魔皇女スノウグレイの結婚
魔皇女スノウグレイ。
この世で最も罪深き女の名前にございます。
「お初にお目にかかる。我はツカニ国王、ライトネスだ。これからよろしく頼む」
「ショウセ皇帝ヴィーロウが妹、スノウグレイと申します。どうぞ、末永くお願いいたしまする」
そうして交わした手のひらはやや汗ばんでおり、ふと見上げると、スノウグレイより頭二つほども高い位置にある、仏頂面の殿方の顔が林檎のように真っ赤になっていて、「意外と悪いようには思われていないのかしら」と安心したのを今でも覚えています。
同時に懐に忍ばせた小刀を思い出し、哀れに思いました。この男もまた、お兄様の駒となるのだと。
ライトネス様、スノウグレイの旦那様。魔皇女と結婚したばかりに悲劇を辿ることとなる、可哀想な御方。
◇◇◇
スノウグレイ——スノウの生まれは、ショウセという小さな国です。四方を強国大国に囲まれていましたが、父王はよく立ち回り、大国間を練り歩く商人の中継地として、栄えるとまでは行かずとも、国民皆勤労に励み慎ましく生活しておりました。
王家の末姫であるスノウは、それはそれは可愛がられて育ちました。
大家族の兄妹の中でも一際お転婆で、余所行きのドレスで庭を駆け回り泥まみれにし、かと思えば泥んこのドレスを脱いで城下街に繰り出し、「ちい姫様、これ食べい」と道行く民から渡された菓子で腹を満たして城へ帰る、無知無謀な子供でした。婆やと侍女には大層苦労をかけましたが、沢山の愛を受け取り、苦という苦を知らずに成長しました。
尊敬する両親と兄姉、厳しくも温かな婆やと侍女、優しい国民。大好きな人達に囲まれた世界は甘やかできらきらと輝いていましたが、それが当時の日常でしたので、幼いスノウは愚かにも、その輝きが「普通」で「永遠」であると思い込んでしまっていたのです。
スノウの平穏な日々が一変したのは八歳の頃、父王が病に伏した時でした。
流行り病に身体を蝕まれ、父はみるみると衰弱していきました。宮中のあらゆる人間が手を尽くして父の治療に臨みましたが、鳥も蝉も寝静まった夏の夜、穏やかに息を引き取りました。
ひと月の服喪期間、国中が静かに死を悼みましたが、その裏、王宮内は上から下まで慌ただしく騒ぎ動き、嘆き悲しむ間も無いまま、一番上の兄、当時十九歳であったヴィーロウお兄様が王位を継ぎました。
お兄様は武勇に優れ頭もキレましたが、如何せん破天荒な性格ゆえに保守派の重臣からは煙たがられておりました。一言目には「末姫様は良くも悪くも王太子殿下によく似ていらっしゃる」、二言目には「王太子殿下の真似をしてはいけませんよ」と言い含められていたのを覚えています。
しかしどれだけお兄様が煙たがられようと、周辺諸国では長男が王位を継ぐことが一般的であり、ショウセ王国もまた、古い習わしに則りヴィーロウお兄様に王冠が載せられたのです。
さて、お兄様の覇道は、親族の虐殺から始まりました。
ヴィーロウお兄様が王位に就いてからというもの、ショウセは建国以来の動乱の最中にありました。あえて理由を申し上げるならば。
ひとつ、ヴィーロウお兄様による急激な改革。強兵強国を掲げられると、精霊術という面妖な奇術を使う異国人を重用し、国家予算の大部分を軍費に当て、ショウセ王国はショウセ帝国へ――他国へ侵略を繰り返す軍事国家へと舵を切られました。
ふたつ、上から二番目の兄の反乱。ヴィーロウお兄様に反発した保守派の重臣が二番目の兄を担ぎ上げ、内乱が勃発しました。
みっつ、他国の急襲。小国大国問わず領地を奪い合うこの乱世、国家間の戦争というものはそう珍しいものではありません。内乱が起き外つ国への警戒まで手が回らなくなった小国を狙う国が現れるというのは、簡単に予想のつくことです。
ヴィーロウお兄様は家族を殺し、臣下を殺し、敵将を皆殺し。
やがてお兄様は「魔皇」と噂されるまでになりました。
とんでもない侮辱です。魔王が人間の敵というのは赤子でも知っていること。それをもじった渾名を付けるとは。お兄様だけでなく、お兄様に従う民をも貶める、悪意が見られます。そんな渾名でもお兄様は一笑すると、自ら「魔皇」を名乗られたのです。
内外共に魔皇となったお兄様は、破竹の勢いで他国への侵略を繰り返し、スノウが自室で震え縮こまっている間に、愛するショウセは血で染まり、国土は広くなりましたが、家族はお兄様とスノウだけになっていました。
何故お兄様がスノウを生かしたのか、その真意は分かりません。
一人くらいは、政略結婚の駒として使える人間を残しておきたかったのでしょうか。
戦乱の頃にはお転婆娘は鳴りを潜め、日の当たらない場所に籠もる陰鬱な女でありましたので、従順な妹と思われたのでしょう。
実際そのとおりで、二人兄妹となってからというもの、お兄様のことがとても恐ろしく、「ヴィーロウお兄様」と名前を呼ぶことが出来なくなっていました。返事をする時は必ず、「はい、お兄様」と。いいえ、なんて言えませんでした。お兄様を否定しようものなら、城壁に提げられた生首の列にスノウも並ぶことになる。そんな想像をしては身体を震わせ、なるべく存在を思い出されないよう、目を合わせず息を殺して生きておりました。
けれど、それは城の中の話。
何も知らない外から見ると、ただ一人生かされた妹です。
お兄様は無理にスノウを社交に連れ出すようなことはされません。それが余計に、スノウを溺愛して外に出さないのだと噂されました。
魔皇の妹、掌中の珠。
それが、スノウグレイ・ショウセの価値でございましょう。
帝室ただ一人の駒として、この身の振り方は全てお兄様に委ねておりました。いつかはショウセの利に繋がる、何処ぞのお家の殿方の元へ嫁ぐのだろうと。そう思いながらぼんやりと変わりゆくショウセを眺めて、もうすぐ齢二十になるという時。
お兄様から呼び出しを受け、人払いがなされた庭園のガゼボというごく私的な場で、スノウの沙汰が言い渡されたのです。
——スノウ、ツカニ国王へ嫁げ
「はい、お兄様」
——我が覇道の妨げとなるようであれば、それで殺せ
「はい、お兄様」
花の細工が施された小刀を受け取り、淡々と、嫁ぎ先が決まりました。不安はなく、やっと血の染みついたこの城から離れられると、安堵ばかりが胸の内を占めました。
嫁ぎ先のツカニ王国は、ショウセとはひとつ国を挟んだ海沿いの国です。面積は小さいながらもよく整備された港を有する商人の国。そして、お互いに隣国であるヨモウ王国という目の上のたんこぶを抱えた国同士。
様々な思惑が重なり、この度締結されたショウセ・ツカニ同盟を確固たるものとする証として、スノウが差し出されたのです。
政略結婚に人相も年齢も関係ないとはいえど、やはり夫婦の契りを交わすお相手は気になります。はたしてどんな御仁かと思えば、釣書に描かれていたのはきりりと眉を吊り上げ、口を真一文字に結ばれた、黒髪黒目の年若い殿方でした。
聞けば、歳の頃は二十三。スノウより四つ上の若王に、気は合うかしら、お好きなものはあるかしらと気を逸らせたものです。
婚姻が告げられてから半年後。夏が始まる頃に嫁入り道具を持って祖国を発ち、ヨモウ王国とツカニ王国の国境で、いよいよツカニに身柄を引き渡されることとなりました。
やや物騒な物言いやもしれません。ですが当時のスノウは本当に、己を人質、あるいは籠の鳥と思い、忍ばせた小刀一本が心の頼りだったのです。
型どおりの挨拶の後。そんなスノウの心を見透いてか、ライトネス様は離した手を再びスノウに向けられました。
「安心なされよ。其方がツカニに入られた今この時より、其方はライトネス・ツカニの妃である。我は其方に傷ひとつ付けさせぬと誓う。我、そしてツカニの民が、心で以て其方の不安を切り払ってみせよう」
差し出された右手は小刻みに震え、顔色はまたも熟れた林檎のように真っ赤になっておりました。
その様子は大変愛らしゅうございました。だって、輿入れするスノウよりも震えておられるのです。子鹿の如きライトネス様を見て肩の力が抜け、幾何か闇が晴れたような気分になりました。
しかしそんなことを言えば、彼の方は苦々しいお顔で「私は其方より年上で、童ではない」と反論なされるのでしょうが。この大男が童に見える者など、世界に一人とおりません。本当に、ずうっとお可愛らしい、スノウの林檎の君。彼のお耳の届かないところで、こっそりとそうお呼びしていました。
「では、スノウグレイ。我等の城へ帰るぞ!」
「はい、陛下」
今度は不自然なほどに大声で、棒読みで、そう仰られました。
後によく知ることとなるライトネス様の性格からして、これは一国の姫を迎え入れるために彼なりに悩み考え、練習もされた末のお言葉であったのだと思います。
この世で最も輝かしく、愛しき御方との結婚。
それは、スノウの生涯において、一番の過ちでございました。
ツカニ王国は太陽が昇るのと同じくして人と船が忙しなく動く、大層活気溢れる国でした。
海と街を一望できる王城で、真昼の活気熱気を感じるのも好きでしたが、昼の喧騒が幻のように静まった夜、船待ち揺れる篝火を眺め過ごすことが一等お気に入りでした。
輿入れからそう月日の経たぬある夜、いつものように寝室のバルコニーから城下を眺めていると、
「夏とはいえ夜は冷える」
薄手の羽織をスノウに被せ、ライトネス様は隣に立たれました。
「また海を見ていたのか」
「はい。気が安まりますゆえ」
賑やかなのも良いけれど、平穏に時が流れるさまを頭をからっぽにして眺めるのもまた良いものです。
そう伝えると、ライトネス様は夜風に吹かれる暗い海を、慈愛の籠もった眼差しで見つめられました。
「そうか。……我はこの穏やかな海を、民の穏やかな眠りを守らねばならぬ。其方の心の拠り所であるならば、尚のこと」
慈愛に満ちた瞳がゆっくりとスノウに向けられたその瞬間、何故だか突然胸が痛くなって、その場に座り込んでしまいました。
「どうした!?どこか痛むのか、医者、医者を呼ばねば」
「ふふ、お医者様は要りませぬ。急に胸が痛くなってしまったの」
「胸!?やはり痛むのではないか!とにかく早く中へ」
力の抜けた身体はあっという間に抱きかかえられてしまって。胸の痛みが何故だかなんて、ライトネス様の腕の中、慌てふためく彼を見つめていればすぐに分かりました。そうしてスノウはついと部屋の隅を指差して、
「運ばれるなら、あそこがいいわ」
「当たり前だ!急病人をベッド以外に寝かせられるか!」
「落ち着いてくださいませ。貴方様は、恋という病名をご存知でないの?」
「こ、こっ、恋!?」
声が裏返るばかりか、咽せてしまったライトネス様を、今度はスノウが介抱して差し上げたのです。
こうして思い返すと、彼の御方の愛するこの国を彼の傍で守りたいと思ったのは、端から見れば他愛もない日常の一幕がきっかけでした。
秋から冬へ移り変わろうかという頃。ライトネス様の政務の息抜きに、二人で王城の庭を歩いておりました。
どの花木も綺麗に整えられてはいましたが、季節柄、木の葉は色を無くし、冷たい風に吹かれては一枚また一枚と地に落ちてゆきます。
その様はもの悲しくもあり、寒い冬が間近に迫っていることを感じさせられました。
「もう枯れてしまうな」
「すぐに新芽が生えて、緑の季節になりましょう。それに、雪化粧の山々もまた美しいかと。スノウはツカニの冬が楽しみですわ」
ツカニ王国は海の反対方向には山々が広がっており、山側は大層雪深い地域です。ショウセ帝国は雪とは縁遠い土地ですので、スノウは雪というものをあまり知らずに生きてきました。
目覚めたら白銀の世界だなんて、どれほど素敵な景色なのでしょう。
未だ見ぬ雪国の冬に胸を踊らせると、ライトネス様はスノウをまじまじと見つめられて、
「其方は冬の生まれであったな」
ふと、思い出されたようにそんな言葉を呟かれました。
突然話題を変えられたので、何か思うところでもあったのかとお顔を見上げると、いつもは真一文字に結ばれた唇が僅かに綻んでいました。
「冬に慶事があるのは良い。雪で冷やされた心を温めてくれるというもの。産まれたのが銀花と見紛う姫であったならば、国中が暖炉も要らぬほどの暑さであっただろう」
「貴方様は、時折口説き文句のような歯の浮く台詞を何とも思っておられぬように吐かれまする。出会ったばかりは女子にも慣れておられぬ様子でしたのに」
「……はっ!何も口説こうという訳では!いや、其方が花というのは間違っておらぬが!いや、何を言っているんだ私は……」
慌てた分だけ口説き文句を重ね、頭を抱えたライトネス様は、本当に無意識の言葉だったのでしょうけれど。人たらし、いえ、妃たらしがすぎる御方です。
真っ赤なお顔をさらに真っ赤にさせたいわ、と少しばかりの悪戯心が湧いてしまって、ライトネス様のお顔をのぞき込みました。
「そうですね、例えこの身が花として。この身が朽ちようと、スノウの心は永久にライトネス様のお傍に」
「……其方の方が、遥かに気障ったらしいではないか」
「あら、歯の浮く台詞で返してはくださりませんの。その方がスノウは嬉しゅうございます」
にっこり微笑むとライトネス様は苦々しげに顔を歪められたので、揶揄いすぎたわ、と慌てて言い訳を考えたのですが。
ライトネス様は背筋を伸ばして立ち上がり、スノウの両の手をその大きく武骨な手で包まれて、
「愛している」
あまりにも真剣な顔で仰るので、スノウは何も言えずに立ち尽くしてしまって、焦れたライトネス様から「何か言わぬか!」とお叱りを受けてしまうのでした。
ツカニでの生活は驚くほどに心地良く、ゆっくりと時が過ぎていきました。
余所行きのドレスで庭を駆け回り泥まみれになる幼な子をライトネス様が追いかけるこの光景も、もう何度目になるか。
「こら、待たぬか!……誰に似たのだ、この跳ねっ返り娘は」
「頑固なところはライトネス様そっくりですわ」
「よく舌の回るところはスノウグレイそっくりだ」
きゃっきゃと喜声を上げる子を、二人並んで眺めることの何と幸せなことか。
このまま時が止まってしまえばよいと思う気持ちと、我が子の成長を愛する人と見守りたいと思う気持ち、どちらもあって、なんて贅沢者なのでしょう、と罪深い溜息を溢しました。
「愛いな」
「ええ、本当に。エペーリア、此方に来なさい。母様と遊びましょう……あら、どうなされたの?」
いよいよ侍女が困り顔になっていたので、娘の相手を代わろうとしましたが、ライトネス様の腕に止められ、首を傾げると、
「今は止めておけ。お転婆の相手は、身重には辛かろう」
そっとスノウの髪を撫でると、ライトネス様はわざとらしく悪い顔をされて、満面の笑みで駆け寄って来る娘を高く抱きかかえられました。
「ふはは、騙されおって。母様の膝が欲しければ、父を倒してからにするのだな。そうれ!」
この時間の、何と幸せなことか。
ツカニ王国に嫁いでからというもの、いつだってこんなにも幸せな時はないと感じているのに、日々幸せが積み重なって、未来にはさらなる幸せが待っているのです。
そう思っていたスノウは、ショウセ帝国の姫であったときと何ら変わらず、情勢の見えていない愚かな女でございました。
乱世の魔の手が、遂にツカニ王国にも伸びようとしていたのです。
「同盟国たるカコウ王国へ向けて、ショウセ帝国軍が進軍を開始したと……?」
「ああ。我等も身の振り方を考えねばならん。ショウセにつくか、カコウにつくか……」
スノウが穏やかな日々を過ごすなか、ショウセ帝国は日夜戦を繰り返し、着実に領土を広げていました。
カコウ王国はツカニ王国の隣国であり、同じ海国として同盟を結んでいる相手です。
その同盟を、ショウセ皇帝たるお兄様が知り得ぬはずがないのです。
「直ぐに文の用意を。お兄様に掛け合います」
スノウに出来ることなどたかが知れております。しかし何かしていないと気がやられてしまいそうで、焦燥が募る日々でした。
スノウはただ、穏やかな海を、穏やかな民の眠りを、穏やかな家族との日々を守りたかったのです。
同盟国との義を取るか。
王妃の母国との義を取るか。
同盟があるとはいえ加勢してはこちらが狙われるのではないか。ショウセは近頃武力差をちらつかせ、ツカニを属国にしようとしている。加勢せずともじきに狙われる。王妃のお立場はどうなるのか。あの魔皇に情はない、つい最近、魔皇の妃の母国も帝国軍に滅ぼされたではないか!
城の会議室では夜通し議論が交わされ、遂に決断が下されました。
「我等ツカニ王国は、カコウ王国を救うべく挙兵する。ショウセ帝国軍に我等の海は荒らさせぬ!」
同日、お兄様から返ってきた便りは、白紙でございました。
ツカニが挙兵したことでショウセ帝国軍はツカニ、カコウ両軍に挟み撃ちされ、敗走。一時は難を乗り越えましたが、そう間を空けずしてカコウ王国へ侵攻。今度は倍の数の兵で以てカコウを蹂躙し、その兵力がツカニへと差し向けられたのです。
奮戦するも数の暴力に押し負け、じりじりと戦線は後退し、城内が重傷兵で溢れつつあるなか。
再び、連日連夜に及ぶ議論の末、
「我等は一歩も退かぬ」
導き出された結論は、国家存亡を懸けた徹底抗戦。
人生とはこんなにも呆気なく悪い方向に転がって行くのだと思ったのは、それが二度目のことでした。
バルコニーから見える城下街は昼間だというのに静かで、城の庭は苦痛の声で溢れかえっておりました。
スノウも出来ることをせねばと、お洗濯の手伝いに向かおうとした時です。戦鎧を纏ったライトネス様が来られて、
「スノウグレイ、子を連れてショウセへ帰れ」
「スノウも子も、帰る場所はこの城にございまする」
「屁理屈を言うな」
髪を撫ぜる手は温かさの欠片も感じられず、険の刻まれたお顔は酷く窶れていらっしゃいました。
自ら戦場に立ち、指揮を執って居られるのです。戦場に身を置き、心身が休まらぬまま削れつつあるのでございましょう。
お忙しい御身がわざわざ城に戻られたのですから、とにかくお心を癒して差し上げねばと、ライトネス様のお言葉は聞き流してゆるりとお側に立つも、依然として険しい表情のままで。
「ショウセからも、降伏の催促が来ている。女子供は助けてくれると」
「ならば、降伏を」
「ならぬ。私はツカニの王だ。何者にも膝をつかぬと決めている」
「この、頑固者!貴方様のお命あっての冠でしょうに!」
「ツカニは引かぬ。今も、民が骨を砕き祖国を守るべく戦っているのだ。その覚悟を捨てる王が何処に居ろうか!」
「貴方様のお命あっての冠であり、民の命あっての国であると申しております!」
「ならぬと言っている!ツカニの民に二言はない。この胸にある誇りが祖国を踏み荒らされることを許さぬ。我等は大義を掲げ、大義に生きるために戦うのだ」
ついカッとなって、はしたなくも強い口調で怒鳴ってしまったら、ライトネス様も怒鳴り返してきて、彼の御方と言い争いをしたのはこの時が最初で最後でございました。
ライトネス様はご自分の仰りたいことを言うだけ言うと、それまでの険しい顔付きを一変させ、珍しく眉を下げられて微笑まれました。
何時になく柔らかい微笑みでした。
その時、スノウは分かってしまったのです。
スノウの言葉は、最早何も響かない。
ライトネス様は、国と共に滅び行くおつもりなのだと。
「私は、愚王に見えているか」
「……スノウには、何ものにも代え難き、愛しき御方に見えております」
ライトネス様がお心を決めてしまわれたのであれば、スノウは彼のお心に従うのみ。
けれどライトネス様が御身の最期を決められたように、スノウもまた己の最期はこうと決めていたことがありましたので、ひとつ我が儘をお伝えいたしました。
「子はショウセへ届けさせましょう。けれどスノウは最期までライトネス様のお側に居とうございます」
「何を言っている」
ライトネス様は少し困った表情をされて。
「『この身朽ちようと、心は永久に傍に』——初めにそう言ったのは、スノウグレイだろう」
愛していると、初めて言われた時と同じように何も言えずに立ち尽くしてしまったスノウを、今度は「何か言え」と叱られることもなく、ただ微笑まれて、
「さあ、出立の支度を」
そう、スノウの肩をそっと押されたのです。
何故、この時ライトネス様の腕に縋り、言葉を返せなかったのか。悔やんでも悔やみきれぬことです。
ライトネス様は、スノウがツカニの国境を跨ぐ時、「傷ひとつ付けさせない」と仰ったのを覚えていらっしゃいますか。
ライトネス様はいつも正しいけれど、どうしてこの時だけ、スノウに嘘をお吐きになられたの。
スノウは貴方様に、とても深い深い傷を付けられたというのに。
けれど、謝ることは何時だって遅くないの。例え今からでも、謝ってくれたら許してあげましょう。
◇◇◇
ベッドサイドに灯りをひとつ点けた部屋で、今日はこれでお終いと、寝物語の代わりに聞かせていた日記帳を閉じました。
おませな娘達はライトネス様とスノウのなれそめが気に入りで、母がひとつ揶揄いを口にすれば父はいつも顔を林檎のようにしていたと申せば、きゃっきゃと楽しそうに手を叩いて笑うのです。
あまりにも楽しそうなので、スノウもつい嬉しくなってしまって、ライトネス様が如何に素晴らしい御方で、お可愛らしくて、貴女達はそんなお人の血を継いでいる何より愛しい子供達と語って聞かせるのでした。
続きを強請るように一番上の娘が突進してきました。
「母様は父様のこと、今でも大好き?」
「……ええ、ええ。母様は父様のことが、ずうっと大好き。貴女達も、父様と母様のように、愛する人と出会って幸せな結婚をするのですよ」
柔らかい銀の髪はスノウに似たけれど、キリッとした眉はライトネス様にそっくり。
くうくう寝息を立てる下の娘は、伏し目がちであまり表情が変わらないところはスノウに似たけれど、ライトネス様の黒目黒髪を受け継いでいます。
子を眺めている時だけは、むざむざとショウセ帝国へ戻り、再び魔皇女と呼ばれるようになったスノウグレイではなく、ツカニ王妃のスノウグレイを思い起こされて、心が幸せで満たされるのでした。
「……もうこんな時間。いけないわ、ほら、もうおやすみの時間ですよ」
灯りを消し真っ暗になった部屋の片隅に、ぼんやりとライトネス様のお姿が現れました。
今日も娘達の様子を見に来られたのかしら、娘達はもう寝入ってしまいましたわ、と手招きするも、ライトネス様は部屋の隅から微動だになさらずに、
「スノウグレイ、其方は今、幸せなのか」
またそのお顔。ショウセへ戻れと告げられた時と同じ、苦しげに歪められた険しいお顔。
そのお顔、スノウは好きではないわ。
どうしてそんなにも辛そうになさるの。スノウは不思議でたまらなくて、首を傾げました。
「子がいて、貴方様がいらして。これほどの幸せ者は、天上にも居りませぬ」




