Lesson10 マイペース女子の事情
その夜、五十嵐くんからメールが入った。
予想通りというか、謝罪が書いてあったので、別に何も気にしてないむしろ私が感じ悪かったと思う、と返信した。すると、明日でも明後日でもいいから時間があるときに少し話できないかと返ってきたので、まあ確かにあのままでもいられないか、と了承する。
翌日の昼前、私と五十嵐くんは大学近くの割と大きい市立公園の入り口で待ち合わせた。大学でもよかったのだが、内容も微妙だったので、五十嵐くんが考慮してくれたのだ。
公園は、真ん中にただっ広い芝生広場があり、その周りを囲う桜の木の下にはいくつものベンチ。今年は少し早く梅雨明けしたらしく、既に茹だるように暑い。そんな暑さの中、元気に芝生で遊んでいる幼児たちがいて、そのあとをお母さんらしき人たちが水筒を肩から揺らしながら追いかけている。
「どっか店とかの方がよかったかな。よく考えたらこんな時間だし、暑いよな」
「木の下だし大丈夫。こういうところの方がいい」
ベンチに座って、子供とお母さんの方をのんびり見る。五十嵐くんも少し空けて隣に腰かけた。
「昨日はほんとごめん。あの後、小野も我に返った感じで、二人に謝られた。四谷さんにも直接謝りたいって言ってたけど、とりあえず俺に先に謝っといてくれって」
「ううん。私こそ、言い逃げみたいにしちゃったし」
あのときは柄にもなく、カッときてしまった。言うつもりじゃないことも言ってしまった。
「みっともないことに巻き込んじゃったな。ほんとにごめん。えーと、あいつらが何で会ったこともない四谷さんにあんな態度取ったかというと……」
「大体わかってるから、説明しないでいいよ」
そう言うと、五十嵐くんはますます気まずそうにした。なのでゆるく笑ってみせる。
「……俺は、納得してその、彼女と別れたつもりだったんだけど、今思えば一方的だったかもしれない。小野も、本来悪い奴じゃないんだ。普段から男連中にはきつい物言いする奴なんだけど、サバサバしてるし面倒見もいいから同好会でも好かれてる。あの後俺も小野にすんごく謝られたし」
小野さんのあの行動は栗原さんを思ってのことだ。面倒見がいいっていうなら尚更。五十嵐くんを前にマザコンは無いとは思うけど。
「ほんと別にいいよ。友達のことを思ってのことなんでしょ。そういえば私もつい売り言葉に買い言葉で『五十嵐くんとお似合いでしょ』とかテキトーな啖呵きっちゃったから、本当は無関係って後で彼女たちに否定しといて」
「え」
「それより五十嵐くんこそ、ああいう言い方されて大丈夫なの」
「あ、いや……。うん、俺も別に気にしてないよ、マザコンなのは事実だし」
五十嵐くんは自分で笑いを取るような物言いをしてから、それにしても、と続ける。
「四谷さんて……なんていうか、冷静だね。あれで怒らないの?」
「クールとは言われる。根が冷たいのかも」
「冷たいなんて全然思わないよ。むしろ、他人の立場によく立てるなと思ってる」
「自分のことだけ考えるのは、ずいぶん前にやめたから」
そこで五十嵐くんは、今日の本題、いや謝罪もそうだろうけど、多分今日彼が一番聞きたかったであろうこと、を切り出した。
「あのさ、言いたくなければいいんだけど、四谷さんのお父さん……」
だよね。気になるよね。私言っちゃったしね。
ふう、と私は一息ついた。なるべく簡単に話せるといいが。
「海で亡くなったの。私が中2のとき。溺れてる子を助けようとしてね。結局二人してレスキューの人に救助されて、子どもの方は助かったんだけど……」
父は助からなかった。
現場にいた弟は、それから泳ぐのをやめた。
「まあ、それだけの話だよ。だからね、私も父が亡くなってるから、五十嵐くんのお母さんへの気持ちはすごいよくわかったんだ。だけど同病相憐れむみたいに思われるのは嫌だったからあえて言わなかった。ごめんね」
「別に言わなきゃいけないことじゃないだろ。謝るなよ……」
優しい、庇うような言い方が心に沁みた。だからだろうか、今まで、アユと葉子ちゃんにも話したことのないようなことがつらつらと口をついて出てきてしまう。
「私も父が亡くなって当たり前だけどショックだった。もちろん悲しいし、あと、これからどうやって暮らしていくんだろうって不安だった。高校時代は部活もせず家事して合間にバイトして。本当は高校出て働くつもりだったの。まだ弟や妹がいるし。でも、母と、理事長先生が……えっと、採用先の。その二人が進学しろって。私が父と同じ小学校の先生になりたいっていうのを知っていたから」
それから父の母校でもあったこの大学の指定校推薦が取れた。実家から遠いのがネックだったが、母は何とかなるから行きなさい、学生時代も楽しみなさい、と家を出してくれた。なので、家具や家電は知り合いや親族からのお下がりを譲り受けて、入れられる限りのアルバイトを入れた。
「コネで私学の小学校への採用が決まってるって話したでしょ。父の勤めていた学校なの。理事長のご厚意で。お父さんと同じ先生になりたいならなれっておっしゃってくれて」
だから、採用条件としての成績に関する件は、私自らが課した。理事長先生に迷惑をかけないように。真面目に授業を受け、ノートを取り、優秀な成績を残す。そして必ず教員になる。
そこで五十嵐くんがふと気づいたように問う。
「そんなに頑張ってて、どうしてピアノは4年までほっといたわけ?」
「う……。通常授業とバイトでいっぱいいっぱいでつい後回しにしちゃってて。あんまり言いたくないんだけど、まあ、自分の生活費や学費、弟や妹の学費とか稼がなくちゃならなかったし。弟もサッカーやっててね、部活入らないでバイト三昧、みたいな生活してほしくなくて」
「偉い姉さんだな……」
感心したように言うから、居心地が悪くなった。うう……ほんとはここまでは言いたくはなかったんだ。慌てて現状を付け足す。
「でも今は弟も大学1年だから弟自身もバイトできるようになって、私も前よりは余裕があるんだよ。弟は実家から大学通ってるし。ピアノは五十嵐くんに会えなかったら、やむなく専門教室に通って最終的にはちゃんと帳尻合わせるつもりだったよ」
そう、五十嵐くんに会うまでは、私はアユのところにいって教わるか、専門教室に通うかしようと思っていたのだ。
「でも五十嵐くんに運よく会って、強引にお願いしてよかった」
ともかくあともうちょっと、どうぞピアノのご指導よろしくお願いします、とちょっと畏まった口調で言うと、確かに承りました、と五十嵐くんもうやうやしく返事をした。
*
今日こそ昼をおごる、と五十嵐くんが言い張るので、大体の話は終わったことだしファミレスに移動することにした。さすがにそろそろ外は暑い。
「今更だけど、勤める学校ってどこにあるわけ」
「横浜」
「実家から通える範囲?」
「うん」
なので、年明けの講義の具合によっては、今のアパートは早々に引き上げることになるだろう。12月中に卒論は出してしまうし、1月も後半はほぼ無関係の試験期間で、それが終われば春休み、そして3月の下旬に卒業式だ。実家からだと大学まで2時間以上かかるが、1~2回なら苦でもない。
「そっか……」
五十嵐くんはそう呟くと、何故か黙り込んでしまった。
私は、春が来る前には戻っているであろう地元を思い浮かべる。
「横須賀はいいところだから遊びに来てよ。というよりもその前にとにかくピアノを頑張らないことにはね!」
そう、ほんとこれでピアノの単位を落としてはシャレにならない。そうだ、夏休みはどうしよう。実家に帰省するにしても、その前後は少しはやらないと、無駄になってしまう。
「夏休み、もし少し時間が取れるならピアノみてほしいんだけど。バイトも入れてるけど、まずはピアノ優先だから」
そう話すと、「そうだな、じゃファミレス着いたらちょっと予定合わせよう」といつもの五十嵐くんに戻った。
暑いからな。ぼーっとしたのかも。水分を取らなくては。