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第九章 初恋

 翼は水泳部をやめた。

 マネージャーが三人いたこともあるが、一番の理由はパールだった。毎晩夢に見るほどにまで、翼はパールに心を奪われてしまった。

 前振りが長すぎたのかもしれない。一平はともかく学までパールに会ったことがあるのだ。自分が出遅れたのは忌々しいこの身体のせいではあったが、パールの話を聞く度に想像と期待が膨れ上がる。実際に会ってみたパールは想像とは全然違ったが、それ以上に愛らしかった。

 一平などは既にパールの生活の一部となっている。新参者の自分は何とかして早くこの差を縮めなければならない。毎日欠かさず洞窟へ出向いていた一平よりも長い時間をパールと共に過ごさなければならない。そう、翼は考えた。

 できている二人からパールを奪ってやろうなどという考えは子どもの翼にはまだなかったが、やきもちは妬ける。とにかく、足繁く通ってパールといろんな話をしよう。自分は泳げないが、知ってることをいろいろ教えてやろう。そのためには部活なんかに時間を取られているのは勿体無い。

 身体のきつい一平の方こそやめたいくらいだったが、なんと言っても一平は水泳部の今年のホープである。内山の一平に対する入れ込みようはますます激しくなっていた。日曜は何とか口実を設けて休みにしていた一平だったが、それもままならなくなってきている。

 期待を掛けられているのなら、それなりに頑張らなければ申し訳ない。先輩たちの必ずしも好意的ではない応援の言葉やいじめに屈して辞めたと思われるのも癪である。一度入部すると決めたからには最後まで努力をするのが人間として立派なことなのだというポリシーを、既にこの年で一平は抱いていた。

 むしろ、悩むべきは自分がどこまで手を抜けばいいかというところにあった。一平が本気を出せば、世界記録など軽く塗り替えられてしまうのだ。本気を出さなければ真剣味が足りないとかやる気がないとか批判される。息が上がってしまわないところが苦労の種だっだ。

 何のために水泳部に所属しているのか、明確な目標が抱けないながらも一平はずるずると部に所属する。翼のようにはスパッとは断ち切れなかった。

 が、一平が行かれない分、翼がパールを見ていてくれるというのは安心材料でもあった。多少心配なこともないではないが、パールが一人でいるよりはいいだろう。

 一平が洞窟に滞在する時間は自然と短くなっていった。


「あああ…」

 パールーが溜め息を吐いた。

 ビーズ遊びをしていたので、翼は持参した小説を読み耽っていた。

「どうした?」

 尋ねる翼にパールは言った。

「一平ちゃん、まだかなあ…」

 今日は日曜日だった。練習試合が行われるというので一平は朝から一度も顔を見せていない。

(また一平か…)

「昨日だってちょっとしか来なかったし…忙しいのかなあ…」

「今日は来れないかもしれないぞ。隣の市まで行ってるから」

「トナリノシってなーに?」

「遠くまで行ってるんだ。行って帰ってくるのに時間がかかるのさ」

「学ちゃんも?」

「学は応援だけどな」

「つまんなーい」

「ぼくがいるだろ?」

 いてやってるのにつまんないなんて言うなよ、と翼はがっかりだ。

「だって、翼ちゃんご本ばっかり読んでるんだもん」

「そりゃ…おまえが一人で遊んでるからだろ」

(そういうふうに思ってたのか?)

「パール、オサカナ獲りに行っていい?」

「だめ!今日は日曜だ」

「ぶー」

 パールは膨れた。そんなことはわかっているが、言ってみただけだ。それなのに思っていたより強い調子で止められたので機嫌を損ねた。

 ばしゃん、と荒っぽくプールに飛び込んだ。周囲に水が跳ねて翼の本を濡らした。

「わっ、‼︎こらー‼︎」

 翼は思わず大声を出して怒鳴った。

「どうしてくれるんだ、これを」

 翼の剣幕に気づいてパールはそっと顔を出した。

「ゴメンナサイ…」

「まったくもう…」

 謝ったのにまだぶちぶち言っているのでパールは泣き出した。

「ああーん」

 パールがとても泣き虫だということを翼は最近知った。結構わがままなところもあるのだということも。本の虫で静かな所が好きな翼にとって、この手放しでわんわん泣く幼いところと、言っても聞かないお転婆なところだけはどうしても手に余った。

(一平の前でもこうなのか?)

 訊いてみたいが訊いてみたことはない。訊いていれば、一平の前ではもっとやりたい放題であることを知って優越感に浸ることもできただろうに。

 普段おとなしい分キレるとかっとして容赦なく怒鳴り散らしてしまうのは翼の欠点ではあったが、総じて穏やかで静かなのが彼の本分であった。

 根負けして翼は言った。

「行ってきていいよ」

「⁉︎」

 パールの泣き声がやむ。

「見張っててやるから。その代わり、ちょっとだけだぞ」

「いいの?」 

 まさか許してもらえるとは思っていなかった。別に泣けば聞いてもらえると思っていたわけではなかったのに。

「パールが降りたら縄梯子は一度上げておく。帰ってきた時にまた降ろしてやるから歌って知らせろ」

「うんっ!」

 パールは嬉々として潜って行った。が、あんなに行きたがっていたにもかかわらず、思いの外早く戻ってくる。その手に魚はなかった。


「獲れなかったのか?」

 翼が尋ねるとパールは首を振った。

「ううん。獲れたけど食べてきちゃった。待ちきれないと思ったから」

「何も持ってないじゃないか」

「ううん、あるよ。ほら…」

 パールは左の手を広げて見せた。小さな掌に白く丸い物がたくさん乗っている。

「真珠?」

「真珠っていうの?貝の中にあったんだ。きれいでしょ」

 宝石なんて家にはなかったので本物か偽物かはわからないが、多分本物だ。人工の偽物が海の中にあるわけない。潮か何かの加減で養殖場から流れ着いたのだろう。

「いいもの見つけたな」

 翼は言ってやる。

「うんっ‼︎」

 パールはビーズの箱の中へ真珠をしまおうとする。

 それを見て、翼はパールの手を掴んだ。

「待て。パール」

「え?」

「それは隠しておいた方がいい。一平に見つかったら怒られるぞ」

「どうして?」

「だって今日は海へ潜っちゃいけない日じゃないか。そんな物があったらばれちゃうよ」

「……」 

 パールは泣きそうな顔になった。

 一平に止められていたことを自分はしてしまったのだと気がついた。

 悪いことをしてしまったのだから叱られる。それから嫌われる。

 パールの思考は最終的には一平に好いてもらえるかどうかのところへ辿り着く。

「いやだあ…」

 またさっきみたいに泣かれるのは困る。翼は慌てて回避策を探した。でも洞窟の中には隠すのに適当な場所がない。考えた挙句、翼は言った。

「よし!」 

 パールが縋るような眼差しを向けた。

「ぼくが持っててやる」

 あんまりいい案じゃない、とパールの目が語っていた。それはそうだろう。自分で持っていたいのだ。

「パール、これ…どうするつもりだった?」

「ビーズ遊びしようと思ったの」

「でもこれ、穴開いてないぞ。これじゃ糸が通らない」

 パールは図鑑を開いた。アクセサリーのページだ。

「これ作ろうと思ったの」

 パールの指差したものはネックレスだった。さすがは女の子だ。

「そうか…でも、これだけじゃ足りないぞ。これじゃ腕輪にもなりゃしない…」

 パールの顔が曇る。翼は慌てて付け加えた。

「そうだ。髪飾りはどうだ?ほら、こうやって頭に嵌めるやつ」

 翼はカチューシャの絵を指して言った。パールを落胆させないために。

「どうやるの?これ」

「うーん…」

 勿論翼に作ったことがあるはずがない。

「パール。ぼくにこれ預けないか?何とか調べて、作ってきてやるよ」

「え?」

 パールは戸惑った顔をした。

「いいよ…、パール、自分で…」

「やらせてくれよ。パールに作ってやりたいんだ。それにこれに穴開けるの絶対ここじゃできないんだから」

「……」

「一平に見つかって怒られるよりいいだろ?」

 しゅんとしてパールは頷いた。それだけは避けたい。

「よし。楽しみに待ってろよ」

 翼は言う。

「それから…今日潜ったことと真珠のことは絶対内緒だぞ」

「うん…」

 パールは気が重かった。一平に隠し事なんかするのは初めてだ。それも、自分が悪いのだから尚更だ。

 その日その後、パールは『一平ちゃん』を口にしなかった。


 ポケットの中に真珠の粒を入れて、翼は一人でわくわくしていた。これで髪飾りを作ってパールに嵌めてやったらどんなにかわいいだろう。パールはきっと大喜びするに違いない。

 こそこそするのはいいとは思わないが、自分の知っていることを一平が知らないのは何となく気分がよいものだった。


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