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第十六章 旅立ち

 「トリトニアに帰ろう」

 唐突に一平は言った。

(えっ⁉︎)

 腹拵えのため魚を口に頬張っていたパールが目を丸くする。

「……」

 言ったきり一平は黙っている。

 口の中のものを飲み下し、パールは訊いた。

「どうやって行くのかわかったの?」

 いくら調べても、トリトニアなんていう地名はどんな本にも載っていなかった。翼もさんざん探し回ってくれていたが無駄足だった。

「わからない…」

「じゃあ、行けないよ。また迷子になっちゃうよ。パールみたく…」

(でももうここにはいられない)

 洞窟に男たちがやってきてから、一平はずっとそのことを考えていた。

 パールは帰してやりたい。でも調べはつかない。手段がない。が、ここにいれば遅かれ早かれまた同じような事態が訪れる。何の進展もないのなら、いつまでも不自由な思いをさせて燻っていても仕方がないような気がした。 

 パールと共に過ごしてみて、一平は自分が地上でなくても普通に生活できるのだという実感を得ている。息はもちろん、動きも食事も会話も何の不都合もない。二人で海を旅しつつトリトニアを探すのも悪くないんじゃないか。そう思えてきた。

 伯母の家族は一平を可愛がってくれるが、実の父も母ももうこの世の人ではない。大事な従兄弟も失った。伯母の家に自分が災厄をもたらしているのは否めない。自分は海に帰ったほうがいいのだ。

 父もそう言った。いつか故郷に帰り着けと。

 ここにはもう一平の知りたいことを教えてくれる(よすが)がなかった。

 勿論、断ち切り難いものもある。

 学、さえ子伯母、功伯父、学校、友達、部活、生まれ育った家、遊んだ場所の数々…。

 が、それらをおいても一平には知りたいことがあった。やりたいことができた。自分が何者なのか知ることだ。パールをトリトニアへ送り届けることだ。そうしなければ安心できない。前へ進んでゆけない。

 パールはいつの間にか一平にとって何よりも守りたいもの、何よりも大切なものになっていた。そのパールを危険に晒したまま、不自由な生活を強いたままにするのは一平の良心が許さなかった。

 自分には何の力もない。

 だが、パールと心を通じ合わせることはできる。一緒にいることぐらいはできる。海は世界中どこへでも繋がっている。十年ぐらいかければどこかでトリトニアの噂くらいは聞けるだろう。気の長い話だったが、そのくらいの覚悟は必要だと一平は思った。

 彼は言った。

「迷子でも、もう一人じゃないからこわくないよ。ボクが一緒に行くから」

「…⁈…」

「ボクが、パールをトリトニアに連れて行ってあげる。いつ着けるかわからないけど、もう一人ぼっちになんかさせないから…。ボクについておいで」

「だって…一平ちゃんのおうち、ここ…」

 パールは気にしている。そんなの悪いと思っている。

 一平は静かに首を振った。

「ボクの本当のおうちはね、トリトニアにあるんだ、多分ね」

(そうなの?)

 パールの目が問うている。

(本当にそうなの?だったら嬉しい!)

「ボクが、好き?」

 一平の問いにパールは大きく頷いた。

「ボクもだよ。だから一緒に行こう」

 大好きな人の瞳が優しく煌めいていた。


 一平は身の回りの整理を始めた。

 身の回りといっても元々荷物は少ない。父が亡くなった時は勉強机と学校で必要なもの、当面の衣類などを移動したくらいの小さな引越しだった。育った家はそのまま放置してある。何か必要なものがあればすぐに取りに行ける距離だったので不自由はなかった。伯父夫婦はほとぼりが冷めたらいずれきちんと片付けるつもりだったらしいが、追い打ちを掛けるような今回の不幸だ。一平の家に手がつけられるのはかなり先の話になりそうだった。

 旅立ちに際しては持って行くようなものもない。何しろ海の中なのだ。陸のものはほとんど用をなさないので荷物はないと言ってもよかった。ただ、散らかしたまま、何もかもやりっぱなしのまま出て行くのが嫌だったのだ。衣類などはいずれ学が着てくれるだろう。勉強道具は元々勉強が嫌いな学にとっては目障りなだけだ。翼の分を処分するついでに燃やした。

 一番持って行きたいのは家族の写真だった。でもそれもできない。地図も持って行きたかったがそれも不可能だった。

 方位磁針を一応の候補に挙げたが、いつまでもつかわからない。それに、星や太陽の動きに慣れれば必要なくなるだろう。時計にしても同じだ。それはパールに倣えばいい。

 ナイフだけは必要だと思った。食料を獲ったり危険な生き物に対処したりするのに不可欠だった。だが、使っていたサバイバルナイフは洞窟にはなかった。ビニールプールを切った後、翼と一緒に海に落ちたか翼が海に沈めたか…。買ってくるしかなかった。

 小遣いを数えて一平は唸った。ぎりぎり買えるかどうかしか残っていない。

 学に借りるか伯母に無心するか。

 教科書を燃やしながら思案に暮れていると、母屋からさえ子がやってきた。

「一平も行ってしまうのかい…」

 ドキリとすることをさえ子は言う。

「…もう、独り立ちするような年になったんだねえ。さよ子に見せてやりたかったよ。こんなにでっかくなっちゃって…」

「おばさん…」

 まるでさえ子は一平の決心を知っているかのようだ。しかも、それがさも当たり前のことであるかのように話してくる。

「いつか、行ってしまうと思っていたよ。さよ子はいつもそれを心配して嘆いていた。あたしはそんなこと思い過ごしだと言ったんだけどね…」

(母ちゃんが?…) 

 初耳だった。

「勝さんがあたしらと違うことくらい初めからわかってたことさ。あの人が帰って行ってしまうことこそさよ子は心配していたけど、自分の方が先に逝っちまうなんて、考えてみりゃあの子は幸せな子だったね」

 伯母は父が海人であることを知っている⁉︎母も知っていたのか?知っていて、知らないふりを?

 一平の頭の中はぐるぐると回っていた。

「行ってしまうんなら、渡しておかなきゃね…」

 伯母は一平を手招いた。古い方の納屋へとぼとぼと向かってゆく。息子を失う前は、伯母の足取りはもっとどっしりとして、女にしては騒々しくさえあったのに。

 古い投網を押しやって納屋の隅から引っ張り出したものは埃を被った行李だった。外で息を吹きかけて埃を払うと、地面に置いた。

「おまえのお父さんの形見だよ。十四年前、流れ着いた時に着ていたのさ。持ってお行き」

 父が漂流者だったことは知っている。今ではどこから流れ着いたのかもわかっていた。が、その当時の衣類がまだ残っているなどとは考えたこともなかった。

「昔のことを思い出させないようにと、父さんが―あんたのおじいさんだけどね―しまいこんだのさ。勝さんには処分したと嘘までついてね」

 伯母の言葉をBGMに、一平は行李の蓋を開けた。中には、生成りにうっすら埃を被ったような色の丈の短い服とベルト、そして何か堅いものが赤い布に包まれて収められていた。

 布を開くと中から短剣が現れた。柄の部分に見たこともない模様の彫り物が施されていて年代を感じさせる。

 ベルトは何かの皮でできている。鱗らしきものが一面にあり、硬くしなやかで丈夫そうだ。鮭の皮などがこんな感じだ。おそらく大きさとしてはそのくらいの魚が素材となっているのだろう。一本ではなく二本あり、そのうちの一本は剣帯のようだった。この短剣を差し入れるのに丁度いい。

 ベルトと似たような素材の小さな布片もあった。四枚ある。父はそれを小手と脛に巻いていたと言う。籠手と脚半だと思われた。

 生成りの服は半袖で薄い。水の抵抗はあまり受けなくてすみそうだ。

 短剣を包んでいた赤い布はマントだった。こちらにも、短剣のと同じような彫り物のついた留め金がセットされている。

 何を着て行こうかとは思っていた。パールは人魚なので何も着ていない。トリトニアで人々がどんな格好をしているのか聞いてみたこともなかった。パールに倣えば何も着なくてもよいのだが、十三年間地上で人間と同じに育ってきた一平にはそれはちょっと躊躇われた。何か着ていくにしても洗濯は不要なので着替えを持つ必要もない。かといって、Gパンやトレーナーなどは泳ぐには不向きだ。防寒の心配もあるが、必要ないかもしれない。その点、父が着ていたといういでたちなら安心だった。少なくとも、トリトニアではこの格好が凌ぎやすいのだろうと思えた。

「…ありがとう、おばさん。ボク、困ってたんだ…」

 ここまで察してくれているのなら隠すことは何もない。一平本人にも今まで黙っていたのだ。今後、他の誰かに話すことなど決してしない信頼できる女性だ、と一平は思った。この人が母の姉であることが嬉しかった。

 短剣があるのなら買おうと思っていたナイフはなくてもいい。切れ味を試す必要はあったが、上出来以上に素晴らしかった。

「すぐ、小さくなっちまうかもしれないね。おまえは成長が早いから…」

 そう言うさえ子も決して小柄ではなかったが、とうに一平を見下ろすことはできなくなっていた。

「時々はうちのことも思い出しておくれ。嫌になったら、いつでも帰ってきていいんだよ。ここはおまえの故郷なんだから」

 ―ここはおまえの故郷だ―

 誰かにはっきりそう言ってもらえることを一平はずっと夢見ていた。

 まさか伯母に言われるとは思ってもみなかった。だからこそ、余計に嬉しかった。胸に熱いものが込み上げてきて、一平は伯母に抱きついた。

 屈み込んで手にしていた衣装を放し、ふくよかな伯母の胸に縋りついて涙した。

「なんだねえ…。小さい子みたいに甘えて。一人前になったんじゃなかったのかい?」

 そう言う伯母の声も震えている。大事な息子を亡くし、今また妹の忘れ形見を遠くへ手放さなければならない。二重の悲しみに笑顔で耐える伯母の姿を、一平は心底美しいと思った。


『学へ

 今までいろいろありがとう。

 ボクはパールと行くよ。

 これ以上ここにいたら、おまえやおばさん達にまで迷惑がかかる。

 でもこれはボク自身のためでもある。ボクは自分が何者なのかもっと知りたい。パールを送るついでに探してくるだけさ。

 だから元気で。  

 黙ってパールを連れて行ってごめん。

                    一平』


 学にこそ、別れの言葉をちゃんと告げるべきだったかもしれない。

 でも、そんなことをしたら大泣きしてしまいそうだった。

 言われなくても学はきっとわかってくれる。一平たちはそういう絆で結ばれていた。だから置き手紙だけを残した。

 きっと怒るだろうが、学ならすぐ立ち直るだろう。それがあいつのいいところだ。

 学の明るさは翼のみならず一平の心をいつも楽しくしてくれた。かけがえのない友であり、従兄弟であり、仲間だった。

 菩提寺へ打ち合わせに行く功について行った学が戻ってくる前に、一平は全ての支度を済ませて一人犬首岬に立った。

 犬首からは村が一望できる。

 育った家、通った学校、遊んだ磯、走った砂浜…。

 おそらくもう二度と見ることはないだろう。

 さえ子はああ言ってくれたが、再びここに戻ってくることができるとは一平には思えなかった。

 慣れ親しんだもの全てを見渡した。

 海風が懐かしい匂いを運んでくる。

 その風を胸いっぱいに吸い込み、少年は岬から飛び込んだ。赤いマントが翻り、波に呑まれた。


 少し行った先には少女が彼を待っている。

 少年を運命に(いざな)うべくこの地に遣わされたことを、当の少女は何も知らない。信じることだけが持てる全てだった。

 その少女を守るために、少年は旅立つ。大人への一歩を踏み出すために。

           

                洞窟の子守歌 完

  

拙い作品を読んでいただきありがとうございました。

「洞窟の子守歌」は、海洋ファンタジー「トリトニアの伝説」のはじまりの章、第一部です。

 主人公一平少年の成長を通して、恋と冒険と自分探しの世界を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。

 

 次回からは第二部「放浪人(さすらいびと)の行進曲」を連載いたします。

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