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第二章 秘密

 それからが大変だった。

 何しろ秘密が一つ増えたのだ。

 父の法要の日は日曜日だったので学校も休みだったが、翌日からはそうはいかない。

 やっと少し新しい教科や先生に慣れ始めてきたところだし、部活動の体験入部も一通りすんだ一平は一応水泳部に入部届けを提出してあった。月曜からは本格的に活動が始まるのだ。

 気楽な男所帯と違って、今までのように自由気儘な生活ではなくなったこともある。さえ子伯母さんはとてもよくしてくれるが、ここのところ女親に構われたことのなかった一平には、少しやりすぎのきらいがないでもなかった。

 パールの元へ行かなければと思いながらも、結局行けたのはもう日が傾きかけた頃だった。

 洞窟に入ると潮溜りに浸かったパールがぐったりしている。

 一平の顔色が変わった。何か重大な手落ちをしたのだと思った。

(死んじゃったのか?)

 慌てて駆け寄り、抱き起こす。尻尾は水に浸かって濡れていたが、上半身は乾ききっていた。

 パールは目を閉じたまま動かない。

 一平はパールの胸に耳を当ててみた。

 微かな、ゆっくりとした鼓動が聞こえる。

(よかった。生きてる…)

 何がいけなかったのか?と思いを巡らした。食事は昨日のうちにたっぷり持ってきている。ワカメやらサザエやらアジやらを、父に教わった方法で獲ってきてやったらパールはひどく喜んだ。まだかなり洞窟の隅に残っているから飢えたわけではない。

(やはり水だろうか…)

そういえば父は日に二回の水風呂を欠かさず、忙しくてその間隔が開くと決まって具合が悪くなっていた。ここには潮溜まりがあるから安心していたが、この人魚には小さすぎたらしい。

 一平は潮溜りの水をパールに掛け始めた。汲むものがないので手を桶にしてひたすら身体に掛けまくる。が、パールは気がついてくれない。

 一平は悔しそうに唇を噛み締めると、人魚を抱え上げた。そのまま洞窟の淵から海へ飛び込んだ。

 一平はしばらくの間海底にいた。人魚を抱いたまま座り込んで、パールが気づくように祈り続けた。

 

 やがて、パールは目を開けた。

 美しい青い目を再び見られた喜びに、一平は感極まって泣き出した。

「どうして泣いてるの?」

 パールが尋ねる。自分がどういう状態だったのか、もう忘れてしまったようだ。きっと苦しかったに違いないのに。

「ごめん…な…」

 一平はそう言ってパールを抱き締めた。

 配慮が足らなかった。自分の力不足だ。匿ってやろうなんて、何を思い上がっていたんだろう。この子のことなんか、何も知らないくせに…。

 自責の念が一平の心を支配する。

 あんな所へ連れて行かなければ…。水を用意してやっていれば…。言葉をうまく伝えられていれば…。

 後悔は後から後から湧いてくる。

 と、一平は気がついた。誰かが頭を撫でている。

 パールだ。

 いくら言葉がわからなくても、一平がとても悲しんでいるのはわかる。パールは一平を慰めようとしていいこいいこをしているのだ。

 自分が辛かったのにもかかわらず、原因を作った者を責めるなどという気はパールには全く存在しないようだった。

 ―純粋無垢―そんな言葉がぴったりだ。

「もうこんな目には遭わせないよ」

 しっかりしなければと思った。

(こいつはボクが守ってやる。必ず、家まで送り届けてやる)

 一平には今はっきりとわかった。この人魚と自分は同類なのだということが。

 誰に教えられたのでもない。しかし、この安心感は何だろう。親友であるいとこたちよりも、この人魚といる方が本当の自分らしい気がするのだ。この子の前では、水の中で息ができることを隠さなくてもいい。それは一平にとって最高の開放感であった。

 この子といれば自分が何者なのかわかるかもしれない。話せずに逝った父のことも、故郷トリトニアのことも。

 そのためにも、パールを死なせるわけにはいかなかった。

(どうしたらいいだろう?)

 一平は必死に考えた。

 パールのためには一刻も早く故郷に帰してやった方がいいのだ。しかし、一人で帰ることはできなさそうだし、送っていこうにもそれがどこにあるかわからない。知っていることだけでも聞き出したいが、こっちの言葉がわからないのでは話させようもない。そうなると取り敢えずは何もできない。

 今の一平にできることは、食べ物を運んでやり、洞窟をパールの居心地のいいように整えてやることぐらいしかなく思われた。まずは早速、パールの身体が浸かるくらいの容れ物を用意することだ。それにたっぷりと海水を入れておいてやらねばならない。  

 寝る場所はどうしよう?まさか布団じゃ嫌だろう。

(どういうのがいいのかな。訊ければなあ…)

 つくづく言葉の壁が邪魔だと思う。

(全く…英語だって勉強しなきゃならないっていうのに…)

 そう思ってハッとした。

(そうか…。言葉は勉強すればわかるようになるじゃないか。パールの言葉をボクが勉強すればいいんだ)

 幸い、何故かパールの言っていることは理解できる。それを繰り返してもらって自分でも使う練習をすればいいのだ。学校の授業と違って生の言語が聞けるのだ。ヒアリングの方は既にバッチリなのだからそう難しいことではないだろう。頑張ればいつかこっちの言いたいことをすんなりと聞き取ってくれるようになるに違いない。

 トリトニアの場所を調べるのはその後だ。パールにはかわいそうだが、仕方がない。図書館にも一応足を運んで調べてみようと思う。

「ようし、がんばるぞー」

 一平は力強く伸び上がって言った。

「カンパーゾオ?」

 パールが言った。一平の言葉を真似している。

 同じことを考えているのか、と一平は驚いた。幼いが、ばかではない。

 一平はやたら嬉しくなった。共に頑張ってくれる仲間がいるというのはいいものだ。果たしてパールが本当にそう思っているかどうかは定かではないが。それでも一平は嬉しかった。

「おいで」

 この言葉はもうパールにもわかる。『ついてこい』という意味だ。昨日もこう言われた。 

「うん」

 パールは頷くと、差し出された一平の手を小さな手で握り締めた。


 一平は急いで家に帰ると貯金箱をひっくり返し、ありったけの金を持って出かけて行った。店が閉まる前に買っておかないと、明日また大変なことになる。一平は海辺の道沿いにあるおもちゃ屋へと走った。

 漁村ではあるが浜もあるので、釣り客や海水浴客も訪れる。夏には海の家も建つし釣り宿は常時ある。

 一平の向かった店は夏には観光客目当てに浮き輪やタモ、釣り竿などを目玉商品にして、普段は細々とおもちゃ屋を営んでいる。一平はその店のおばさんがシャッターを閉めようとしているところに頼み込み、ビニールプールを買わせてもらった。プールは大小ニ種類あったので念のため大きい方を買った。棚の奥で眠っていたらしく、梱包のビニール袋に触れると手が埃で真っ黒になった。この辺の子はビニールプールで遊ぶより先に海で遊んでしまうので滅多に売れないのだろう。ついている模様も魔法少女ナントカという一昔前のテレビアニメの絵柄だった。

 一平は一度家に戻り、納屋からブリキのバケツとロープを持ち出して再び洞窟に向かった。プールを口で膨らませ、ロープを結んだバケツで海水を汲み上げてはプールの中に流し入れる。空気入れなどという洒落たものは一平の家にも伯母の家にもなかったし、おもちゃ屋にも今は置いていなかったので、口で膨らますしかなかった。結構大変な作業だった。

 作業する一平の傍らで、パールは物珍しそうにビニールプールやらロープやらバケツやらを触っては、これは何か?というような眼差しで一平を見る。その度、ゆっくりと一平はその名称を発音してやった。パールは何度も繰り返し言っては触り、言っては指を差す。まるで遊びのようにして言葉を覚えていくのは一平にとって驚異であった。

 そしてパールは一平のすることをよく見ていた。作業の手元や表情をじっと見る。

 作業を終えた一平がパールを抱き上げてプールの中に入れた時、一平のしていることが何のためだったのかはっきり悟ったパールは、パッと顔を輝かせて一平に抱きつき、感謝の意を表した。その途端、感じ始めていた疲れが吹っ飛んでしまうほど、彼は嬉しくなった。

 作業が終わる頃には星も瞬き始めていた。まずいとは思ったが、これをしておかないことにはパールの命に関わるのだ。帰りが遅くなっておばさんに叱られても甘んじて受けようと一平は思っていた。


 思った通りおばさんには叱られた。父親を亡くしたばかりとはいえ、約束を守らなかったり悪いことをしたりすれば容赦なく叱りつける。伯母のさえ子はそういう女性だった。

 どこへ行っていたのかという伯母の質問に、一平は海だとだけ言ってごまかした。

 一平が海の申し子のように海好きなのは十分過ぎるほど知っている伯母はそれを丸ごと信じてくれたので追及されずに済んだが、いとこたちの方はそう簡単にはいかなかった。

 いとこたちは、先に生まれたのががく、後から生まれたのが(よく)という名だ。一卵性双生児なのでそっくりだ。五月生まれの一平より一ヶ月ほどお兄さんである。ちょっと天然がかった黒髪に弓なりの眉を持ち、いたずらそうな目をしている。

 翼の方は学よりは僅かにおとなしい。少々心臓が弱いために、泳ぐのはおろか、体育の授業はいつも見学だった。従って体力がない。翼の分もカバーするかのように学はいつも元気いっぱいだった。この辺のガキ大将と言ってもいいかもしれない。

 勿論二人とも一平と同じ中学校に通っている。部活動も同じ水泳部に入った。翼の方は医者に水泳を止められているのでマネージャーとして入部した。

 一平が加わって少し窮屈になった八畳間に鞄を置いて着替えると、お腹を空かせて帰ってくる息子たちのためにさえ子が用意した握り飯を居間まで食べに行くのが三人の日課だった。が、一足早く部屋を出た一平は、学たち二人が居間に来た時には姿を消していた。

「あれ?一平?」

 一平の分の握り飯がなくなっている。いつもなら、まだ片付けられていない掘り炬燵に入ってぱくついているのに、庭にもどこにもいない。

「翼ぅ。一平のやつ知らないか?」

「知らないよ。いないの?」

「黙ってどこ行っちまったんだ?あいつ」

「もうすぐ日が暮れるのにね」

 不審に思いながらも、その時には二人はそう心配してはいなかった。一平は昨日も法要の後フイとふけてしまっていた。そのわけを二人は痛いほどわかっていたのだ。

 ―一人になりたいのだろう―

 勝手にそう解釈していた。

 しかし、二人は気づいていた。黙って出かけた一平が一度こっそり戻ってきて、納屋からバケツを持って走って行く姿を遠目にだが捉えた。そして一平は、外が真っ暗になっても帰ってこなかったのだ。

 泳ぎに行くだけならバケツなんか要らない。結構人に気を遣う質の一平が、わざわざ自分たちを心配させるような真似をするとは思えない。何かわけありなのだ、と二人―特に翼の方―は思った。

 母の前で訊くのは避け、布団に入ってから尋ねてみた。

「おまえ、本当はどこ行ってたんだ?」

 学が問う。

 潜り込んだ布団の中で一平は緊張に身を硬くした。

「…海だって言っただろ…」

「ずっと泳いでたのかよか?真っ暗になるまで?」

「‥岩場で休んでたら、疲れてたんで寝ちゃったんだ。気がついたら真っ暗だった」

 言い訳は考えていたのですらすらと口から出た。が、布団から顔は出さない。

「ふーん…」

 相槌を打ったが勿論信用していない。ばればれだ。

 学はいきなり切り札を出した。

「バケツなんか何に使うんだ?」

「!!」

 一平は布団の中で一瞬凝固した。

「…なんの…ことさ…」

 やっとのことで言った。

「しらばっくれるなよ。オレは見たんだからな。おまえかバケツ持って走ってくのを…」

「……」

 少々学が喧嘩腰なので、翼が割り込んだ。

「一平…。オレたちに隠し事なんかするなよ。何してたのさ」

「……」

 一平は答えられない。まだ言えないと彼は思った。

「どうしても…言えないの?」

「オレたちが信用できないってのか?母ちゃんたちに喋るとでも思ってるのかよ?」

「やめなよ、学…。一平には何かわけがあるんだよ」

 学が布団を撥ね除けて起き上がってしまったので、まずいと思った翼は静止した。

 布団の中でで二人に背を向けたまま、一平は困っていた。

 三人の間に異様な静寂が広がる。彼は仕方なしに言った。

「…もう少し…待ってくれよ。…落ち着いたら、わけを話すから…」

 嘘はつきたくなかった。でも、まだ話してしまう勇気はない。一平は布団の中から二人に懇願した。

「……」

 しばらくの沈黙の後、学が「チェッ」と舌打ちして布団に潜り込んだ。

 それを見届けてから翼も自分の布団に戻る。

「一平…、ひとりで悩むなよ…」

 翼の優しさが身に沁みた。学を憤らせたことに罪悪感を覚えた。

 一平はその夜熟睡できなかった。


 翌日も、翌々日も、毎日一平は海へ出掛けて行った。

 そのこと自体は別段取り立てて異常なことではない。彼はそれまでもそういう生活をしていた。

 それに学校にも部活にもちゃんと顔を出しているのだ。伯母にも誰にも迷惑はかけていないつもりだった。

 水泳部の新入部員はマネージャーの翼を含め、全部で十二人。ニ、三年生は合わせて三十人と大所帯で層が厚かった。試合への出場権を獲得するための競争率が高く、そのため部としては強豪チームと言われて久しい。

 紀伊半島の南端に位置するこの村は温暖だ。四月でも泳げるほど暖かい。陸トレと並行してプールが使える。

 村の噂を聞きつけて一平を水泳部に引っ張り込んだ顧問の内山は、まず一平の体格に驚いた。背は飛び抜けて高くはないが、とても中一とは思えないほどいい体つきをしていた。太い腕とそのうち逆三角形になるだろうと思わせる胴体。これなら全国大会も夢じゃないだろうと、将来有望な選手を見つけてご満悦だった。

 実際に泳ぎを見て内山は舌を巻いた。こいつの前世は魚じゃないかと思わせるような、優美とさえ言えるような泳法である。しかも早い。二、三年生に引けを取らないばかりか、試しに測ってみた記録は部の最高記録保持者より二秒も早いのである。

 学と翼以外の部員たちは目を丸くした。

 当の一平はケロッとしている。息さえ大して上がっていない。そのことにも驚かされる。

 内山は歓喜して一平に目をかけようとした。二、三年生にとって面白かろうはずがなかった。

 一平に対する優遇が二、三日続くと、先輩たちは一平に少しずつ辛く当たるようになったのだ。

 準備や片付けは一年生の仕事として当たり前のことだったが、一年生全員ではなく一平一人にやらせようとする。

「人一倍プールを使ったんだからその分働けよ」

 そう言って一平をこき使う。

 見兼ねた学や翼が手伝ってはくれるが、他の仕事を割り当てられることも多く、いつもそういうわけにはいかない。顧問の内山の目も細かいところまでは行き届かない。

 そしてくたくたになって帰ってきても、一平は必ず海へ行く。

「また海なの?」

 呆れ顔のさえ子を宥めるために、翼が口実を考えてやることもしばしばだった。

 一平は何をしているのか何も明かさない。

 気にはなるものの、学も翼も一平の方から言い出してくれるのをひたすら待ち続ける他なかった。後をつけて行くほどの元気もこの時期の彼らにはなかったし、一平のように危険な夜の海を泳ぐ勇気は持ち合わせていない。


 二人よりもずっと一平は疲れているはずだった。それでも一平の日課は変わることがなかった。

 まず、海に入って魚や貝などの食料を調達する。洞窟ではパールが一平の来るのをひたすら待っている。ビニールプールで遊んでいる時もあり、歌を歌っている時もあった。何分幼いので、プールで好き勝手に跳ねるためか、中の水が半分以下に減っていることもある。そんな時はバケツで水を汲み、足してやらなければならない。

 また、気晴らしに必要だと思い、一平はパールを連れて海の中を散歩する。運動不足は人魚にだってよくないに決まっている。パールは好奇心旺盛で、結構お転婆だった。ナマコやウツボなどは彼女が暮らしてい海では見かけなかったらしく、不用意に手を出してか危うく指を食いちぎられそうになったくらいだ。

 一平が怖い顔をして注意するとしゅんとなるが、五分もしないうちに元気になって明るい顔を見せる。そんな時一平は「少し足りないのか.こいつ?」と思ったりするが、物覚えは驚くほど早いのだった。

 一週間もしないうちに、パールは一平の簡単な指示の言葉を自分でも使うようになった。一平がいない昼間に一人で一生懸命発音の練習をしていることを彼は知らなかった。一平がパールの言葉を覚えようと必死なのと同じように、パールの方も早く一平とすらすら話せるようになりたいと思っていたのだ。

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