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第十三章 避難

 走ればすぐなのに今日の犬首は遠かった。

 ロードワークから帰ったばかりのせいだ。自分で思っているほどスピードが出ない。ほんの一分か二分の間が悠久の時に思えた。

 一平は学校の前の浜を突っ切り、海へ飛び込んだ。岬に登って縄梯子を使うより、彼にとってはずっと早いし楽なのだ。正しく水を得た魚のように、一平は瞬く間に洞窟に辿り着いていた。

 パールがいつものように一平を出迎える。

 何事もなかった様子に一平は胸を撫で下ろした。

 事実、パールにとっては何事も起こっていなかった。

 岬の上に人が現れて何か調べていたことも、ここに祠を造る計画があることも、何一つとしてパールは知らなかったのだ。

「早いね、一平ちゃん。翼ちゃんまだ来てないよ⁉︎」

「…そうか…。翼はまだここまで来てないんだ…」

「?」

 いつもと違う様子の一平にパールは不思議そうな目を向ける。せっかく会えたのに全然目が笑ってない。

「どうしたの?」

「あ…なんで?」

 余計な心配はさせたくなかった。パールにまだ何の手も回っていないのなら、いつも通りに振る舞わなければ。

「一平ちゃん、コワイ顔してる…」

 上目遣いでパールが見る。

「…疲れてんだ、ちょっとね」

「フーン…」

 パールは一平に飲み物を差し出した。缶入りのミルクティーである。こういう物もいくつかここに運び込まれている。一平たちはスポーツドリンクや炭酸飲料が好きだが、パールは砂糖たっぷりの紅茶やジュースなどがお気に入りだった。

「サンキュ…」

 ミルクティーに口をつけながら一平は考え込んだ。

 とりあえずここまで来てみたが、どうすればいいのだろう。人間が来るとしたら岬の上からのルートしかない。隠してある縄梯子を使えばすぐにもやってこられる。

 が、今のところその気配はない。だが心配だ。やはりちょっと行って様子を見てきた方がいいだろう。

 一平は言った。

「パール。ボクが前に教えた海底の溝を覚えてるか?」

「うん…」

「ボクはちょっと調べ物をしてくるから、戻るまでそこにいてくれるかい?」

「…いいよ…⁉︎」

 パールを海底に匿うと、一平は岩場から岬へと道を登って行った。岬には既に男たちの姿はない。縄梯子もいつもの場所に隠されていた。

 まもなく夕暮れだ。何らかの動きがあるとしても、少なくとも明日以降のことだろう。そう判断し、一平はパールを連れて洞窟に戻った。

「ボクら以外の人間が来たり、姿を見たりしたら、必ずあそこに隠れろよ。何も持たなくていいんだからな。振り返ってもだめだ。約束だぞ」

 妙に念の入った別れ際の言葉に、パールは不安になった。

「ニンゲンが…くるの?」

「わからない…。でも、来てもおかしくない。それだけはいつもよく覚えておくんだ」

 一平が真剣に言う。だから大事なことなんだ。パールはしっかり覚えた。


 中学校から救急車で運ばれた翼は小康状態となったため自宅に戻ることができた。但し、しばらくは安静が必要だという。翼から詳しい話を聞いて、二人は確かめに回った。

 まずば功に聞いてみる。

 はじめは言葉を濁していた功だったが、耳に入ってしまったのなら仕方がないと事の経緯いきさつを話してくれた。

 夜毎犬首の洞窟辺りで鬼火が目撃されたこと。あの辺で死んだ人の魂が彷徨っていると考えられるので、お祓いをして祠を建て、死者の魂を鎮めることになったこと。施工に当たっては村の消防団の若者が鳶職人と共に携わることになったこと、などだ。

 詳しい予定は功の耳には入っていない。別の手段をもって調べなければならなかった。

 聞いたからには興味があるだろうが、作業の邪魔でもあり危ないので、絶対に犬首に近寄ってはならんぞ、と厳しく釘を刺された。 

 消防団の方の聞き込みは学がやってくれた。明るく、近所の子どもたちの親分格の学は消防団の若者たちにも可愛がられている。単純だが口が滑らかな学の話しやすい質が幸いした。

 学が聞き込んだ話によると、柵の工事は材料の調達さえできれば明後日から始めたいらしい。その後下へ降りられるかどうかを色々試してみてから、本格的に計画が練られるという。少なくとも明日一日は洞窟まで人がやって来ることはないということだ。

 一平の方はパールの移転先を探した。岩壁には他にもいくつか洞があったが、どれも小さすぎたり場所が高すぎたりしていて適当なものがなかった。それに、今の洞窟が人間に使用されるのなら、いくら他を見つけても危険度は急激に増す。

 海の中も似たようなものだった。結局、緊急の避難場所にしていた海溝が、近いし、鮫のような大きな魚は入ってこられないので一番妥当そうだった。何より海の中というのがパールには嬉しいだろう。

 祠の建立計画の阻止、というのも考えたのだが、どうにも上手い手が思いつかない。そもそもの原因の火さえ現れなければ立ち消えになるかとも思ったが、ことは急を要する。そんな悠長に構えている時間はなかった。洞窟に灯りを持ち込んだことを悔やんだが、過ぎ去ったことをあれこれ言っても何も始まらない。

 学校には行かなければならない。翼が心配だからと、部活だけは休ませてもらうつもりだが、何しろ学も一平もピンピンしているのだ。ずる休みの理由、早退の理由を考えながら授業を受けていた。が、考える必要は無くなった。家から、すぐ戻れと連絡が入ったのだ。

 理由は翼の急変だった。

 自室で横になっていた翼が、いつの間にやら抜け出して、なんと海上で発見されたというのである。病院に収容された翼は現在危篤状態だという。


 翼はその日の朝からおとなしく床についていた。

 十時ごろ、トイレに行くため階下へ降りた。

 玄関先に人が来ていた。翼の具合が悪いと聞き、功の漁師仲間が様子を聞きに来ていたのだ。

 聞くともなしに用を足していると、聞き捨てならない話が耳に飛び込んだ。

「じゃ。これからこいつを鳶の達さんの所へ納めに行かなきゃならんから」

「おう。いよいよ工事が始まるのか」

「ああ、あの辺の木や草を払ったらいいものが出てきてよ。洞窟まで降りられそうな縄梯子が見つかったんだ。さっそく昼から降りて調べてみようってなことらしいわ」

「縄梯子ねえ…」

 そういや、うちの古い納屋にもあったなと功は思い出した。佐々木の家には納屋が二つある。古い方には普段使わない物やどう見ても粗大ゴミとしか言えない物などが押し込まれている。ここ何年も足を踏み入れたことがない。学の使っている縄梯子は実はこの納屋に打ち捨てられていた物だったのだ。

「不要になったんで誰かが捨てたか、物好きにもあそこを降りて遊んでたかしたんだろうよ」

「何にしろ、手間要らずでよかったな」

「ああ。…んじゃ、お大事に…」

 出る物も途中で止まってしまうくらい、翼は驚いた。

(工事は明日からじゃなかったのか?)

 パールはまだ洞窟にいるはずだった。昼なら一平たちはまだ学校だ。

 ためらっている間はなかった。

 二人はいないのだ。だったら自分がやらなければならない。

 幸い、昨日は大事なく家に戻れた。あんなに辛かったのに、心臓は元の落ち着きを取り戻している。昨日は慌ててつい走ってしまったが、走っていかねばならないほど差し迫ってはいない。

 翼は着替えに戻り、こっそり家を出た。

 パールを逃がし、洞窟内のものを処分し、縄梯子を引き上げてこれも処分する。とにかく証拠を隠滅しなければならない。二時間あれば何とかなるだろう。

 その日は風が強かった。十メートルもある重い縄梯子が揺れるくらいの強風が時折吹き付ける。その度、自分の息を吸い取られていくような息苦しさを味わった。やはり身体が弱っているのだ。持病があっても、今までこんなことはなかったのだから。


 こんなに陽が高いのに現れた訪問者に、パールは目を丸くした。

「今日はお休みの日?」

 日にちを間違えたのかと思った。

「違うよ。一平たちはまだ学校だ。ぼくは休んだのさ」

「どうして?」

「風邪を引いたんだ」

 パールを心配させまいと嘘をついた。

「それよりパール。今からぼくの言う通りにしておくれ。一平が来るまで、例の隠れ場所で待ってるんだ」

「ニンゲンが来るの?」

 隠れなければならないということはイコール人間の到来だった。パールはすぐに悟って聞き返した。

 そのことは翼は隠さない。

「うん.…もうあと、二時間くらいでね。だから、ここは引き払わなければならない。ここにあるものを全て片付けて、パールがここにいたことを知られないようにしなくちゃ」

「片付ける?」

「うん。はっきり言うと…捨てるっていうことかな」

「捨てちゃうの?」

 ここにはパールの好きなものばかりがある。思い出の詰まったものがいっぱい。

「捨てるって言ってもここにはゴミ箱なんかないからね。全て海に沈める」

 翼は説明しながら洞窟の中を見回して処分の算段をする。捨てると聞いてパールの顔色が変わったことには気がつかない。

「要するに、ここになければいいんだ。…心配しなくていいよ。ぼくがやるから」

 パールは首を振った。

「パールも手伝う」

 健気にもパールは言った。自分に持てるものを運んだ。洞窟の縁に持ってゆき、眼下の海に向かって投げ入れる。或いは落とす。

 荒波が渦巻いていたがなかなか飲み込まれてくれない物もあった。比重の軽いプラスチックのコップや空き缶などだ。

 本を捨てるのは躊躇われた。ままごと道具などはその気になれば拾ってこられないものでもない。が、本は水に濡れてしまったらおしまいだった。いつかちょっと濡らしただけで翼にひどく怒られた。翼が選んでくれて、一平が読んでくれて、いろいろなことを教えてくれた書物たちだった。トリトニアには決してないもの。パールにとっては宝物だったのだ。

 自分ではどうしても捨てることができず、パールは数冊の本を抱え込んだ。涙がだんだん溢れてくる。一キロ以上もある図鑑をその手にしながら、パールは全く重みを感じていなかった。

(これがみんなパールの身体の中にしまえればいいのに…)

 いつも手放しで泣いてばかりのパールが初めて耐え忍ぶ涙を流していた。

「パール…」

 翼が気がついてそっと抱きしめた。

「また…買ってやるよ。そのくらい、何でもないよ。だからお放し」

 パールは切なそうに目を瞑った。翼のするままに、本から手を放した。

 本の行方を見ようとせず、そのまま顔を覆って忍び泣いた。

 慰めてやりたいがそうもしていられない。一番厄介なビニールプールが残っている。 

 バケツで水を掻い出さなければとても動かすことはできない。空気も抜かなければ水に浮かんでしまう。両方時間のかかる作業だ。翼は思案の末、サバイバルナイフを使うことを思いつく。主に魚を捌くのに使用していたものがここにはある。

 プツッ。プツッ。プツッ。

 三回音がして、三層のビニールそれぞれに穴が開いた。シューっと音を立てて歪んでゆく。

 何事かとパールが思わず振り向いた。

 翼が手にナイフを持ってパールの大事なプールに傷をつけていた。


「…いやあ…」

 そんなことを言ってはいけないのはわかっていた。翼は悪意でしているのではない。パールのために、パールを助けるためにやむなくしているのだ。それでもまだ幼いパールの目にはこの光景がひどく残酷に映った。

 自分の半身を切り裂かれたような痛みが胸を刺す。 このプールは一平が初めてパールに与えてくれたものだった。

 日が暮れてしまっても一生懸命に一人で空気を入れ、水を汲んで満たした。パールは物珍しげにじーっと彼のすることを眺めていた。時々何か言って作業の邪魔をした。まだ一平の言うことはほとんど理解できなかったけれど、一平が自分のために一生懸命なのは見ていればわかった。この洞窟で暮らすに当たってパールの生命を繋ぎ止めるもの、それがこのプールだった。

 白地の底にバトンを持った女の子と不思議な動物の絵が描かれている。ミニスカートからすらりと伸びた二本の足に片ちんばの靴下と靴を履いている。きっとこれが人間の女の子の姿なんだとパールは思っていた。

 学ちゃんと翼ちゃんはいつもこういうものを履いている。一平は海から来るので裸足で来る。だから一平ちゃんはパールと同じなんだ。学ちゃんたちと違うところは水中で息ができることを除けばそれくらいだもん。そんなふうに理解したことも思い出した。

 パールと一平が出会ってまだ一ヶ月と経たない。けれど思い出は山ほどあった。洞窟の中にあったもの一つ一つに心が刻み込まれている。それが今、全て無惨に打ち捨てられようとしているのだ。

「いやあ…ああ…」

 いつものパールに比べれば遥かにか弱いおとなしい声で、パールは泣いていた。泣かずにはいられなかった。できることなら翼の手にしがみついて作業をやめさせたかった。けれど、それはしてはならないことなのだ。

(一平ちゃんが…買ってくれたのに…パールの大事な…プールなのに…)

 ぐったりと力をなくしたようなプールから、どくどくと水が溢れて流れる。翼の足元を濡らし、パールの尾鰭を濡らし、洞窟の縁から小さな滝となって海に落ちる。

 空になったプールを翼は更に切り刻んだ。なるべく短時間で海面から姿を消せるように。

 パールはぼろぼろ泣きながら翼のすることを見ていた。ずたずたになったプールの切れ端が宙を舞い、波に飲み込まれてゆく。

 洞窟の縁についにパールは突っ伏した。

 目の前で自分のものが捨てられる。それだけでも幼い少女には悲しい出来事だった。が、それだけではなかった。このことはすなわち、もうここにいてはいけないということなのだ。

 もうここにはいられない。楽しかったいろんなこととさよならしなければならない。言葉にはできない。漠然としか感じられなかったが、これが予感というものだった。

 ―別れの時が来た―

 パールは確かにそう感じていた。 

 泣いていたパールを翼はそっと抱き起こした。

 パールが抱きついてくる。心ゆくまで泣くことを許してくれる優しい胸をパールは三つ持っていた。自分をそのまま受け入れてくれる人がいるということが、どんなにこの迷子の少女の心を支え、勇気をくれたことか。物を失っても人までは失っていないのだということが、幼い人魚の心を慰めていた。

 翼が促した。

「さあ、パール。もう行くんだ。一平と約束した場所へ。縄梯子はもう使えない。二度とここへ戻ってきちゃいけないよ。一平の言うことをよく聞いて言う通りにするんだ」

「翼ちゃんは?」

「ぼくにはまだしなければならないことがある。上へ登って梯子を始末しなくちゃ」

「……」

「さあ、お行き。一平が来るまで出てきちゃだめだよ。わかったね」

 こくりとパールは頷いた。名残惜しそうに何もなくなった洞窟の中を見、翼の顔を見た。

「またあとで会おうな」

「うん」

 ちょっとだけパールが微笑んだように見えた。

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