第五十五話 天正十年、秀吉
この作品は、歴史的な史実とは別次元の物語です。
妄想的で非常識、そして変態的な展開ではありますが、
今後ともよろしくお願いいたします。
天正十年六月十三日、山崎の戦いで明智光秀が敗れ、同二十七日には清洲会議で秀吉が地位を固めた。翌天正十一年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家を倒した。しかし、北条家は勝家に信長の書状を見せて納得させ、彼の逃走に手を貸していたのである。
秀吉はその後も勢力を拡大し、天正十一年十一月には本拠を大坂城に移転。天正十二年には従五位下・左近衛権少将に任じられ、同年十一月には従三位・権大納言へと昇進する。
天正十三年には紀州征伐を行い、三月には正二位、内大臣に宣下された。六月には四国攻めを敢行し、七月には近衛前久の猶子となり藤原へと改姓。従一位・関白に宣下され、内大臣は如元であった。
天正十四年には九州征伐を開始し、十二月には内大臣を辞職して太政大臣を兼帯。天正十五年九月には聚楽第へ転居し、十二月には惣無事令(関東・奥羽地方)を実施するなど、順調にその権力欲を満たしていった。
しかし、天正十六年、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められた際、氏政はこれを拒否する。京では北条討伐の風聞が立ち始め、北条氏も臨戦体制に入り、各侵入ルートに軍を配備したのだった。
信長も早かったが、秀吉も早い。歳月が流れるのは当然だが、時代の変わり目は、目まぐるしく進んでいく。応仁の乱から小競り合いが統一に向かって堰を切った流れは想像より速く止まらない。
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信長は天正十年から北条家の客将として滞在していた。日頃の疲れを癒やすためハワイで数ヶ月滞在した後、北米に向かった。翌天正十一年には北米で勝家と合流し、フロリダの元現地人アパラチー族を中心に、ヒューストンのタカパン族に要請があった。武田信玄と協議の末、フランスを倒すことが決定した。
信長は武田の長男がいることにも驚いたが、武田信繁と信豊が信玄の補佐をしていることにも驚きを隠せない。数年前の敵がこのような形で会うことになるとは……。
信長たちは近代戦術を数ヶ月学び、実践していた。もともとの戦術眼が鋭い信長親子は物凄い速度で吸収していった。遅れて合流した勝家は、まだ学習中である。ただ、この時代は槍働きも健在だ。そのため、部隊には鬼武者が必要だった。戦術眼に優れた勝家の実践部隊は、未だ健在であった。
護衛艦「美濃」と「道三」でサンディエゴの軍港からパナマに向かった。パナマは軍港化され、コロンの軍港とは運河で繋がっている。十年の歳月をかけて完成させたパナマ運河を管理している信行に会いに、信長一行は向かっている。
パナマもコロンも要塞化されていた。軍事基地として機能しており、スペイン軍とポルトガル軍連合軍でも攻略不可能な鉄壁の防衛を誇る。高額な通行料を払ってでも通行したい運河であり、正規の船は通行を許されるが、たまに不審船が出れば拿捕され没収された。
信行とは三十年ぶりの再会である。お互い近況を報告し、今生きて再会できたことを喜んでいた。信行はパナマ長官を務め、パナマとコロンの軍港は息子たちに任せていた。領地は狭いながらも世界の要を任される重要性を理解しているため、今の仕事は信行の誇りであった。
護衛艦「末森」と護衛艦「尾張」に乗り換え、ヒューストンに向かった。ヒューストンの軍港で武田家の面々と面会し、作戦会議を開いた。元々面識のある信行たちは、信玄たちとは戦友であった。ヒューストンに停泊する護衛艦も横須賀からパナマを通り到着している。信玄にとっては念願の海軍編成であった。
信長たちは最新の乗り物が実戦で有効なのか検証中であった。スピーダー・バイクのような、一人乗りドローンである。実働時間はおよそ一時間。小型の全固体電池を使用しており、持ち運びも可能である。これが五号機になる。初代はジェットエンジンで試作されたが、音がうるさく隠密性に欠けるため、この機体に変更されたのだ。
信長曰く、「飛べるから人の行けないところに行けるし、静止できるのが良い。高速は馬より早いな。」と感想を述べ、概ね好評であった。ところが信長は自分で運転するつもりだったらしく、周りから止められ非常に不満だったらしい。
結局、乗り方を教わり運転して、自分のおもちゃにしてしまった。なんとやんちゃな坊主であろうか。まあ、試作品だから良いものの、これが製品化されたら、即座におねだりするに違いない。
幼稚で語彙力が乏しいことは自覚しておりますので、
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