第八章 一目惚れ
とろそうに見えて、これでなかなかパールは腕の力がた。いつもパールをおぶって崖をよじ登る時、つくづく一平はそう思う。泳いでいる時も決して遅れをとらなかった。魚の形をした尻尾はストロークが強く、機敏で敏捷性がある。
何度か練習をして、パールは一人で登り降り、そして梯子の掛け外しができるようになった。
縄梯子は簡単に取り外しができるし、それほど目立たない。が、崖に掛けている時間はなるべく短くし、カムフラージュのため草の蔓や葉っぱなどをくっつけた。使うのは暗いうちか、漁が上がってから子どもが学校から帰ってきて遊び出すまで。それも平日に限る。時計などはないが、パールには大体の時間の感覚があるらしい。気をつけて海を見るようにもしている。
岬の上からの梯子は、使わない時には立ち入り禁止の草むらに引き上げて隠した。ちょっと体力がないので心配ではあったが、翼は早速この梯子を使って洞窟へ降りてきた。勿論一平も学も一緒である。
「パール」
一平に呼ばれてパールはプールの中から顔を出した。
「お客さんだ」
(お客さん?)
屈み込んだ一平の後ろに人が立っていた。同じ顔をした少年が二人。一人はもうよく知っている。
「誰だかわかるかい?」
「翼…ちゃん?」.
学の双子の弟だという翼のことはたくさん聞かされている。学にそっくりなのだから間違いなかった。
「当たり」
学が指を鳴らした。
話には聞いていたが、翼はパールに会うのは初めてだ。一平や学が驚いたと同じように、翼は目を丸く見開いていた。
話に聞くだけで想像しかしていなかった。小さい女の子とは聞いていたが、翼の頭の中にある人魚はもっと大人の女の人に近い体つきで、髪の長い美女のイメージだった。しかし、目の前にいる人魚は幼児のようにあどけない。勿論胸の膨らみなんかないし腰もくびれてはいない。髪は肩ぐらいまでしかなかった。
しかし翼の目にはパールは海の泡から生まれ出たビーナスのように神々しく映った。プールの中から半身を出したパールは濡れていて、湯上がりの女性を連想させた。
しかも、対面した途端にパールは笑った。学に『当たり』と言われて天使のような微笑みを見せた。翼はその微笑みに魅せられた。
「よろしく…」
翼は膝まづき、パールの手をとった。
そして手の甲にキスをする。
学と一平は顔を見合わせた。
何やってんだ?こいつ?と、突飛な行動に目を白黒させた。
パールは翼のするままに手を差し出して相手を見下ろしている。
唇が動いた。
「光栄です。ありがとう」
トリトニア語でそう言った。
(えっ?)
一平が聞き咎めた。気のせいか、パールの周りに気品が漂っているような気がした。
言った言葉がパールに不似合いな、それでいて身体に染み付いたごく自然なもののように感じられた。
「なんて言ったんだ?」
学が一平をこづいて訊く。
「あ…ありがとうってさ」
「ふーん。…おい、翼!何気障な真似してんだよ。いい加減にしろよ」
翼の行動は学の気に障ったらしい。
翼は無視することも反発することもなく答える。
「はは…。ぼくだけ出遅れちゃってるからさ。ちょっと印象づけようと思って」
含みはなさそうだ。
けれど一平は思った。
(翼…まさか…パールのこと…)
一目惚れでもしたのかもしれない。パールがまだとても子どもなのにもかかわらず、それは困る、と一平は思った。
「パール…って呼んでいいのかな?ぼくの選んだ本、もう全部覚えちゃったんだって?」
翼がパールに話しかける。
「うん。ありがとう。翼ちゃんがしてくれたって、一平ちゃんに聞いたよ」
「面白かったかい?」
「うん。いつもね、一平ちゃんが読んでくれるの。パール、字読めないけど、お話わかるから読んであげようか?」
そう言ってパールはプールから出る。洞窟の奥にあるタオルで手などを拭いてから、人魚姫の本を持ってきた。ちゃんと躾けられてるんだ、と翼は感心した。バスタオルなんか海にはない。こういうことも一平が教えてやったのか?
翼に絵本を見せているパールは一生懸命でいじらしかった。一平や学が夢中になるのがわかるような気がした。人間と違う生き物だなんて思えない。
読み終えるとパールは言った。
「パールね。人魚姫みたいになりたいの」
「人魚姫みたいに?最後は海の泡になっちゃうのに?」
「誰でも最後は海の泡になっちゃうんだよ。だからそれはしょうがないの」
「……」
「パールはね。人魚姫が王子様助けたみたいに一平ちゃん助けたいの」
(また、一平ちゃん、か…)
「でも、だめなの。一平ちゃんの方が何でもできるんだもん。パール、やってもらうだけ…」
パールは不満なのだ。自分も何かの役に立ちたいと思っているのがありありとわかる。
それは大人の考えだ。翼はまた感心した。それと同時に、パールの心を占めていることの殆どに一平が関与していることを羨ましく、そして妬ましく思った。
翼は言った。
「ぼくが溺れたら助けてよ。泳げないから」
うそ、と言いたげな目でパールは翼を見た。パールにとって泳ぐということは歩くよりも容易い。それができない者がいるというのはパールの常識の範疇にはなかった。
でもパールは思った。では自分にも誰かのためにできることがあるのだと。
「うん、いいよ。そうしたら、翼ちゃんは王子様だね」
パールは約束した。
思い切って翼は言ってみた。
「そうしたら‥パールの王子様にしてくれるかい?」
この人魚姫に好かれたいと、翼は思った。
「うーん…」しばらく考えてからパールは言った。「いいよ。でもパール魔法知らないから人間になれないよ」
ばかなことを訊いていると自分でも思っていた。この子は人魚なのだ。しかも、一平はこの子と同類だというではないか。こんな強力なライバルがいたんじゃ分が悪いにも程があった。
「それにやっぱり海の泡になるのはいやだな」
パールが前言を撤回した。
くっ…と、忍び笑いが聞こえた。
学だ。
「フラれたな、翼」
「………」
翼は一平のようには動じなかった。
(こういうところが面白くないんだよ、こいつは)
学は時折そう思う。真面目が服を着て歩いてるような奴なのだ。
学の隣には一平が立っていた。そうしているだけで同じ年なのに年上に見えた。体格がいいからだ。
体格がいいだけでなく、それに見合った能力もある。病弱な翼にはどうしても勝てない要素を一平はたくさん持っていた。日本人離れしたところのある顔立ちも甘くて優しい。自分のことをどう贔屓目に見ても一平の方がハンサムだ。
その上、一平はパールの心までも自分のものにしている。一平ちゃん、一平ちゃん、とパールの口から何度この名が出たことだろう。
「まだ、これからさ…」
虚勢を張って翼は言った。
二人のそばまで歩いてきて立ち止まる。一平の横でぼそっと呟いた。
「ぼく…パールが好きだな」
一平は動けなかった。振り向いて翼の顔を確認することもできない。
宣戦布告をされたのだ。
一平はそう思った。




