水のほとりで
あの日、わたしたちは多分運が悪かったのだ。
何月かは覚えていない、たぶん春だったと思う。
空気のいたるところにゆらゆらとたゆたうなまめかしい気配には花の香りが混じり、小さな羽虫がいくつもせわしなく視界を飛翔していた。
「きいろには虫がたかるんだ。その服はいけないな、おかあさんにいっとかないと」
「きいろ?」
水仙の小花を散らしたもめん地のワンピースは母の手縫いだった。わたしは裾にとまっていた羽虫を手で払って、また父と手をつなぎ直した。父の柔らかく長い指が好きだった。父の片手はわたしの汗ばんだ手を握り、もう片方の手は弟のベビーカーを押していた。
「アライグマ、見るか」
「うん、見る」
砂利の上で進みにくそうに車輪を回す乳母車の内側で、弟の小さな手が鈴の付いた木のおもちゃを振っていた。
真っ赤な花が群れ咲く花壇を回るとアライグマのコーナーがある。わたしの胸ほどの高さのコンクリートの壁の向こうからむっとする糞のにおいが立ち上り、何か妙な声が聞こえていた。
半地下状になったアライグマのエリアを上から見下ろすと、三組ほどのアライグマのカップルが、てんでに二つ重ねになりながらせわしなく腰を動かしていた。子どもたちが投げた餌にも見向きもしない。
父はすぐにはその場を動かず、無言でわたしの後ろに立っていた。
「これ、何してるの?」
「なにしてるんだろうね。さ、行こう」
周りの家族連れもそそくさと子どもたちをせかしてその場を去っていった。
その動物園はそのころ大型の鳥類の羽を切って放し飼いにしていた。
古びたガラス張りの熱帯植物園の前で、オスのクジャクが羽を広げていた。緑色の羽根が、日差しを照り返してぎらぎらと光っていた。不自然なぐらい美しい装飾のそこかしこに目のような模様があって、凝視しようとするわたしの視線を撥ね返した。どきどきしながら目を伏せて通り過ぎると、体ごとかすかにこちらを向くようにした。
「あれじゃ飛びにくいよね」小声でわたしがいうと、父は小さく笑った。
「飛ぶための羽じゃなくて、見てもらうための羽なんだよ」
「きれいだねって、いってほしいのかな」
「結婚してほしいんだよ」
「わたしに?」
「そうだったらどうする?」
「そんなはずないもん」
「みんな、寂しいんだよ。誰かと暮らしたいんだよ」
タヌキの檻の前に立った。オスがキューキューと小鹿のような声を出してメスを追いかけまわしていた。背後から覆いかぶさり、腰に腰を重ねてまた同じように動かし始めた。
「まいったな。まあ、春だもんなあ」
そう、やはり春だったのだ。病弱な母は微熱を出して自宅で眠っていたと思う。頭上でポプラの葉が揺れていた。弟の手からがちゃんと音を立てておもちゃが砂利の上に落ちた。わたしはよだれだらけの赤いわっか状のおもちゃを拾いあげた。父の尖った顎が空を見上げた。カラスが樹上でぎゃあぎゃあといって、また静かになった。
「お茶の間、ずっと静かだったね」
「わたしが?」
お客を送り出して玄関ドアを閉めるなり、背後に立っていた夫が言った。
「相槌はうってたけれど、上の空だった。何か思い出してた?」
「……うん…」
もう、葬儀から三週間たっている。芸術文化協会の会長さんは、父の関係で我が家を訪れる、たぶん最後のお客だった。
「あなたが話を合わせてくれたおかげで、助かったわ。それはみとめる」
父の願いで身内だけの葬儀にしたとはいえ、そのせいで葬儀ののち続々と訪れる弔問客には正直閉口していた。
「まあ、これでひと段落ってことだろう。落ち着いたら温泉にでも行こうよ」
「雄太と二人でいけば」
「お母さんが行かないと雄太もさびしいと思うよ」
「そんな年じゃないでしょ、もう中学生よ」
「ぼくも三年ぶりにゴールデンウィークに休みが取れるんだ。今まで介護とかできみも大変な思いをしてきたところだし、骨休めしてもいいんじゃない?」
「でも……。気持ちが、まだ、ついていかなくて」
すぐには首を縦に触れないほかの理由が、わたしにはあった。
三年前、父はいきなり駅の階段から落ちた。
初めてのハワイ家族旅行を決めて、全額払いこんだその翌日に。
お父様が新宿駅の階段で転倒しました。病院からの電話を受けて駆け付けたとき、父は頭を白いネットで覆われて、大したことはないと笑っていた。でもわたしは直感した、わたしのせいだ。父の余生はその春からベッドの上になった。
旅行を決めたときから予感はあった、おそらくこの旅行は中止になる。わたしが一人で移動するときは問題ないのに、家族でどこかへ行こうとすると、たいてい誰かがけがをする、あるいは病気になる。そうでなければ予定先に悪いアクシデントが起きる。
あの国も、この国も、みんな行く予定だった。台風が来たんだって。洪水だって。クーデターだって。運が悪かったね、あっちの国の人たちは大変だね、そう他人事のように言っていたのに、最近は誰も言わなくなった。偶然ではない。たぶん全部わたしのせいなのだ。次第に旅行はわたし抜きの、父子二人での旅行が中心になったのだ。それから中止になったことはない。
わたしは観念した。わたしは、参加してはいけない。贅沢な望みを持ってはいけないのだ。ここから、この森の中の家から離れず粛々と、粛々と日常の薄暗い雑事をこなしていれば、世界にはこれ以上悪いことは起きないのだろう。
するべきことは山ほどある。年金受給停止、これはやった、介護保険資格喪失届、これもすんだ、預金他通帳をすべて探す、国民年金死亡一時金請求、健康保険の埋葬料請求、納骨のために墓地の永代使用証明書を用意、高額療養費の申請、カード会社に連絡、銀行・証券会社に残高証明書発行申請……
母を亡くして二十年余り、父が独居していた小さな洋館は、我が家の裏の、早春の青い夕闇の中で雨に打たれていた。
誰かからもらったブラジル土産だという青銅製のお面が、ドアにうがたれたひし形の飾り窓からこちらを見ている。大きながらんどうの目から視線を落として、鍵穴にカギを入れる。がちん。少し錆びた鍵はいつも頑固な反動をわたしの手に残す。寒い。玄関先は寒風の通り道になっていて、いつも裏庭の竹林からざあざあと一直線に風が吹いている。
「こんばんは、おじゃましまあす」暗い洞窟のような廊下の奥に向かって声をかける。そうせずにはいられないほど、まだ父はそこに「いる」からだ。
「いるよね、確かに」
隣の県に住む弟も、葬儀後この家に来てしみじみと言っていた。
「がらんどうの家じゃないね。ここは俺の家だぞって、あちこち勝手に開けるなって、おやじの声が家に満ちてるもの」
廊下の灯りをつける。ダイニングの灯りをつける。居間の灯りもつける。そうして家じゅうを明るくしても、冷蔵庫のような冷気はそのままだ。あるじを失ってからこっち、どんなに寒い日に来ても、この家の中は確実に外気より気温が二度は低い。
「永代使用証明書、登記簿、確定申告控え、印鑑証明」
口に出しながら父の寝室に入る。クイーンサイズのベッドには真新しいシーツとふわりとした羽毛の布団が重なっている。
わたしの目には確かに、その布団の中に父のかたちが見える。
どんなにか父はここで眠ることを望んだだろう。しかしそれは最後までかなわなかった。邪魔したのは、わたしだった。
「お父さん、お父さん、そっちじゃないの。こっちこっち」
最初の入院から退院したその日の夜。トイレから出てきた父は、歩行器に両手で捕まったまま、よろよろとクイーンサイズのベッドのある寝室に向かって進もうとした。肩を支えていたわたしは狼狽した。レンタルの電動ベッドをおいた介護室に戻ってくれなくては困る。
「左じゃないの、寝室は右よ」
「左だ」
渾身の力とはこのことだった。痩せ細った全身をぶるぶると震わせて、父は寝室に戻ろうとする。わたしは全身でそれにあらがう。
「気持ちはわかるけれど、あのベッドからは一人で起き上がれないでしょ。歩行器にもすがれないでしょ、あっちじゃ介護もできないわ」
「いいんだ」
理屈ではないのだった。三か月の不自由な入院生活の間、父はただこの部屋のこのベッドで眠ることだけを夢見てきたのだ。帰宅して病院と同じ電動ベッドを見たときの父の渋面、そして沈黙。
「お願いお父さん、気持ちはわかるけれど、あっちで寝たらわたしは起こしてあげることもできないの、お食事だって無理よ、誰が背中を支えるの」
「左だ」
いったん横になったが最後、決してそのベッドから離れないのはわかっていた。
わたしは半泣きになっていた。父の額からもわたしの額からも汗が流れる。支える背中の骨は鳥かごのような感触で私の手に触れた。その鳥かごが、壊れても構わない、という決死の勢いでわたしの体に抵抗していた。籠の中のほおずきのような心臓がどんどんと打っているのが伝わってくる。そのどんどんに、わたしは答えてあげられない。
がしゃーん。派手な音を立てて、歩行器ごとわたしと父は折り重なって廊下に倒れた。わたしの体が半分下敷きになっていた。歩行器はゆがんだまま壁に激突していた。大柄な父の下でわたしはもがき、転げ落ちた携帯に手を伸ばした。番号、息子の番号。中学の期末試験中だから部屋で一夜漬けしているはず。 父の体が火のように熱い。ようやく出た息子にわたしは叫んだ。
「来て、今すぐ」
「なんなの」
「おじいちゃんと廊下に倒れてるの、動けないからすぐ来て、助けて」
「わかった」
翌日父は再入院し、そして二度とこの家に戻ることはなかった。
父の寝室の書架のファイルをめくり、金庫を開け、どうにか必要な書類は揃った。全身が冷え切っていた。地面をたたく雨が身のうちにも降っているようだ。温かいものでも飲もうと引き戸を開けて隣接するダイニングに入り、沸騰ポットに水を入れる。やかんでお湯を沸かすと危ないからと、わたしがプレゼントしたものだ。父は最後まで同居を拒み、このお気に入りの家で一人過ごしていた。
突然、テレビの横の電話が鳴った。老父のもとにかかる電話はもうめったになく、そのほとんどがセールスだ。わたしはかまわずに茶葉を急須に入れ、お湯を注いだ。七回鳴って留守電のメッセージが流れる。ふた呼吸ほどの間があって、細い声が流れ出した。
……靖さんのお宅でいらっしゃいますでしょうか。突然のお電話で失礼いたします。わたくしM市の、あべの きょうこ と申します。
お譲さまから、でしょうか、おなくなりになったとのお葉書をいただき、驚いてお電話している次第でございます。
お父様には、以前、市主催の社会人大学、江戸の歴史探訪講座でご一緒いたしました。ご尊敬申し上げていました。ご立派な方でした。ご葬儀はお身内だけでお済ませになったとのこと、お顔を拝見しないままで、何かいまでも信じられない気がいたします。せめてお宅の遺影の前に、お花とともにお参りさせていただくことはかなわないでしょうか……
いったん言葉は途切れた。わたしは湯呑を手にじっと電話を見つめた。
それまでとは違う、甲高い、切羽詰まった声が流れ出した。
……靖さん。ほんとうにお亡くなりになったのですか。もしかして、そこにいらっしゃるんじゃないの? 答えてください。わたしよ、きょうこです。
一緒に長生きしようって、いってくださいましたよね。本当に、いないの? ほんとうですか? あなたのお声で答えてください。わたしには信じられません。靖さん、わたし、ひとりぼっちよ。どうしたらいいの。靖さん、どこにいらっしゃるの。寂しいです。寂しくて、毎日、泣いています。聞こえますか。 わたし、寂しくて、寂しくて、寂しくて寂しくて寂しくて……
ピ―――。
いつの間にか湯呑を手に立ちあがっていた。
わずかに開いた引き戸の隙間から、寝室を見やる。
薄闇の中にふんわり浮かぶ羽根布団は、父のねむりを抱いたまま、雨の音とともにひっそりとまぶたを閉じていた。
阿倍野恭子の住所はわりと簡単にわかった。父は毎年来る年賀状をきちんとファイルに保管していたのだ。あいうえお順に整理した最初のポケットにそれはあった。そっと引き出して裏を見ると、行書のお手本のような流麗な女文字がひっそりとわたしを見上げた。
ご無沙汰しています。貧血気味で最近お教室のほうにも顔を出せません。春になったら血の巡りもよくなるでしょう、お勧めいただいた熱海の梅林にご一緒したいと思っています。開東閣の藤も、ご案内いただけるとのことでしたよね。靖さん、五月まで私は元気でいられるでしょうか。あなたと一緒に、梅が見たいです。藤の花が見たいです……
返事は電話でもよかったが、掛ければとんでもなく長話になる気がした。父の形見の万年筆はがりがりと画面に引っかかって蒼いインクを散らした。
初めまして、父宅にお電話ありがとうございました。今は無人となっておりますので、確認の上お返事申し上げるのが遅れてしまいました。
父の意志で身内だけの葬儀といたしましたが、父と親しくしていただいた方々には申し訳ないことと思っていました。納骨までにはまだ間がありますので、それまでにおいでいただければわたしが父宅にご案内申し上げることもできます。学びの友として深いご縁をいただいた阿倍野様にお参りいただければ父もさぞや喜ぶことと思います……
「面倒なことにならないの、それ」
いつの間にか帰宅していた雄太が背後に立っていた。わたしはびくりと肩を上げて振り向いた。
「勝手に見ないで」
「例の電話の相手だろ。おじいちゃんのストーカーだったらどうする?」
「違うわよ。確か名前きいたことあるもの」
「さびしくてさびしくて、寂しくて寂しくて寂しい人の?」
この子のいるところで夫に電話の話なんてするんじゃなかった。わたしは手紙を折りたたむと封筒に入れた。
「つきあってたのかな」
「さあね。でもおきれいなガールレンドは結構いたわよ」
「おじいちゃんて、毎日一回はおばあちゃんに愛してるよって言ってたとか、お葬式のときおかあさん、言ってなかった?」
「そういうロマンチックな人だから、一人になってからがつらいのよ。愛妻家ほど再婚が早いっていうわよ」
「へーえ」
歌うように言うと、鞄を手に雄太は二階へと上がっていった。
テレビ画面には、どこかの湖沼地帯が映っていた。
湖のひとつがアップになる。湖一面に針のように細い雨が音も無く斜めに突き刺さり、ボートに乗ったひとが大きな網で湖面の花びらを掬っている。
桜に似たそれは、桃色の膜を水面につくり、薄く美しいまがいものの地面を提供しようとしているようだ。
オールが筋をつくり、網が桃色の湖面を開く。閉じる。開く。閉じる。
レモン水を手にぼんやりと思う。
わたしなら、歩く。歩きたい。みんな歩けばいい。だから開かないでいい。そのまま閉じていたらいい。
ももいろの湖面をことばなく歩くうちに、ひとびとはみな、行きたい場所に行けるだろう。
薄青い午後、水滴に濡れた窓辺に置かれた電話が鳴った。傍らのソファで寝ていたみけねこのもねが迷惑そうに身をくねらせて欠伸をした。
「もしもし」
「中島さんのお宅でいらっしゃいますか」
「はい」
聞き覚えのある細い震えるような声。
「お葉書いただきまして、ありがとうございます。わたくし阿倍野と申します。靖さんの、お譲さまでいらっしゃいますか」
「はい、わざわざお電話いただきまして」
「わたくし、お父様のことでお聞きしたいことがありますの。ちょっとお時間よろしいでしょうか」
「はい、父宅にお参りにいらっしゃりたいとのことでしたよね」
「そのことですの。あのお葉書は、どういうことでしょうか。わたくし、もうお参りはすませておりますのよ」
「えっ?」
「なかなか連絡が取れないのでお父様のお宅へお電話したことはありますわ。そうしたら、お亡くなりになった、葬儀は済ませたというお通知が突然来て驚きました。わたくし、そのあとお花を持って、お父さまのお宅へお伺わせていただきました」
わたしは混乱した頭で記憶の隅々を探った。欠片すら出て来ない。
「ご案内いただいたのはお嬢様でしたよね。薄いイエローの服をお召しで、わたくしは白い花束を持って、小紋の訪問着を着てお邪魔しました」
「………」
かたわらでもねがごろんとひっくりかえった。わたしはその腹を撫でた。
「簡単な白木の祭壇のようなものがあって、両側に綺麗なお花が飾ってありました。お父様のにこやかなお写真があって、あとはショートピースとライターとビールがありましたよね。フィルター付きたばこなんて子供だましの煙草では味わえない深い香りがあるんだって生前おっしゃっていました。肺を痛めるからおよしなさいってわたくし散々申し上げましたのに、でも聞いてくださるような方じゃありませんでしたよね。お線香をあげさせていただくとき、お線香の火を消そうとしたら着物のたもとがライターにふれて、畳に落ちましてね、可哀想に、畳を這っていた小さい赤い蜘蛛をつぶしてしまいましたのよ。どうしてかしら、そんな小さなことまで覚えておりますの」
「はあ……」
「もしかして、わたくしたちの間が特別親しい間柄であると勘違いなさっているのではないでしょうか。わたくしご尊敬は申し上げておりましたけれど、本当に学びの友でしたのよ。それは、感想会とか研究発表の時は女性にしてはなかなかだなどとうれしいお褒めのお言葉をいただくこともありましたけれど、それはそれとしてわたくしは決して……でも自分としては晩年にわたくしのような友を得てうれしいと何度も……」
何かことばをさしはさもうとしても無駄だった、早口ではないがまったく淀みなく隙のない調子でしゃべり続ける声を聴いていると、家の裏の川の水音と相まってあまりに一本調子で眠くなるほどだった。祭壇には確かにショートピースとライターとビールがあった、だがそれは父の生前の趣向を知っていればだれでも予想がつくものだ。わたしは年配の女性を父の家に招き入れた覚えはない。この一人暮らしの上品な寂しい女性は父の“生涯最後の親友”を自負しているようだが、とどのつまりこのひと言で片づけられることだろう。このひとは、少々おかしい。つまり、気の毒なひとなのだ。
女性はひとくさり語り終わると、また冒頭から話を始めた。驚いたことに、ほとんど話の順序も使う単語も同じなのだ。まるで録音テープを聞いているようだった。三度目の再生が終わったとき、ようやっとわたしは口を挿んだ。
「申し訳ありません、留守番のものがご案内申し上げたものを、連絡がうまくいかず聞き落していたのだと思います。親戚が何人か交代で留守を預かっていましたので、確認してみます。お葉書のことは失礼いたしました、おいでくださってありがとうございました」
もう一度テープが始まりそうな気配があったが、女性はそこで押しとどめ、
「本当にいいお友達でしたのよ、決して男女の感情など持っていませんでした」
そう付け加えて、唐突に電話を切った。
ため息をついて時計を見る。一時間は経過していた。
「公園の中通って帰ったんだけどね」
帰宅した夫がネクタイをほどきながらいった。
「雨続きだからかな、池がだいぶ広がっていたよ」
「昔、池にかかる橋が水没してたの見たことがあるわ」
わたしは鍋の蓋を開けて野菜スープをかき混ぜた。
「橋なんてもう見えないよ。向こう側に行くにはぐるりを巡らないといけないから不自由だな」
「橋がなくなったなら」
オレガノの蓋を開けて粉末を振り込む。
「池がさぞ広く見えるでしょうね」
「ぼくの見解としては」
ダイニングテーブルで茹で卵の殻をむいていた息子が口を挿んできた。
「広がったのはゆゆしいことだけど、水はきれいになってると思う。透き通ってて、水中の藻が見えた」
ふと手を止めて、
「そういや、池と沼と湖の違いって何?」
最近、息子はこの手の質問が増えた。
「大きさとか深さかしら」
「深さ5メートルを超えると湖って区別も聞いたことがあるな。でも主に、沈水植物の繁茂の度合いで決まっているそうだよ」答えながら夫は息子の向かいに腰掛けた。
「湖は植物の繁茂が湖岸のみ、沼は最深部にまで植物が繁茂している。そういう違い。池はむしろ人工物」
「へえ、はじめてきいた」
「忍野八海ぐらい綺麗になったらいいわ。深くて、藻がたくさん生えてて、底まで見えるような……」
わたしの脳裏には、美しい沼から顔を出してつぶつぶと咲く白い花ばなが、おとぎ話のように浮かんでいた。
「忍野八海は深いけれど藻が中心まで生えてるんじゃない? あれなんていうのかな」息子の問いに
「だから、名前通りだよ。あれは、海」
夫は得意げに答えた。息子は続けて言った。
「忍野八海は、底で地下水脈とつながっているんじゃなかった? 世界中に雨が降り続いて、池も沼も湖も海もどんどん広がって、どんどん透き通って、底が世界中とつながって、いずれひとつの海になっちゃって、人は地上に住めなくなっちゃったらどんな感じかな」
「スープ皿出して」
ちょっとそれはすてき、と思いながらわたしはそう呼びかけた。
「人間だってきっとそうだよ。出てる部分はバラバラだけど、底できっとつながってる、地下水脈みたいに」息子は食器棚を開けながら言った。
夫は笑った。
「もしそうだったら、いいな。誰もさびしくなくて」
目が覚める。天窓を伝う雨の筋が見える。蕭蕭と雨の音が聞こえる。閉じたまぶたのうちに水の行き先が映る。葉の先から枝の先から絶え間なく垂れ落ち、柔らかな地面に小さな道筋をいくつも穿ち、細い流れは束になって速さと水量を増し、溺れた小さな虫たちを巻き込み、水溜まりのみの小休止では飽き足らず、(水面には虹色の鱗粉を輝かせた蝶がくるくると舞っているに違いない)深い緑の水をたたえた沼を泉を目指してひたはしるだろう。
そっと隣の夫の様子をうかがう。リズム正しく寝息を立てている。床に下した足の指先でスリッパを捜し、白いネルのガウンをひっかけて、すり足で階下へと降りる。よなかのダイニングに入り、冷蔵庫を開けて梅酒を取り出す。ふと、テレビの横の電話の留守電の受信を示すライトが点滅しているのが目に入る。夜中は消音にしてある、寝る前は入っていなかった。
日本酒仕込みの南高梅の梅酒のビンをテーブルに置いて、再生スイッチを押した。
ヨウケンハ、サンケンデス。ゴゼンイチジジュップン。
午前一時?
――お葉書いただきまして、ありがとうございます。わたくし先日お電話いただきました、阿倍野と申します。靖さんの、お譲さまでいらっしゃいますか。あのお葉書は、どういうことでしょうか。わたくし、もうお参りはすませておりますの。……
ゴゼンイチジサンジュップン。
――お葉書いただきまして、ありがとうございます。わたくし先日お電話いただきました、阿倍野と申します。靖さんの、お譲さまでいらっしゃいますか。あのお葉書は、どういうことでしょうか。わたくし、もうお参りはすませておりますの。
ゴゼンニジニジュップン。
――お葉書いただきまして、ありがとうございます。わたくし先日お電話いただきました、阿倍野と申します。靖さんの、お譲さまでいらっしゃいますか。あのお葉書は、どういうことでしょうか。わたくし、もうお参りはすませておりますの。
靖さん。どこにいらっしゃるの。わたし寂しくて、寂しくて、寂しくて寂しくて寂しくて………
ピ――――。
(みんな、寂しいんだよ。誰かと暮らしたいんだよ)
父のささやき声が聞こえた気がした。
窓の外で、群青の闇が水音とともに揺れていた。
その日は朝から、母の形見のワンピースに袖を通した。
なんとなく、そんな気分になっていた。
動物園に行った日着ていたあの服と同じ生地で、母がおそろいで作っていたものだ。
すとんとしたAラインの、何の変哲もないワンピース。それだけでは寒いので、黒いカーディガンを上に羽織った。黄色は羽虫がたかる、黒は蜂に見つかる。それじゃ何を着ればいいのよと、母は笑っていた。 わたしはいつも母とおそろいの服を着ていた。お揃いの二人を見るのが好きだと、父は言っていた。
夏の夕食後はよく二人で「お散歩」と称して外出していた。門のところで幼いわたしはよく、行ってらっしゃあいと両親を見送った。手をつないで二人の姿が森のなかに消える。かえらなかったらどうしようとどきどきする。でも父は必ず戻ってきた、そして森で聞いた虫とか夜の鳥とか、ききわけられないなにか不思議なものの声について教えてくれるのだった。
束の間雨の上がった庭に出て、てんでに咲いている花々を切る。
鈴蘭水仙、花大根、すみれ、小さな手作り温室の中に入ってムスカリ、チューリップ。
そういえば、裏の川のほとりにはミヤマオダマキが咲いていたはず。父の好きだったあの青紫を添えたくて、花束を手に川に向かった。
一段深く掘ったようになっている川の両側には雑木が生い茂り、雨の滴を重く受けて川床に向かって枝を垂らしている。
傾斜のきつい川岸に、ミヤマオダマキは咲いていた。ふらふらと微風に揺れる青紫の花弁。身を乗り出して、摘む。つん、と命の抵抗が指先に走る。
「あぶないですよ」
背後から不意に声をかけられて、振り向いた。
深い江戸紫色の鮫小紋の訪問着を来た、小柄な年配の女性が、小手毬の小さな花束を抱えて後ろに立っていた。
「中島さんのお宅をご存じでしょうか」
銀髪を低い位置でシニヨンにして、真珠の髪飾りで留めている。
「うちです。中島志麻子はわたしです」
「あら」
わたしは花を手に立ち上がった。
「失礼ですが、もしかして、父のお知り合いの……」
「阿倍野恭子です」
蛇の目風の花紺の傘が、あわい青を白い粉っぽい頬に落としている。
ぱぱらん、と音がして木々から水滴が傘に落ちた。
「見て」
恭子さんは嬉しそうに上を見上げて言った。
「珍しく雨が上がったからお出かけしたんですけど、水にぬれないと絵が浮き出ないのよ。あなたにお見せできてよかったわ」
頭上の花紺のアーチに、尾を振って泳ぐ青文魚の文様が浮き上がっていた。
お邪魔します、と会釈して恭子さんは時雨下駄を脱ぎ、冷え切った玄関を上がった。父宅の廊下はいつも、お線香と朽ちた百合の花を合わせたようなにおいがしている。わたしのあとから足音も立てずついてくる上品な顔の老女が、本当に生きた人だろうか、森の奥から現れた幻影ではないかとわたしはかすかに訝しんでいた。
恭子さんは無言だった。無言で小さな祭壇の前に座り、無言で父を見上げた。母と豪華客船の旅をした時の写真を切り取ったもので、ミンサー織りのあずき色のボーダーシャツを着て笑っていた。
わたしは恭子さんの小手毬を受け取ると、ちょっと待ってくださいねと言いながらヒーターのスイッチを入れた。祭壇の両脇の花器を古い花ごと持ち上げて洗面所に運ぶ。古い花を捨て中をざっと洗うと、水で満たして、摘んできた花を生けた。
花で満たされた花器を持って戻ると、恭子さんは父の遺影を見上げながら、小声でつぶやいていた。
靖さん。二人でいろんなものを見ましたよね。探訪会では、わたくしの荷物を持ってくださいましたよね。お茶を飲みながら、こんな楽しい日がまだあるなんて、とおっしゃってくださいましたよね。あなたはお若かったわ、今こうしてみてもお若いわ。ね、次はわたくしの番ですよ。もうわたくし、何も怖くないのよ。
わたしはそっと写真の両側に花を置いた。恭子さんは黙った。
わたしは、ぽつりといった。
「いいですね」
恭子さんの視線の先で、父が柔らかに笑っていた。
「なにもこわくないって、すてきですね。わたしもう、どこへも行けないんです」
恭子さんは黙っていた。
「……自分が変だというのはわかっているんですけど。でも、どうしてもつながっていると思えるんです。
わたしがどこかへ行こうとすれば不幸が起きる。世界は不幸だらけです。世界に対して責任がないと、あるいはあると、誰かが言ったとしても、わたしはそれを信じない。ただ、この世の真実が知りたいんです。わたしはどこへいけばいいんでしょう。父はもっと生きたかったと思うんです。あのときああしていれば、こうしていればと思っても甲斐はないとわかっているのに。それでいま、わたしにできることは、ただここで座って、昔のことを思い出すだけなんです」
恭子さんは祭壇の一番下に置いてあるお線香入れの箱のふたを開け、一本取りだした。蝋燭の火に近づける。わたしはふと彼女の座る座布団の脇を見た。埃かとも思えるような小さい赤い蜘蛛が歩いていた。 お線香の先に蝋燭の火が燃え移り、一瞬大きく揺らめく。火を消そうと恭子さんが右の掌を振ったそのとき、たもとが祭壇の父のライターにふれ、ライターは落ちた。
……埃のような蜘蛛の上に。
恭子さんはライターを拾い上げた。
「あら、可哀想に」
ライターの下の蜘蛛は、赤いしみのようになっていた。
わたしはその赤を凝視していた。
「お好きになさればいいのよ」
歌うように、恭子さんは言った。
「何が前で、何があとかなんて、関係ないのよ。輪は、閉じているのよ。
すべては起こったことなんですよ。なにもかも。だから、あなたはどこへでも、行きたいところに行けばいいのよ」
わたしは蜘蛛をティッシュでつまんで、躊躇したのち、開いた。
ティッシュにはなにもついていなかった。真っ白だった。
「すべては、おこったこと、なんですか?」
わたしはゆっくりとした口調で、恭子さんに尋ねた。
「いいえ、何も起こっていないのよ」
「さっき……」
「同じことでしょ」
恭子さんはゆっくりと立ち上がった。わたしは肩に手を添えて支えた。
「ありがと」
恭子さんは柔らかな笑顔をこちらに向けると、言った。
「靖さんは旅がお好きだったわ。もっともっといろんなところに行きたかったことでしょう。あなたはどんどんいかれるといいわ、あのかたの行きたかったところへ」
「いきたかったところ……」
「行って、この輪のそとに出られるといいわ」
恭子さんは、花器の中のミヤマオダマキを指さした。
「これ、このお花、靖さんはお好きでしたよね。ご存じ?」
「ええ、知っています」
「でしたら、このお花がたくさん咲いているところはどうかしら。靖さんはたくさんお花の図鑑をもっていらしたわよね。調べて、お行きになったら」
「……素敵ですね」
「すてきでしょ」
恭子さんはそろそろと廊下を進んだ。玄関先で時雨下駄をはくと、玄関わきのあかりとりから外を見て、静かに言った。
「すっかり雨が上がって。何日ぶりかしら」
玄関ドアを開けると、日差しを含んだやわらかい風と光が流れ込んできた。
「ここでいいわ。お別れができてすっきりしました。どうもご案内ありがとう。お嬢様のお顔も見られて、よかったわ」
「わたしも、お会いできてうれしかったです」
「旅に、お行きなさいね」
「はい」
「ご家族と」
「はい」
恭子さんは門から出ると、今度は日傘のようにして、蛇の目を開いた。
一瞬見えた青文魚がすっと日の光に消えた。
門から出るかでないかのうちに、風にざわめく木々が恭子さんの姿を覆い、
足音ごと、緑のなかに包み込んでわたしの視界から隠した。
わたしは父の家の居間に戻った。
花器からこぼれる花々が、水滴を畳に落としていた。
写真の父は変わらず、ふんわりと笑っていた。
わたしは西側の壁を埋め尽くす書架から植物図鑑を捜し、窓から入る緑の日差しの中に座り、
そして、ミヤマオダマキの頁を開いた。