EP 1
ため息の夏と、ハワイ行きチケット(物理)
ジュウウウウウッ!
愛知県ののどかな田舎町。佐藤家の台所からは、鼓膜を刺激する凶悪な音が響いていた。
換気扇がフル稼働しているにもかかわらず、甘辛い醤油とニンニクの香りが家中に充満している。
「ほら、信長! 豚の生姜焼き、特大サイズで焼けたわよ! 肉ばっかじゃなくて、キャベツも山ほど食べなさい!」
給食センターで10年鍛え上げた手際で、大皿にドサリと肉の山を築き上げたのは、この家の母・佐藤恵(44歳)だ。
しかし、食卓の前に座る丸刈りの大男——長男の信長(16歳)は、いつものように丼をかきこむわけでもなく、ただぼんやりと箸を見つめていた。
「……おう。サンキュ、母ちゃん」
「ちょっと、元気ないわねえ。四番打者なんだから、もっとガツンと食べなきゃダメよ!」
信長の声には、いつもの覇気がない。
無理もない。昨日、彼が所属する高校の野球部は、夏の地方大会準決勝で敗退した。甲子園への切符は、あと一歩のところで指の間からすり抜けてしまったのだ。
泥だらけになるまで振り込んだバットも、今日ばかりは部屋の隅で寂しそうに転がっている。
「のぶにぃ、おにくたべないの? ちーちゃんがたべちゃうよ?」
とてとてと歩み寄ってきたのは、妹の千姫(3歳)だ。
手にはお決まりの紙パック入り『苺ミルク』を握りしめ、口の周りには見事なピンク色のヒゲができている。
「お、おう。千姫はいっぱい食ってデカくなれよ」
「のぶにぃ、よしよししてあげる!」
千姫が小さな手で信長の丸坊主を撫でていると、玄関の戸がガラリと勢いよく開いた。
「おう! 帰ったぞ!」
日に焼けた筋肉質の体に、ねじり鉢巻。佐藤組の親方であり、一家の大黒柱・鷹人(46歳)の帰還である。
「パパ、おかえりー!」
「おおっ、千姫! 今日も可愛いな! パパとお風呂入るか~?」
一瞬で目尻をデロデロに下げて千姫を抱き上げた鷹人だったが、食卓のどんよりとした空気に気づき、わざとらしく咳払いを一つした。
「信長、いつまでシケた面してんだ。男ならスパッと切り替えろ」
「……親父。わかってるけど、無理言うなよ」
肩を落とす信長の前へ、鷹人は作業着のポケットからくしゃくしゃになった一枚のポスターを広げて見せた。
『日本公道ラリーカップ(通称:ジャパンカップ)開催!』
『優勝賞品:ハワイ家族旅行ご招待 & 賞金1,000万円!』
「なんだこれ?」
「国と警察が町興しでやるデカいイベントだ。市販車で47都道府県のチェックポイントを回って、速さと正確さを競うらしい。なんでも、一般のファミリーカーでも参加できるオープンルールなんだとよ」
鷹人はニヤリと笑い、恵の方を見た。
「母さん、給食センターの有給、たっぷり余ってたよな?」
「ええ、まあ。丸々1ヶ月分くらいは残ってるけど……まさか」
「決まりだ! 信長の残念会も兼ねて、家族全員で日本一周の旅に出るぞ! 美味いご当地グルメ食いまくって、ついでにハワイと一千万、俺たちでかっ攫ってやろうぜ!」
あまりの急展開に、信長は目を丸くした。
「はあ!? 日本一周って……ウチの車、エスティマだぞ!? バリバリのスポーツカーとか出てくる大会じゃないのか!?」
「バカ野郎、ウチのエスティマを舐めるな。俺が足回りは完璧にメンテしてるし、何より運転手は母さんだぞ」
鷹人の言葉に、恵の目の色がスッと変わった。
「そうよ、信長。毎日あなたたちを乗せて、あの対向車もすれ違えないような山の上のグラウンドまで送迎してる私のドラテク、舐めないでちょうだい」
「い、いや、そうだけどさ……」
「それに、全国のご当地グルメ! 北海道の海鮮、仙台の牛タン、博多のラーメン! 食べに行きたいわよねえ!」
「牛タン……!!」
信長の耳が、ピクリと動いた。悲しみよりも、16歳の有り余る食欲が勝った瞬間だった。
「ちーちゃんも、おでかけする! いちごみるく、いっぱいかう!」
「おう! 買ったる買ったる! じゃあ、善は急げだ。明日出発するぞ! 荷物まとめろ!」
かくして、甲子園の夢破れた傷心の高校生、大工の親方、苺ミルク中毒の幼女、そして、歴戦の給食のおばちゃんを乗せたトヨタ・エスティマの、前代未聞の日本横断ラリーが幕を開けたのだった。
行き先は47都道府県、目標はハワイ!
佐藤家の爆走夏休みが、今スタートする——!




