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Lesson1  ピアノ男子、現る

このお話はフィクションです。小学校の教員免許の単位取得、教員採用試験等について実際と異なる場合もあるかもしれませんがご了承くださいませ。

 

 大学構内の、教育棟と呼ばれる建物の中の小さなピアノ室。

 その一室から聴こえてくる流れるようなピアノ。


 ピアノ室から出てきたのは、一人の男子学生だった。



***



 東京西部の学園都市にある某大学の教育棟。『教育棟』とは学生たちの間での通称だ。本来は4号館という。けれどここは教育学科の、主に小学校教諭になろうとしている学生が受ける講義の教室ばかり入っているのでそう呼ばれている。例えば図工室(美術室ではない)、理科室、家庭科室、そして音楽室など。

 ここに講義を受けに来ている学生はもちろん小学校の教員になろうとしているわけなので、もちろん、すべての教科の学習をする。国語算数理科社会、生活科、図工に体育に音楽に。図工では絵を描かされ工作を作らされ、体育ではマットや鉄棒に水泳などなど、そして音楽は……ピアノ。


 そして、私は、小学校教諭を目指してこの大学に通っており、今とある難関にぶちあたっているのである。

 そう、私はピアノが弾けないのだ。触ったこともない。


 しかし、小学校の教員免許を取るのは、ピアノが弾けなくてはならないのだ。その技術は、最低でバイエル80番程度と言われている。バイエル80番……。とりあえず、バイエルの楽譜だけは買って80番とやらを見てみたが、さっぱりだった。何これ弾き方すらよくわからない。


 ピアノ実技に関しては、在学中の4年間のうちに進めて最終的に単位を取ればよい。ただし、4年生の夏に公立の教員採用試験があり、一次はペーパーテストだが、二次に進むと実技試験となる。教員免許を取るだけが目的ではない限り、単位はともかく、腕は4年生の夏までにはどうにかしなくてはならないだろう。


 ちなみに、教員免許を取得することと、採用試験に合格することは、まったく別の問題である。大学で必要な単位を取って免許を得た上で、採用試験に合格することにより、教員になれるというわけだ。もちろん単位を落とし免許を取得できなかった場合はいくら採用試験に合格したとしても教員にはなれない。ゼミの先輩でそれをやったマヌケな人がいた。

 

 と、ここまで説明しておいてなんだが、実は私は私立の小学校の教員として採用がほぼ決定している。いろいろ込み入った事情があるにはあるが要は父親のコネである。

 但し条件として履修科目の成績の8割は『優』であること。

 しかし、大学生活も3年終わったが今現在9割は『優』である。このまま行くならば何も問題はない。ピアノさえどうにかなれば。



 さて、というわけで話はピアノに戻る。


 4月の最終週、履修登録の日に、談話室で友人二人に囲まれ、私は途方に暮れていた。


 友人の一人、アユは小さい頃からピアノを習っているので難なく1年生のときに単位を取っている。もう一人、葉子ちゃんも小学生の頃少しだけ習っていたということで、あとはアユの鬼特訓で2年生のときにクリア。そして私は、まだいいや、2年で、3年で、と後回しにしているうちに4年生になってしまってさあ困ったというわけだ。


「だから言ったのに。私もう教えてあげる時間ないよ。もう大学だって来ない日多いし、バイトもデートもあるし。木曜のゼミのあとにことりが時間作るなら見てあげるけど」


 にしたって木曜にピアノ室が空いてるとも限らないしな~とアユが呆れ気味に言う。ちなみにことりとは私のことだ。


「うう……。木曜はどうしてもバイトが外せないんだよう……。もう4年目の古株だし頼られちゃってるしこればかりはどうにも……」


 水泳の得意な私は、近所のスイミングスクールのインストラクターをやっていた。木曜の昼過ぎは、おばちゃん(おばあちゃん)相手の水中ウォーキングレッスンが入っているのだ。一人暮らしはバイトがなければとてもやっていけない。


「でもことちゃん、単位は取れなきゃまずいでしょ。どこかピアノ教室に通うとか」


 葉子ちゃんが提案する。が


「そんなお金は無い」


 一人暮らしの身ではとてもそんなお金捻出できない。まだ弟妹のいる実家にも援助は頼めないのだ。


「他に誰か教えてくれるような友達いたっけかなあ。ことりはサークルも入ってないしね」


 そう、私は部活にもサークルにも入らず、3年間バイトに勤しんでしまった(残り1年も勤しむ予定である)。おかげで同じ学科では、というか大学では、アユと葉子ちゃんぐらいしか親しい友人はいない。二人はサークル活動もしているので顔も広く、そんな二人と一緒にいることで顔見知りの知人はそれなりにいるのではあるが。ちなみに何故彼女たちと友人になったかというと、入学してからすぐのオリエンテーションで席が隣り合ったからだ。


「うちに練習に来てもいいけどね。……遠いけど」


 アユがそう言ってくれるのはありがたいのだが、正直アユの家は遠い。東京の西にあるこの緑あふれる田舎の大学から、品川のアユの家へはドアツードアで1時間半だ。往復の交通費もイタい。

 そういう私は大学から徒歩圏内のきったないアパートに住んでいる。


 ともかく、どうするか。


 独学なんて絶対無理だ。こうなると、バイトの時間を調整しアユのところまで往復約1,300円で教わりに行くか、月1万かけて専門のピアノ教室に通うか、どちらか選ばねばなるまい。


 私は眉間に手を当てた。



***



 そして、GW明けの水曜日。時間は昼前。

 私は講義はないものの、ふらりと大学にやってきた。とにもかくにもピアノに触ってみようと思ったからだ。


 音楽室は入口が二重になっていて、最初にドア(引き戸ではなくドアである。防音仕様のためだ)を開けると真ん中に小さな通路、そして左手前に第一音楽室、これは小さめ。左手奥は第二音楽室、主に講義はここで行われる。そして廊下をはさんで右側には、一部屋3畳程度のピアノ室が5つほど並んでいる。中には、アップライトピアノがそれぞれ一台ずつ置かれているわけだ。

 ここで個人的にピアノの練習ができるようになっている。利用は音楽室のドアが開いているならば自由だ。開いていない場合は、教授のところにいって許可を得て鍵を借りるか、練習を諦めるか。日によって混み具合は違う。まったく空いていないときもあればガラガラのときもある。




 そんなわけで訪れた音楽室の通路で聴こえてきたのは。




 ――流れるようなピアノの音色。




 ピアノ室の一部屋から聴こえてくる。一応防音してあるのでそこまで大きくはないが、でも多少は音が漏れるのだ。


 うまいな。CDみたい。


 CDみたいという感想があまりにド素人っぽいのは許してほしい。しょせん私なんてそんなものなのだ。

 廊下に立ちつくしたまましばし聴きほれる。次から次へと、聴いたこともないような、でもすんごく難しそうな曲が流れていく。

 すると、曲が変わって、子供が弾くようなかわいらしい曲になった。それこそ、教育の学生がピアノ室で必死に練習しているような。いやこの人はもちろんそれを軽やかに弾いているが。

 あ、今度はまた違う曲。知ってるこれ。何だっけ、そうだ『エリーゼのために』。これぐらいなら私だって知っている。


 なんだか、この人はすごくピアノが好きそうな気がする。これだけうまければ好きに決まってるか。

 

 聴きながら、私はとあることを思いついた。今は時間的には講義の真っ最中。ということは、この弾いている人は、空き時間か何かということか。いやもしかしたらたまたま休講とかかもしれない。普段は空いていない時間かもしれない。アユや、専門家に習うべきなのかもしれない。第一こんな思いつきで。

 でも切羽詰まっているのは事実。これはめぐり合わせかも。これはもうダメ元で――



 ピアノが止んだ。どうやら曲が終わったようだ。

 中からガタガタという音がして、ドアが開いた。



 出てきたのは、背の高い、男子学生。

 彼は私を見て、気まずそうな顔をした。



「あー……、悪い、えーと勝手に使」

「ピアノ教えてくださいっ!」



 私は、彼の手を掴んで叫んでいた。


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