EP 3
箱根の峠と、寸胴鍋の荷重移動
「さわやか」のハンバーグで完全に英気を養った佐藤家を乗せたエスティマは、国道1号線を東へとひた走る。
静岡を抜け、神奈川県境へと差し掛かると、道路は一気に勾配を増した。
天下の険、箱根峠である。
「おっ、始まったな。ガチ勢のパレードだ」
助手席の鷹人が、バックミラーを見ながらニヤリと笑う。
後ろからは、先ほどの赤いスーパーカーこそいないものの、チューニングされた国産スポーツカーや、やる気満々の欧州ハッチバック勢が、虎視眈々とエスティマを抜く機会を伺っていた。
「母さん、後ろが詰まってるぞ。行かせてやるか?」
「ええ、そうね。……でも、千姫が寝ちゃったから、あんまり急な動きはしたくないわ」
恵はバックミラーで、チャイルドシートですやすやと眠る千姫を確認する。
その腕には、空になった苺ミルクのパックが大事そうに握られていた。
「わかった。じゃあ、いつも通り『スープをこぼさない運転』で行くわね」
恵の言葉に、信長が「えっ?」と声を上げる。
「スープって、何だよ母ちゃん?」
「給食センターから学校まで、出来立てのスープが入った巨大な寸胴鍋をトラックで運ぶのよ。急ブレーキや急ハンドルなんてしたら、スープがこぼれて大惨事。だから、車体を水平に保って、じわーっと曲がるの。これが結構、難しいのよ?」
恵は事も無げに言うと、アクセルを一定に保ったまま、箱根の急カーブへと進入した。
キイイイイイッ!
後ろのスポーツカー勢が、タイヤを鳴らして果敢にコーナーを攻める。
一方のエスティマは、驚くほど静かだった。
タイヤの鳴き声ひとつ立てず、車体もほとんど傾かない。
まるで、見えないレールの上を滑っているかのように、滑らかに、そして、恐ろしいほどの速度でコーナーを駆け抜けていく。
「なっ……何だ、あのエスティマ!?」
後ろを走っていたスポーツカーのドライバーは、目を疑った。
自分が必死にタイヤのグリップ限界と戦っている横で、ファミリーカーが、まるでパレード走行でもしているかのような余裕で、自分より速いコーナリングスピードを維持しているのだ。
それこそが、恵が無自覚に極めた『究極の荷重移動』だった。
車体の重さを四本のタイヤに均等にかけることで、グリップ力を最大限に引き出す。
寸胴鍋のスープをこぼさないという『制約』が、奇しくもレーシングドライバー顔負けの技術を恵に植え付けていたのだ。
「……母ちゃん、マジで何者だよ」
信長は、後部座席で軽くG(重力)を感じるものの、全く不快感のない不思議な乗り心地に、呆然とするしかなかった。
恵は、迫り来るスポーツカー勢を、バックミラーで「あら、お先にどうぞ」と次々に先に行かせつつも、コーナーでは寸分違わぬライン取りで、結局は彼らの前に出続けてしまう。
それは、追い抜こうとする者たちに対する、悪意のない、しかし圧倒的な『壁』だった。
そして、箱根峠を越え、エスティマは第2チェックポイントである『大涌谷』の駐車場へと滑り込んだ。
「うわっ、硫黄の匂い! すごい煙!」
車から降りた信長が、鼻をつまみながら周囲を見渡す。
あちこちから白煙が立ち上り、独特の匂いが立ち込めている。
「ちーちゃん、おそとー! ……あれ? なんかくさい?」
目を覚ました千姫が、鷹人の抱っこで不思議そうに鼻をひくひくさせる。
「ガッハッハ! これが火山の力だ! さあ、匂いの元へ行くぞ!」
鷹人を先頭に、家族は噴煙地へと続く自然研究路を歩く。
お目当ては、もちろんあれだ。
「はい、お待たせ! 黒たまごよ!」
恵が、売店で買ってきたばかりの真っ黒なたまごが入った袋を掲げる。
「うおっ、本当に真っ黒だ」
信長が、熱々のたまごを手に取る。
「地熱と火山ガスの化学反応で、殻が黒くなるのよ。一つ食べれば七年寿命が延びるんですって」
「七年!? すっげえじゃん! いただきまーす!」
信長が殻を剥くと、中からは真っ白なゆで卵が現れた。
一口齧ると、程よい塩気が効いていて、濃厚な黄身の味が口に広がる。
「美味っ! なんか普通のゆで卵より、味が濃い気がする!」
「そうだろう? 温泉の成分が染み込んでるからな。……千姫も食べるか?」
「ちーちゃん、たまご、むきむきする!」
千姫が、小さな手で一生懸命に黒い殻を剥く。
その様子を、恵と鷹人が微笑ましそうに見守る。
家族4人で、黒たまごを頬張りながら、大涌谷の壮大な景色を眺める。
昨日の敗北の悔しさが、箱根の煙とともに、少しずつ空へ溶けていくようだった。
「……来年は、俺もここのたまごみたいに、殻を破って強くなる」
信長が、ボソリと呟いた。
「おう。その意気だ。俺も、お前のためのバッティングゲージ、もっと頑丈な奴に作り直してやるからな」
鷹人が、信長の肩をポンと叩く。
「ええ。母ちゃんも、もっと栄養満点の給食……じゃなくて、家のご飯作るわね」
恵も、優しく微笑む。
「ちーちゃんも、のぶにぃ、よしよししてあげる!」
千姫が、たまごの殻だらけの手で信長の頭を撫でる。
家族の絆が、また少し深まった。
大涌谷のチェックポイントを無事クリアした佐藤家は、そのまま箱根の温泉宿へと向かった。
まだ旅は始まったばかりだが、温泉に浸かって、旅の疲れと、そして、心の疲れをゆっくりと癒やすために。
ジャパンカップ・第2チェックポイント、神奈川県。
佐藤家、黒たまごと家族の笑顔とともに、無事クリア!




