第十四章 救助
パールは海に飛び込み、後ろも見ずに潜って行っ。昨日一平に言われたことをちゃんと覚えていた。
パールが潜ったことを見届けると、翼は面を引き締めて縄梯子にとりついた。風が梯子を揺らすのでいつものようには登れない。
「くそっ。こんな時に邪魔しないでくれよ。こっちは弱ってるんだからさ…」
風の精がそこにいるかのように毒づいた。その途端、胸に痛みが走った。
「うっ……」
きりきりと心臓が締め上げられる。息が苦しい。
心臓の発作だった。昨日よりも痛みが激しい。胸を押さえねば卒倒しそうだった。翼は片手で胸を掻きむしり、残る手で必死に梯子を掴んでいる。
大きく梯子が揺らいだ。
翼の手が空を掴む。
風に投げ出された翼の身体が海に呑まれた。
不吉な寒気を覚えてパールは振り返った。何かよくないことが起きているという確信を抱いた。
洞窟の真下の渦に巻き込まれている翼の姿を捉え、パールは叫んでいた。
「翼ちゃん‼︎」
翼は泳げないと言っていた。
―ぼくが溺れたら助けてよ―
以前翼はパールにそう言った。
パールは大きく尾を振ると全速力で泳いだ。ぐったりしている翼の身体を掴み、必死で引っ張る。
翼は一平とは違う。水の中では息ができないはずだ。このまま放っておいたら間違いなく死んでしまう。パールにはそう判断する力があった。海上へ運び、顔を水上に確保すると周囲を見回した。岩場も浜も見えた。
が、それより近い所に船がいた。船には人間が乗っているはずだ。
―人間の姿を見たらすぐに潜れ―
一平の言いつけが思い出された。パールは頭を振った。
(ごめんね一平ちゃん。パール、言いつけ破ります。翼ちゃん人間に渡して助けてもらわなくちゃ)
パールは泳いだ。
船の上では二人の男が釣竿を垂れていた。何かが波を掻き分ける音を聞きつけて、釣り人が顔を上げる。
「おや?」
「助けて!」
パールは日本語で叫んだ。
釣り人が腰を浮かす。
見る間に船に近づき、パールは船縁に翼を押し付けて言った。
「翼ちゃんを助けて!」
ただ事ではないと、釣り人は竿を放り出して翼の身体を船の上に引き上げた。もう一人もそばに寄って介抱にかかる。
「真っ青だ。チアノーゼが出てるぞ」
「すぐ陸へ戻ろう」
釣り人たちはこういう手合いに慣れているようだった。
「…君も乗りなさい」
少年を連れてきた少女を引き上げようと声を掛けたが、もうどこにも少女の姿はなかった。
「どこへ行ったんだ?」
「溺れたんじゃないか?」
「大変だ!」
叫んだ男が海に飛び込んだ。船の周りを一回りしたが見つからない。いくら何でもそんなに早く沈んでいくわけがない。
「だめだ!いない!」
海面から顔を出し、息を吐いて男が言う。一瞬しか見ていないが、ピンク色の髪をした女の子だった。
(ピンクの髪?)
そんなばかなと思った。
(小さい女の子だった)
それもおかしいと思った。
(夢でも見たのかな?)
それとも幽霊か?
犬首岬のお化け話のことは聞いている。
まさか…。
「おい、何ボケっとしてる。この子を医者へやらにゃ大変だぞ」
船の上に残っていた男は翼に人工呼吸と心臓マッサージを繰り返している。
「船を動かせ!早く!」
男は船に這い上がり、エンジンをかけた。全速力で船を走らせながら無線で救急車の手配をする。
翼はこの男たちの采配で一命を取り留めた。が、危ないことも確かであった。
医者は万が一を考え、駆け付けた功夫妻に、家族を呼び寄せるように宣告した。
知らせを聞いた少年たちはすぐさま病院に向かった。
病室の外で学たちが来るのを待ちかねた功が、落ち着かなげにうろうろしていた。
学生服の二人連れを見つけると駆け寄った。
「学!…一平!」
「父ちゃん!」
「おじさん!」
「翼は?」
二人同時に食いついた。
功が悲しげに首を振る。
「…母ちゃんがついてる。おまえたちも早く行け」
―そんなに悪いのか?―
二人は愕然とする。昨日も心配したが、元気になった。今朝は笑顔まで見せていた。
駆け付けた二人の前に横たわる翼は医療機器に囲まれていた。電極や注射針に繋がれた沢山の管が翼の身体から伸びている。口と鼻を覆っている水滴だらけの物体は酸素吸入器だ。
「何でだよ?何で急にこんな…」
学は憤った。自分の半身にも等しい翼のこんな姿は見たくなかった。お気楽そうに振る舞ってはいたが、いつも心の片隅で翼の身体を気遣っていた。
「…いつのまに…抜け出したのかわからなかったの…母さんのせいだわ…」
憔悴しきったさえ子が涙を抑えながら呟いた。
「抜け出した?」
「翼は海で発見されたんだ。釣り人が見つけて運んでくれた」
功が補足した。
海と聞いて二人は固まった。
安静の必要な翼が両親に黙って海へ行ったというなら理由は一つしかない。
人間が来たのだ。
いや、来る可能性を、察知したのかもしれない。ともかく翼は一人で海へ行った。パールが危険だからに違いない。
(教えてくれ!翼!何があった?パールは無事なのか?)
揺り起こして大声で尋ねたい衝動を一平は必死に堪えていた。
「…一平…ちょっと…」
学が一平の袖を引いて病室の外へと促す。
「学?」
功もさえ子も不思議そうだが、ただ事でない気配に息を呑み、黙って見送った。
「すぐ戻るよ」
そう言って学は一平を連れ出した。
病室を出るなり学は命令した。
「早く行けよ」
「学?」
「何があったかぐらいおまえにもわかるだろ?」
「……」
「翼の努力を無駄にしないでくれ…」
「学….」
「おまえにしかかできないんだから…」
どんなにパールの様子を見に行きたくても、例の海溝までは人間の息ではもたなかった。だからこそ、一平はそこをパールの隠れ場所に選んだのだ。
翼の命は風前の灯だった。少なくとも二人にはそう見えた。その翼を放っておいて、パールの所へ行けと学は言う。翼もそう望んでいるはずだと学は確信している。以心伝心の可能性が極めて高い双子の片割れがそう言うのだ。パールを採ることも、翼を採ることもできず立ち竦む一平を、学がそう言って押し出そうとする。
「行けよ…パールを…大人たちの手に渡したりしたら承知しないからな」
乱暴な物言いだけに切ないほどの思いやりが伝わってくる。
一平は頷いた。
踵を返し、廊下を走った。
「頼んだよ….一平…」
学は一平の後ろ姿に拝むようなまなざしを送った。
犬首に長い縄梯子が揺れていた。何人かの人影が洞窟の入口に見える。
一平は目を凝らした。
(パールは中にいるんだろうか?)
一番知りたいことはそれだった。
崖下に張り付いて上の様子を窺うが、波の音がうるさくてあまりよく聞こえない。
が、未知の生物を見つけて驚いたりしている雰囲気はない。パールの声も聞こえてこない。おそらく見つかれば泣き喚くだろうが、その様子はない。眠っていたり気絶していれば話は別だが。
一平は男たちが洞窟の奥へ行った気配を感じ取り、そろそろと洞窟の上へと顔を出す。音をさせないようにこっそりと中を盗み見る。
思わず声をあげそうになった。洞窟の中にあったものが何一つない。勿論パールもいない。
―翼だ―
一平は直感した。翼が、ここに人魚がいたという痕跡を残さないために処分してくれたのだ。そしてパールを逃がした。
共に逃げたのか、追ったのか、そこから先が得心がいかなかったが、ともかくパールは無事らしい。
それだけわかれば長居は無用だ。あの溝へ行けばいい。
果たしてパールは思った通りの所にいた。
一平が呼ぶとおそるおそる顔を出す。不安そうな顔だ。心配そうな顔だ。泣いていたような跡もある。
「…一平ちゃん…」
「パール…」
パールの顔を見て心底ほっとした。パールの方も同じ思いだった。
「一平ちゃん!一平ちゃん、一平ちゃん…」
何度も名を繰り返し、パールは一平に保護を求めてきた。堪えきれずに泣きじゃくる。
「…こわかったよう…人間…やだよう…」
「わかった…わかったよ、パール。よく我慢したね」
小さな頭を撫でてやる。
「翼ちゃん…平気?一平ちゃん…」
ちょっと収まるとパールは訊いた。
「おまえが…助けたのか?」
一平は直感した。心臓が弱く、泳ぎなどできない翼が海で発見されたわけ、溺れ死んでいても全然おかしくない翼が未だ生きながらえているわけはパールにあったのだ。何と言って感謝を述べたらいいのだろう。 一平はそう思っていたが、パールは逆に謝ってきた。
「…ごめんなさい…」
「え?」
「パール、一平ちゃんの言いつけ破ったの。船に近づいて人間に頼んだの」
(何?)
「翼ちゃん、おうちに帰れた?元気になった?」
「パール…」なかなか言葉が出てこなかった。「もしかして…溺れた翼を運んで人間に渡したのか?」
「うん、…ごめんなさい」
なんと無謀なことを。助けたのはともかく、人間に後を託すとは…。自分が捕まったらどうするつもりだったのだろう。一遍に冷や汗が噴き出てきた。
大人たちに捕らえられて途方に暮れる姿や、檻に入れられたところ、あまつさえ、手術台の上で眠らされている姿を想像して背筋が寒くなった。
「パール…やっぱり悪い子なの。….一平ちゃんが、だめだっていうこと…やっちゃうの…」
「いや….」
悲しそうに自分を卑下するパールを一平は否定した。
「…よくやってくれた。…パールが助けてくれなければ翼はあのまま死んでいたよ」
「翼ちゃんはダイジョブなんでしょう?」
一平は一瞬言葉に詰まる。
「…今は…病院に入っている。お医者さんが見ていてくれているよ」
危篤だなどとはとても言えなかった。
「よかったあ…」
パールは安心したのかやっと笑顔を見せた。自分の身柄こそが危険に晒されていたことをパールは全く自覚していないように見えた。でもそれでいい、と一平は思った。
「洞窟の中のものは翼が処分したんだろ?」
話のできない翼に代わってパールに話してもらわなければならない。パールにとってその話題がひどく辛いものであることには何も気づかず、一平は尋ねる。
途端にしゅんとして、だがしっかりと、パールは答えた。
昼間なのに急に翼が現れたこと。自分も手伝って色々なものを海に捨てたこと。ビニールプールを切り刻んだのが悲しかったこと。
「それで、ここで一平ちゃんを待ってろって言ったの」
正解だ。翼はこれ以上ないほど完璧に対処してくれた。どんなに感謝してもし足りないと、一平は思った。
「でもね、変なんだよ。翼ちゃんは上に行って梯子を片付けるって言ったのに、パールが見たら海の中にいたの」
足を滑らせたのか、発作でも起こしたのか、いずれにせよこの風では十メートルを登るのは容易なことではなかっただろう。安静が必要な身には堪えたはずだ。翼は不可抗力で落ちたのに違いない。
パールが気がついてくれてよかった。振り返るなと言ったのは躊躇している間に距離を縮められるのを恐れたからだが、言った通りにしていたら既に翼はこの世の人ではなくなっていたのだ。
「…ありがとう、パール…。おまえは、翼の恩人だよ」
一平は思わずパールを抱きしめて言った。
パールが一平の胸元でにっこりする。
「パール、約束したんだもん。翼ちゃんが溺れたら助けるって。でもそれだけじゃだめだったの。だからニンゲンに頼んだの」
誇らしげな中にちょっぴり後悔が混ざる。
「でもすぐ逃げたよ。捕まらなかったよ」
「それでいい。…いい子だ…」
一平に髪を撫でられて、パールは満足そうに微笑んだ。
縄梯子の処分まで翼の力は及ばなかった。
それはいい。
誰かが出入りしていたことぐらいなら、知られたとしても許容範囲だった。要はパールさえ隠し果せればよいのだ。
男たちはすでに縄梯子を使って洞窟まで来ていた。もう少し遅かったら…。翼が学校を休んで家にいなかったら…。こうしてパールの笑顔を見ることは叶わなくなっていたはずだ。
―神様、感謝します―
八百万の神、キリスト教の神、仏教の神。その他神仏と名がつくもの全てに一平は手を合わせた。
もう、洞窟には戻れない。それはパールにもわかっている。
一平は今後の身の処し方をパールに話して聞かせる。
当分の間はこの溝を隠れ家にすること。中は狭いので一日中入っていなくてもいいが、決して遠くには行かないこと。人間や船からは極力身を遠避けること。今まで通り自分が毎日来るから、あったことをできるだけ詳しく話してほしいこと、などだ。
「ここにはニンゲン来ないよね?」
パールが訊いてくる。
「ああ、普通の人間には来ることができない。安心しろ。でも、人間の他にもこわい生き物はいっぱいいるぞ。パールも知ってるだろ?サメやシャチやウツボなんかには気をつけろよ」
「うん」
「ひとりで寂しいだろうけど…待っていられるか?」
パールを一人で置いておくのは忍びない。だが、当面の危険は去った。翼の様子を見に戻らなければ。
一平が心の中で何かと格闘しているのをパールは感じ取った。自分にできる限りのことをしよう。そう思ってパールは頷いた。
一平がじっとパールを見つめている。
何かを考えている。決めかねて迷っている。
パールは訊いてみる。
「なあに?」
一平の柳眉がぴんと跳ね、すぐに戻った。
「パールは…ここが好きかい?」
「うん」
「洞窟とここと…どっちがよかった?」
「……」
珍しく、パールは返答しなかった。できなかったのだ。
陸上とはいえ、あの洞窟はパールには居心地がよかった。三人もの仲間に見守られ、心強かった。新しい経験の連続に、心の柔軟なパールは喜びを見出していた。ここは住み慣れた海の中ではあるが、狭いし何より学や翼がやって来られない。どちらがパールにとって快適であるかは言わずと知れていた。
でも、それを尋ねる一平の目には辛い色がある。洞窟の方が好きだと答えたら、その目は一層悲しみを増していきそうな気がしてパールは答えられなかった。
「…トリトニアに…帰りたい?」
また、一平が訊いた。
勿論だ。生まれ育った故郷に行けばパパとママに会える。パールの本来いるべき所はここではない。
が、トリトニアに帰るということはここを去るということ、ここで出会ったパールの大好きな人々とさよならするということだった。それもパールには嬉しくない。
「パールね…」
答えようと思ったが続かない。声を発したら喉が詰まった。ひくっと、嗚咽が込み上げた。両親に会いたいというホームシックと一平たちと離れたくないという惜別の思いがないまぜとなって、パールの目から涙となって溢れ出る。
そんなパールをそっと見守りながら、一平は考えていた。何がパールにとって一番大事なことなのだろう。どうしてやればパールは幸せになれるのかと。
ひとりでは泣き止めないパールを抱き上げ、膝に乗せた。自分の身に凭せ掛け、優しく撫でてやった。
どんなに泣き喚いていても、こうするとパールはおとなしくなった。抱かれると一平が自分のことを考えてくれているのだと感じられ、興奮が収まるのだ。静かな心音が流れ込むと、母親の胎内にいた時のように安らげる。
やがて一平は親が子に諭すように言い聞かせた。
「翼の様子を見てくるからね。一人で、待てるね?」
パールとて翼の容体は気にかかる。大きく頷いた。