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第六章 安らぎ

 一平はその約束を守るために頭を悩ませた。

 あの洞窟に翼を(いざな)うことは物理的に無理だ。泳いで岬の根元に辿り着いて足場の悪い崖を登るなど、翼にとっては狂気の沙汰だ。

 翼が来れないのなら、パールの方を翼の前に連れて行くしかない。

 そう言うと簡単だが、これがとっても難しい。

 海辺は寂れてはいるが、全く人が来ないわけではない。この間のように思いがけない所に現れてくれたりする。パールを連れ出すのは細心の注意が必要だった。

 あれ以来、パールには絶対に洞窟の縁まで一人で行かないようにと言い含めてある。そのため行動範囲が狭まり、ただでさえ狭い洞窟の中、幼いパールはすることもなく退屈を持て余していた。

 歌もあまり歌っちゃだめだと言われた。

 プールの水がなくなれば自分で水汲みすることを覚えたパールだったが、縁まで出られないとそれもできない。

 結局、磨くのは言葉の勉強とおしゃれぐらいしかなかった。

 言葉は一平が来なければ勉強するにも限りがあるし、服を着るわけではないので髪をいじることぐらいしかできない。

 そんなパールのために、一平はいくつかの品物を持ってきてやった。

 パールくらいの女の子が喜びそうなおもちゃや絵本だ。

 と言っても、男の子ばかりの彼らの家には女の子のおもちゃなんか一つもない。財布と相談した結果、一平は件のおもちゃ屋で七ミリくらいの大きさのビーズ遊びとままごとセットを、本屋で子ども向けの図鑑と二、三冊の絵本を買った。

 遊び方を教えてもらうと、意外と器用にパールは紐にビーズを通してゆく。全部通し終わると惜しげも無くこれを壊してまた初めから繰り返した。

 ままごとの方は食料を置いておくのに利用できると思って用意した。

 プラスチックでできている茶碗、コップ、皿、箸、スプーン、ポットなどである。勿論パールは見るのも初めてだ。箸やスプーン、ポットなどは海の中では必要なかったが、茶碗やコップに似たようなものはトリトニアにも存在するらしかった。が、使い方は地上と逆さまであり、パールは茶碗やコップの中に食べ物を入れると岩の上に伏せておく。一平は不思議に思ったが、水の中に入れてみて納得した。海水より比重の軽いものはすぐに浮き上がってしまうのだ。そのために器は上部が塞がっていなければならないのだった。

 言葉の勉強と知識の習得のために、なるべく実物に近い挿絵の図鑑を選んだ。本を介すれば、身振り手振りよりもはるかに多くの情報を伝達できるし、パール

がどの程度のことを知っているかも推し量ることができる。それに、字は読めなくても眺めているだけでも退屈しないだろう。そう一平は考えた。

 選書のために付き合ってもらった本屋で、物語の絵本も買おうと言い出したのは翼だった。海に関係ある話がいいだろうと探した結果、三冊見つけて購入した。一冊は日本の漁村に打ち上げられた鯨の話、もう一冊は漫画チックな絵柄の音痴な人魚の話、そして、アンデルセンのおなじみ『人魚姫』だ。

 日本語で書いてあるが、繰り返し読んで聞かせてやっているうちに、パールはそらで話を語ることができるようになった。内容の理解力がどこまでついてきているかは早いうちに明らかになった。挿絵の力と想像力とで、パールはかなり真実に近いところまで三つのお話を読み取れていたのだ。

 中でもパールの一番のお気に入りは『人魚姫』だった。悲しいお話だが一応恋物語である。小さくてもラブストーリーが好きだなんてやっぱり女の子だなと、一平は微笑ましく思った。

 人魚姫が海に投げ出された王子を助ける場面を見ながら、ある時パールはこう言った。

「人魚姫と王子様、パールと一平ちゃん、反対ね」

 この程度の日本語は喋れるようになっていた。

「え?」

 何を言いたいのか、はじめ一平はわからなかった。人魚姫のことをパールに置き換え、王子を一平に置き換えているのだけはわかるが、何が反対なのか?

「いいな、人魚姫。王子様助けてエライね」

(そりゃあ、王子は人間だからな。海に沈んだら死んじゃうさ)

「一平ちゃんパール助けた。パールも一平ちゃん助けたい」

 一平はそれを聞いて目を丸くした。

 そんなことを考えていたのかと、目から鱗が落ちる思いがした。

「ばかだな。パールはまだ小さいんだよ。それにボクは王子様みたいな地上の人間じゃない。そんなこと気にしないでいいんだよ」

 一平はそう言うが、パールはいつになく何か言いたそうだ。

「一平ちゃん、大変。ガッコウあるのに、いつもパールのとこ、来る」

「いいんだ。ボクが来たいんだから」

「パールのこと、みんなしてくれる」

「そうしなかったら、困るだろ?」

「パール、ごはん自分でとれる…。一人で海入ったらだめ?」

「……」

 パールは一平に気を遣っていた。一平の生活が大変なのを感じ取って、少しでも負担が軽くなるようにと考えているらしい。

 ―優しい子だ―

 一平は目を細めてパールを見た。

「ありがとう、パール。…そう言ってくれるのは嬉しいよ。でもね。やっぱり、この辺の海の中は人間が多くて危ないんだ。それに、一人で飛び込むことはできても一人で戻ってくることはできないだろ?」

「……」

 一平の話を一生懸命聞いて噛み砕いてから、パールは後ろに置いてあった図鑑を持ち出してきて開いた。 あるページを開いて指差した。小さな指の示す場所には縄梯子の絵が描かれていた。パールは言った。

「これあれば、パールのぼれる」

 一平は心底驚いた。こんな考えがパールから持ち出されるとは思ってもみなかった。パールは自分が思っているよりもずっと考え深くて人間的なのかもしれないと、一平は思った。半身が魚なので、そんなつもりはなくてもペットであるかのような感覚があったのかもしれない。

「パール…」

 呟くと一平はパールをギュッと抱き抱えていた。

 パールが目をぱちくりする。

(ごめんな…。ボクは、おまえをみくびっていた。…おまえはお人形でもペットでもないんだよな。したいこともできないなんて、我慢できないよな、やっぱり…」

 一平は反省していたのだ。自分のしていたことは単なる自己満足で、本当にパールのためになってなどいないのだ。そう思うと申し訳なくて自然と力が入る。

パールの小さな身体は、一平の胸に押し付けられて身動きできなかった。

 でも、嫌ではなかった。一平が悪いことなんかするはずないのだ。何だかちょっと息苦しいけど、暖かくて気持ちいい…、パールはそう思っていた。

 ―トクン…トクン―

 リズミカルな振動が伝わってくる。一平の心臓の鼓動だ。

 ―面白い―

 そんなことを思って耳を傾けていたら、パールは眠くなってしまった。

 ―ふわあ―

 小さなあくびを一つすると、一平の腕の中でパールはうとうとし始めた。

(あれ?)

 なんだ、と一平は思った。

(寝てる…)

 起こして寝床に寝かそうかと思ったのだがやめた。揺り起こしてはかわいそうな気がしたのだ。一平は少し力を緩めると、そのままパールを自分の胸にもたせかけてじっとしていた。

 あどけない表情から安心しきった寝息が漏れていた。

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