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第十五章 トリトンの壁

 翼の具合はお世辞にもよいとは言えなかった。

 病院から一平が姿を消した理由を学はなんとか取り繕っていた。一平が戻ると学は勢い込んで尋ねた。

「あったか?」

「???」

 一平には何が何やらわからない。答えられずにいると続けて言葉を浴びせてくる。

「やっぱり無理だったか…」

「?…学…」

 何のことだ?と訊こうとする一平を制して学は言う。

「五月に水仙なんか咲いてるわけないよな…」

(水仙?)

 水仙は翼の好きな花の一つだ。何となくわかってきた。

「人目見せてやりたいと思ったんだけど…」

 危篤の翼を置いても一平が出かける理由を、末期の水ならぬ末期の花の採取のため、と騙ったのだ。勿論、そんなことを知らぬ一平が手ぶらで帰ってくるのを不自然にしないための方便だ。

「ごめん…」

 学の嘘に合わせる一平に学は目で問い掛ける。

 ―パールは無事か?―

 一平も目だけで頷いた。

「翼の具合は?」

「…よくない…」

「お医者様は…今晩もてばいい方だろうって…」

 涙ながらにさえ子が言う。

「どうして…どうして外へなんか…。海なんかに一体何の用があったの?こんな…こんなに早く…」

 わが子を失おうとしているさえ子は今まで見たことがないほど儚く見えた。

 皮肉な話だった。その身が危なかったのはパールの方なのだ。だが、そのパールはピンピンしていて、助けに向かった翼を逆に救助した。しかし、その甲斐もなく今翼は死に瀕している。

 翼がや学校を休んでいなかったら…。あの男たちが予定より早く来なかったら…,洞窟にパールを匿ったりしなかったら…。翼に秘密を打ち明けたりしなかったら…。考えても詮無いが、一平の思考は後悔へと向かってゆく。翼がこんな目に陥ったのも、そもそもは自分がパールと同族であったせいだという気持ちがどんどん強くなっていった。

 友達が苦しんでいるというのに、そばにいてやる他は何もしてやることができないのがもどかしい。翼はパールのため、()いては自分のために命を懸けてくれたというのに…。


 何一つ言葉を残すこともなく、翼はその晩遅く息を引き取った。

 静かな死に顔だった。


 十三年の生涯を終える直前、翼が幸せな夢を見ていたことを誰も知らない。

 夢の中で翼はパールに、真珠の髪飾りを手渡していた。戴冠するかのような仕草でパールの髪にカチューシャを嵌める。厳粛な面持ちで俯いているパールは白いドレスを纏っていた。まるで花嫁衣装だ。嵌め終えて翼を見上げる顔は天使のように愛らしい。

 翼はパールの手を取り、掌に口付ける。中世の騎士道では手の甲への接吻は中世の証し、掌へのキスは求婚の意味だということを翼は知っていた。

 パールは恥ずかしそうに頬を染め。そっと頷いた。

 翼はタキシードを着ていた。目の前で花嫁が誓いのキスを待っている。

 パールの姿が光に包まれた。輝きを増すと共に、辺りは逆に暗闇になっていく。そして光も小さくなり、ついに真の闇となった。

 自分は死ぬのだ、と翼は思った。

 ―一平、パールを頼んだよ―


 翼の声が聞こえたような気がして一平は顔を上げた。

 隣で学も同じような姿勢で同じような表情をしている。

「翼!」

「よくぅ〜」

 功とさえ子の悲痛な叫びが聞こえてくる。

 震える拳を握り締め、涙を堪えることしか、一平にできることはなかった。


 翼の葬儀が悲しみの中執り行われた。若い者―それもまだ子どもである―の葬式は辛いものだった。

 学はパールに話さないほうがいいと言ったが。それではだめだと一平は言い張った。それでは翼に対して失礼だと思ったのだ。

 翼はパールを好きだった。普通の男の子と同じように飛んだり跳ねたりできない翼が、パールを守るために初めて禁を犯したのだ。命を投げ出すことになってもパールを守りたかったのだ。それだけの値打ちがパールにはある。翼にもらった命を大切に生きろと伝えてやりたかった。

 パールのところへ行くと、パールは既に翼の死を知っていた。

 肉体を離れた翼の魂は空へと旅立つ前にパールの元へ立ち寄ったのだ。

「ぼくは逝くよ、パール。助けてくれてありがとう。-でも、ぼくはやっぱり王子様になれなかったね。ぼくの方が海の泡になっちゃったよ」

「翼ちゃん⁉︎」

「さよなら、パール。トリトニアに無事帰れるように空から見ているからね。一平の言うことをよく聞くんだよ」

「待って、翼ちゃん…」

 翼の姿が次第に遠ざかる。くらげのように透き通ったほの白い姿にパールは手を伸ばした。

「楽しかったよ…。ぼくは、パールを守れたこと、誇りに思ってる」

「翼ちゃん‼︎」

 追いかけても追いかけても追い付かなかった。

 翼はもう既にこの世にいない。自分のせいで。

 パールの胸は張り裂けそうだった。苦しくて、痛くて堪らない。何も考えたくない。

 蹲ったパールの身体から白く細い糸のようなものが伸びて繭を形作る。きれいな正球だ。その中で、眠るようにしてパールが身を抱えて丸くなる。

『トリトンの壁』と呼ばれる自己防衛機能のひとつだった。

 精神が耐えられないような刺激で痛めつけられた時に自己回復ができるよう、その間外界からの攻撃を防げるように働く。トリトン族特有のものだ。

 

 一平はパールを見つける代わりに丸い球を見つけて仰天した。

 一目見て、球の中にパールがいることがわかった。

 一平自身にも同じような経験があったからだ。

 六年前、一平を可愛がってくれた優しい母が死んだ時、一平もこのトリトンの壁に包まれた。辛いこと、悲しいこと、多大な身体の損傷などが起きた時に現れるこの現象は、精神力の弱い幼い時によりは頻繁にトリトン族を訪れる。母を失った悲しみを癒すべく、彼は一晩この球の中で夢を見続けた。

 そこから彼を引っ張り出してくれたのは父であった。球の側面に手を当て、中の一平に向かって念じた。

 ―出ておいで。おまえの居場所はそこじゃない。ここにもおまえをこよなく愛し、大切に思っている者がいる。息子よ。虚構の夢の中から戻ってこい―

 辛抱強く父に導かれ、一平は現世(うつしよ)に戻ってくることができた。一平はそれを思い出していた。

(パール…)

 パールがトリトンの壁に包まれた理由が何なのか、一平は大体察していた。まさか翼が魂となってパールを訪れたのだとは思いもよらなかったが、少なくともパールは翼が溺れ死にしかけたことは知っている。きっと関係あるはずだ。

 一平は父がしてくれたようにトリトンの壁に両手を差し伸べた。球体はほんのりと温かかった。

(パール…)

 手先に意識を集中して一平は呼びかける。口には出さず、心で話す。何度も何度も呼びかける。 

 やがて周囲が光に包まれてきた。明るい青い光だ。晴れた日に寝転がって見る青空のように清々しい。

 その光の中でパールば胎児のように丸くなっていた。閉じられた目からは涙が溢れている。

 誰のための涙なのか一平にはわかっていた。理屈ではなく、第六感が告げていた。

 一平の見ているのは現実の光景ではない。パールの心の中の風景だ。その証拠に今一平の前には死んだはずの翼の姿が浮かび上がっていた。

(翼…)

 幻だとわかっていても一平の心は一瞬喜びに包まれた。翼が死んだなんてやはり嘘だったのだと、希望的観測が頭を擡げる。

 翼はこちらに背を向けて何かをしていた。屈み込んでひっきりなしに手を動かしている。

 その手にあるのはナイフだった。翼は何かを切っていた。赤いものと白いもの、それに何やら漫画の絵のようなものも見える。

 それがパールの使用していたピニールプールであることに一平は気がついた。翼はピニールプールを細かく切って証拠が残らないようにしているのだ。

 すぐそばでパールが口元に手をやって声もなく泣いている。ぼろぼろととめどなく涙を流しながらも必死で声を殺している。

 翼が立ち上がって刻んだものを捨て始めた。

 ―いやあああ―

 パールの叫び声が聞こえてくる。

 ―捨てないで。壊さないで。パールの大事なものをみんな持って行かないで―

 そういうふうに聞こえた。

(パール…)

 一平は思わず足を踏み出した。

 パールを処分し終えた翼の背中が何者かに掴み上げられたように変形する。摘んでぽいと投げ捨てられた猫のように、翼の身体が放り出された。翼の身体は渦巻の中へと吸い込まれてゆく。

 ―翼ちゃああん―

 ―行かないで。パールが助けてあげるから―

 ―頑張って。すぐおうちに帰れるから―

 パールの願いが虚しく渦に飲み込まれてゆく。

 ―さよなら。パール。空から見ているからね―

 ―待って…―

 ―一平の言うことをよく聞くんだよ―

 ―やだ!行かないで―

 ―楽しかったよ、ぼく。パールを、守れたこと誇りに思ってる―

 ―翼ちゃん!―

 二人の声だけが虚空に響いている。 

 風景が変わった。

 洞窟の中だ。

 翼がパールに絵本を読んでいる。翼の膝の上にちょこんと座り、パールは熱心に本に見入っている。二人は楽しそうにおしゃべりに興じ始めた。

 ―パールね、人魚姫になりたいの―

 ―海の泡になっちゃうのに?―

 ―人魚姫が王子様助けたみたいに一平ちゃん助けたいの―

 ―じゃあぼくが溺れたら助けてよ。泳げないから―

 ―うそ。泳げないの?翼ちゃん―

 ―うん。だから、ぼくをパールの王子様にしておくれ―

 パールが、目を丸くすると翼の表情が哀しげに変貌する。

 ―やっぱりぼくは王子様になれなかったね。ぼくの方が海の泡になっちゃったよ―

 ―そんなのやだ!翼ちゃんはパールが、助けるんだ。約束したんだもん―

 ―ぼくは助けてもらったよ。ありがとう―

 ―でも‼︎―

 ―これはぼくの天命さ。パールを守るのがぼくに与えられた役目だったんだ。それは果たせた。満足さ―

 翼の姿が浅く透けていく。パールを乗せていた膝も透き通って消えた。

―翼ちゃん‼︎―


 ―パール‼︎―

 そこで初めて一平は呼び掛けた。

 パールが泣いている。泣いて泣いて泣いて、泣き疲れるほど泣いているはずなのに、まだ泣いている。

 一平がパールの傍らに滑り込む。

 実体ではない。トリトンの壁の中に本人以外の実体は入り込むことができない。入れるのは魂だけだ。一平の魂である幽体が、蹲るパールの肩を掴んで覗き込む。

 パールが泣き腫らした目を上げた。

 ―一平ちゃん…―

 何を言っても慰めにはならないだろう。一平はそう思った。

 一平だって、翼がいなくなったことに他人が触れてほしくなかった。

 だが、パールは幼い。一人では抱えきれないからトリトンの壁に包まれてしまったのだ。

 ―翼ちゃんが…行っちゃったの…―

 一平は黙って頷いた。

 ―もう、帰ってこないの…―

 もう一度頷いた。

 ―パールのせいなの―

 これには頷けない。翼が死んだのはパールのせいではない。間接的には関係がないとは言えないが、直接の死因は事故による心臓停止だ。誰のせいでもない。誰かのせいだと言うなら、それは他ならぬ一平自身が呼び寄せだのだ。一平はそう思う。ただ、それを言ってもパールには通じまい。

 一平はポケットからあるものを取り出した。

 小さな箱に入っていたのだが、ここまで持ってくるには邪魔なので中身だけにしておいた。パールに見えるように両手に乗せて差し出した。

 それを見てパールの瞳がみるみる曇ってゆく。 

 そろそろと手を伸ばして掴みかけたが、直前で引っ込めた。両の拳を目元に当て、おいおいいと泣き出した。

(余計に泣かせてしまったか…)

 一平はちょっぴり後悔した。これを見れば少しは元気を取り戻してくれるかと思ったのだ。

 一平が持ってきたのは真珠の髪飾りだった。翼がパールのために特注して作ってもらった、パールが見つけてきた真珠で作ってもらった、特別なプレゼントだった。

 翼の葬儀の日、約束の一週間目に品物をとりに来ないので不審に思った店主から電話がかかってきた。あれほど早く欲しがっていたのにどうしたのかと。せっかく急いで作ってやったんだ、早く取りに来いと、電話に出た学を翼と勘違いして捲し立てた。

 何のことかわからなかったが、翼が生前何かを注文したことは確からしいので取りに行って驚いた。翼の作り話を店主から聞いて口裏を合わせながら、学は確信する。翼はこれをパールにやるつもりだったに違いないと。

 あまつさえ、翼の机の引き出しからパールへ宛てたカードも見使ったた。髪飾りを身につけた人魚の絵と、少ない文字が書かれていた。字は読めないはずなのに、よほど伝えたかったのだろう、ひらがなで書いてある。

『ぱーるにぷれぜんとだよ。ぽくだとおもって大切つにしてね』

翼には申し訳ないが、海の中にカードは持っていけない。カードの文句をしっかり脳に刻み、一平は学から髪飾りだけを預かって海に来ていたのだ。

 

 パールがこの髪飾りを見て泣くわけを一平は知らない。

 パールが集め、翼が預かって鎌飾りにしてやると言ったことを。

 だが、二人の間にこの髪飾りを介した何かがあったのだということは想像がついた。以前、パールが昼間漁をしたことを告白した時に、きれいな玉を見つけたと言ったことを一平は思い出した。それはこのことだったのではないだろうか。

 一平は優しく言った。

 ―翼からの伝言だ。『パールに、プレゼントだよ。ぼくだと思って大切にしてね』―

 それを聞くとパールは顔を上げた。

 ―翼ちゃんが…そう言ったの?―

 ―本当は…紙に書いてあった。…でも、持っては来れないだろ?だから覚えてきた…―

 ―翼ちゃんは…これになったの?お星様じゃなくて?―

 一平は頷いてやった。そう思った方がパールには楽だろう。

 ―これを身につけていれば、パールはいつも翼と一緒だよ―

 ―本当?―

 ―ああ。だからもう泣くな。泣かなくていい。翼はここにいるんだから―

 パールはじっと髪飾りを見た。

 ややあってから一平に頼んだ。

 ―一平ちゃん、はめて―

 一平は髪飾りを持ち直した。カチューシャの枠をちょっと広げ、差し出された頭に添わせた。

 目を瞑り、神妙にしているパールの頬に何かが触れた。

 それは一平の唇であり翼の唇だった。パールにカチューシャを嵌めた手も、一平の手であると同時に翼の手であった。パールははっきりとそれを感じていた。

 一平が誘った。

 ―帰ろうか―

 ―うん…―

 ―おいで…―

 一平に手をとられてパールは起き上がった。

 パールの周りを取り巻いていた白い糸が霧散してゆく。

 パールの目の前に現実の一平の姿があり、一平の目の前に現実のパールの姿があった。

 トリトンの壁は取り払われたのだ。

 一平は現物の髪飾りをポケットから取り出し、パールの手に乗せた。

 パールはカチューシャにそっとキスして自分の頭に嵌めた。

「よく似合うよ」

 一平が褒めた。


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