、どんどん状況が変わってきている。
私は思い上がっていた。お父さんの代わりとか言って、私一人が頑張っていてみんなを支えているつもりだったけれど、とっくにみんな自分の足で立っているじゃないか。
どんどん、感情が溢れてくる。まっすぐに暗い海を見つめて、つらつらと気持ちが流れ出る。
「もう私は必要じゃないのかも。お父さんと同じ先生になったって、もうお母さんには支えてくれる人がいる。私がお父さんの代わりにならなくても、みんな生きていける。私の居場所がない」
家を出なきゃよかった。東京に戻るのが怖い。これ以上留守にしたら、私の居場所がなくなってしまう。
お父さん。お父さん。
大好きだったお父さんの代わりになろうと思ったけど、もう必要ないのかな。
そもそも、代わりになんかなれてなかったのかな。
おとうさん。わたしは、どこにいればいい?
私の顔にいきなり五十嵐くんの手の平が触れる。触れるというよりも、ぐいっと頬を拭われる。泣いてた?
「大丈夫。四谷さんの居場所はあるよ」
手首を引かれ、ふわりとやわらかく抱き込まれる。
「今まで頑張ってたんだもんな。実家に帰ってきてちょっと気が抜けた?」
頭の上でやわらかい声がする。
「居場所は元々あるよ。四谷家の、三人きょうだいの一番上のお姉ちゃんっていう場所に。それから俺たち大学の仲間のそばにも」
私は額を五十嵐くんの胸につけているだけで、身体は密着していない。けれど、おでこの付いている胸と背中に回された手からぬくもりが流れてくる。夏だからくっついたら暑苦しいはずなのにな。温かいと感じるなんて。
涙がぽろぽろと落ちる。落ちた涙がサンダルの素足を濡らした。
「四谷さんが先生になりたいのは、子供が好きなのと、あと大好きだったお父さんと同じ職業に就きたいからだろ。お父さんの代わりになるためじゃなくて」
思い出の中のお父さんとは違う男の人の匂い。私はいつも、お母さんやツバやヒナを抱きしめる側で、こんなふうに誰かに包んでもらうのは久しぶりだった。
「お母さんの恋人のことだって、無理に認めなくてもいいじゃん。まだ知ったばっかだろ。複雑な思い抱えてたっていいじゃん」
「でも、お母さんには幸せになってほしい……」
えぐえぐ泣きながら、五十嵐くんの腕の中で言うと「やっぱり偉い姉さんだ」と彼は背中ぽんぽんと軽く叩いて笑った。
「それに、俺は四谷さんが進学してくれてよかったって思ってるよ。おかげで四谷さんと出会えたから」
背中を一定のリズムで、ぽん、ぽん、と叩かれる。まるで赤ちゃんのように。
複雑に考えるなよ。
今のままでいいんだよ。
よく頑張ったね。よしよし。
大丈夫。居場所はあるよ。
何度も、何度も、何度も。繰り返される言葉。
もっと、甘えていいんだよ。
*
しばらく泣いて落ち着くと、さすがに気恥ずかしくなってきた。顔を拭ってそっと五十嵐くんから離れる。さて何て言おうかと考えあぐねていると、彼の方があっさり話し出した。
「やっぱり今日は来てよかったよ」
「そういえば、今日なんだったの? 何か急用だった?」
「顔が見たかったから」
「…………」
「英文科モドキの友達の方に、どうなってるのかいつ帰ってくるのかしつこく聞いたらキレられて。住所教えるから気になるならとっとと行って来い! って怒鳴られた」
英文科モドキ……アユのことだろう、若干見た目が華やかだから。……キレたんだ、アユ。そうか。というか、この場合、私はどういう反応をしたらよいのだ?
「なるべく早くケータイ買ってくれよ。あと、戻ってきたら連絡して」
私の戸惑いなどまったく気にもとめず、「じゃ帰るか」と彼は私を促した。
*
「もう遅いし、家まで送るよ」
「自転車だし大丈夫だよ。むしろ五十嵐くんこそなるべく早く電車に乗らなきゃ」
送る、いやいい、と押し問答を繰り返しながら駅前まで戻ると、さっき五十嵐くんがいた改札そばに翼と陽菜が立っていた。
「ツバ。ヒナも。どうしてここにいるの?」
「ことり迎えに来た。ここにいれば来ると思ったし」
「え、いつからいたの」
「10分前ぐらい? いいヨミだろ」
じゃー帰ろうぜ、と私から自転車を引き取り、私の隣にいる人がまるで見えないような行動をとるので、お前らちょっと待てと制した。
「五十嵐くん、改めて紹介するけど、弟の翼と妹の陽菜」
翼は一言も喋らずに僅かに頭を下げただけだった。愛想もないし態度悪い。陽菜は陽菜で無遠慮に五十嵐くんを上から下まで眺める。なんなんだ、この弟妹は。
五十嵐くんは、そんな二人の様子を見て口元をゆるめ、
「めっちゃめちゃ居場所あるじゃん」
と、こっそり私に耳打ちした。