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第十二章 鬼火

 海はまだ暗く凪いでいた。

 東の水平線が僅かに白みかけているが、頭上にはまだ星が瞬き、陸地はちらほらと灯りを灯す大きな黒い影でしかない。

 漁師たちが大漁旗を揚げて帰路を急いでいる。漁船の立てるエンジン音と波を掻き分ける音ばかりが響いていた。

 一仕事済んで、漁師たちは一服吸っている者、持参したポットから温かい茶を注いで喉を潤している者、決して広くはない甲板に大きな体を横たえて鼾をかいている者と様々だ。操舵を預かる男だけは、まだ緊張の解けない面持ちで前方の海上に目を凝らしている。 操舵輪を握っているのは境という男だった。すぐ横では桂木が酒瓶を抱えている。会葬御礼などでよくもらう一合入りのプラスチックに入った日本酒だ。蓋がお猪口になっている。今時の流行りではないが、この辺りではまだ僅かに風習として残っていた。

「おやあ?」

 境の不審げな声に桂木が手を止めた。

「どうしたい?」

「あそこによォ…何か見えねえか?」

「何でェ?」

「…火が見えるんだ。ぼうっとな」

「灯くらい見えるだろうよ」

 桂木の言うのは街の灯、船着場の照明灯の灯りである。

「そんなに明るくねえんだよ。あるかないかわからないくらいだ…ほら…」

 境の示す方向に桂木も目をやった。

 確かに何かの灯りが瞬いている。

「ありゃあ…犬首の辺りじゃねえか?」

 毎日通い慣れた海路である。夜は明けていなくとも、かなり正確な地理感があった。

「…だろ?おかしいと思わねえか?」

「そうだよな。犬首の根元に灯りが見えるわきゃねえな。火の玉だったらわかるがよ」

「よっ…よしてくれ。おりゃあ、お化けの類が一番苦手なんだ」

 境が悲鳴に近い声をあげた。

 犬首岬はこの辺では自殺の名所として有名な所だ。今までにそういう話はなかったが、成仏できない霊が鬼火となって彷徨っていても不思議ではないほど自殺者が出ている。事故で亡くなった者もいる。

「大の男が火の玉ぐらいで騒ぐんじゃねえ」

「だけどよう…」

「…俺だって気味悪くないわけじゃないけどな」

「だろ?」

「ま、触らぬ神に祟りなしってこった。間違っても犬首の海流の方へ流れ込むなよ」

「あったりめえだ」

 火の玉を見たのは境たちだけではなかった。地元の漁師たちの間では、犬首の根元に夜毎光が見える、自殺した者の魂に違いない、との噂がまことしやかに流れ始めていた。

 功の耳にもそれは届いている。が、功は家庭にその話題を持ち込むのを避けた。家にはごく最近父親を亡くしたばかりの多感期の少年がいるのだ。お化けや幽霊の話は父の死を思い出させるだけだし、その父は他でもない犬首岬で散骨されたのだ。漁師たちが見たという火の玉が父の勝の魂かもしれないと一平が思っても何の不思議もない。ただでさえ地形的には危険な場所であるので、できることなら子どもらを近寄らせたくないと思うのが親心だった。

 妻のさえ子にだけはこういう噂があることを耳打ちした。どこから伝え聞いてきて子どもたちの耳に入るかわからないし、さえ子がついうっかりニュースとして団欒の場で口にしないとも限らないからだ。

 そんなわけで、佐々木家の中学生たちは村の中で囁かれる噂からはつんぼ桟敷に置かれていた。


 鬼火の正体は誰あろうパールだった。

 洞窟の一隅は今や様々な品物でいっぱいだった。パールの遊び道具の他、ここへ遊びに来られるようになった翼たちが使うものまで持ち込んできていたからだ。

 洞窟内は曲がっているので薄暗い。パールや一平にとってその暗さはどうということもなかったが、純粋に地上の人間である学たちには些か不便なものだった。

 蝋燭や懐中電灯などを持ち込んで明かりをとっていたのである。昼間は周りが明るいので気づかれなくて済んだが、夜使えば多少なりとも明かりが漏れる。

 夜はパールとて眠るのだが、許可を得てからは暗いうちに起きて漁をすることが多い。その後、明かりを使った影絵遊びをパールは楽しんでいた。

 その明かりが海上からの目に止まったのだろう。

 影絵を教えたのは翼だった。この他にもかるたやトランプや双六などもパールは理解して楽しんだ。あやとりや折り紙などもやり方を調べてパールに伝授した。翼はパールにとって知識箱兼おもちゃ箱の役割を果たしている。

 学は専ら遊び相手に徹していた。歯に衣着せない性格の学はたまにパールを怒らせもするが、打てば響くような反応が面白くてパールをからかうのがやめられない。遊び相手というより喧嘩相手と言った方が良かったかもしれない。

 一平はそのどちらをも務める。加えて保護者で先生だ。パールは一平の許可なしには新しいことをしようとしないし、是非の判断を全て一平に任せてくる。それでいて、ここぞと思うことにはしつこく食い下がり、喜怒哀楽全てを躊躇せずぶつけてくる。甘え上手でもあった。

 翼から見ても学から見ても、三人のうちでパールが一番好きなのは一平であると言えた。翼はこれが悔しくてたまらない。なんとかしてパールの気を引こうと色々新しい遊びを仕入れてくるのだが、幼いパールがそんな下心に気がつくわけもない。

 パールにとっての自分の位置を一平のそれと取って代わらせるのは至難の業だった。たった一つ望みがあるとすれば、それはパールと交わした約束だった。昼間漁をしたことを一平に内緒にしておくというあれだ。既にパールが一平に打ち明けてしまったことなど知らない翼は、それだけを優越感の頼みとしていた。

 また、その時に拾ってきた真珠で作った髪飾りをパールにあげることを、心の底から楽しみにしていた。それを身につけたパールはきっとかわいいだろうこと、きっと大喜びして自分に感謝してくれるであろうことを考えると、真珠店からの電話が待ち遠しくてたまらない。


 翼が真珠店へ注文をしてから五日目、下校して鞄を置いた翼はいつものように犬首岬へ向かっていた。

 立ち入り禁止の札がある所まで来て翼は足を止めた。普段は誰もいないはずの茂みの中で物音がする。耳を澄ましていると人の声もしてきた。

 嫌な予感がした。

 翼は足音を立てないようにそっと危険区域に足を踏み入れた。人声は聞こえてきてほしくない方向から聞こえてくる。村の男たちの声だった。縄梯子を隠してある方から聞こえてくるのだ。

「…っぱり、ここからじゃ無理だな」

「うーん、十メートルほどあるからなあ」

「あの穴が一番大きそうだしな。最適だと思ったんだが」

「鬼火の見えたのもあの辺だしな」

「ああ、まったく。だがよ。船で近づけないっていうのがなんともはや、難点だぜ」

 微かに聞こえてくる話はパールの潜む洞窟のことに違いなかった。条件が当てはまり過ぎている。

(何をしようとしているんだろう?あの洞窟に何の用があるっていうんだろうか?)

「だからこうやって崖の上から降りられないか調べてるんじゃねえか」

「誰が言い出したんだかよ。言った本人がやってほしいね」

「ちげえねえ。面倒なことはみんな俺たちに押し付けやがってよ」

 どうやら誰かに困難な仕事を命令されたらしい。

「まず、柵を作るこったな。大型機械を使うにしろ手仕事にしろ、ここから落ちたら一巻の終わりだ。鬼火のお仲間にはなりたくねえやな」

「同感だな。いくら洞窟に祠を造って祀ってくれたって、死んじまったら元も子もねえんだから」

「大事な奥さんももらったばっかりだしな」

「ちげえねえ」

 一人の男が一番若い男を揶揄った。どっと笑い声が上がる。裾が膨らんだズボンを履いた鳶職姿の男たちは談笑しながら踵を返した。下見を終えて村に戻るらしい。

 翼は慌てて身を隠した。

 四人の逞しい男たちが去るのを待って縄梯子の隠し場所へ急いだ。梯子は丸められてちゃんとその場にあった。

「よかった…」

 ほっと胸を撫で下ろしたが、のんびりしてはいられない。男たちの話を総合するとどうやらこういうことらしかった。

 パールの洞窟に祠を設置するために岬の上から機材を運び入れる。そのための準備段階としてこの辺りに柵を設けるのだ。

(冗談じゃない…)

 祠というのは神様を祀るためのものだ。こんなところに作ろうというのなら、その神様は海の神様に決まっている。だが漁の無事を祈願するための祠は港の方にすでに存在していた。かなり古いものだが、海に命を預ける漁師たちは粛々として(いにしえ)からの慣習に従い、漁の前には必ず海神に手を合わせ続けている。

 今更なぜこんな所に祠を造らなければならないのか翼には理解不能だった。それに、あんな所じゃ滅多なことじゃお参りに行けないじゃないか。

 どんな理由で祠を造ろうと翼には全く関係なかったが、それがなぜパールの洞窟でなければならないのか。他にも適当な場所はいくらでもあるだろうに。それこそ、この岬の上だっていいではないか。

 いや、岬の上も厳密に言えば困る。縄梯子が見つかる恐れ、自分たちが洞窟に行くところを見られる恐れは十分ある。

(こうしちゃいられない…)

 翼はすっくと立って走り出した。なんとかしなければ…。

 大人たちのすることをやめさせなければ。それが無理ならなんとかしてパールを別の場所へ移さなければ…。

 一人では無理だった。学と、何より一平の助力がなければできないことだった。

 二人はまだ学校のはずだ。ここから中学校までは歩いて五分ほどの距離である。一刻も早く知らせなければならないと考えた翼は学校までの道を走った。


 翼の心臓はそんなことには耐えられない。思い切り走ったことなど生まれてこの方一度もない。機能がスポイルされているのですぐに息が切れてしまう。歩かざるを得なくなる。当然苦しい。この時ほど翼は自分の持病を恨めしく思ったことはなかった。たかが五分の距離を突破するのにこんなに苦しむなんて…。

 中学校のプールは正門を入ってすぐ右手にある。翼は一直線にプールを目指したがプールはもぬけの空だった。まだみんなロードワークから帰っていないのだ。水泳部では泳ぐ前に海岸のジョギングをする。

(一平…学…早く帰ってこい…)

 額に、首に、脇の下に、背中に、吹き出しながら流れ落ちる汗を不快に感じながら、翼は懸命に呼吸を整えていた。こんなに運動したことはない。スポーツで流す汗は清々しいものだと聞いているがとんでもない、と翼は思った。

 翼はプールの外壁に寄り掛かり、汗を拭いた。ハンカチ一枚ではとても拭い切れなかった。いつまでも収まりそうもない汗を拭っていると、「そーれっ」「一、二」などという掛け声が聞こえ始めた。

(帰ってきた…)

 ほっとした途端に気が緩んだ。足がガクッと折れ、へたり込んだ。

 学が翼を見つけた。

 走っている途中からかなんだか胸が痛かった。原因が思い当たらないので胸騒ぎがしていたところだった。

「翼っ‼︎」 

 さすがは双子だ。自分の身体の異常は翼のせいだったのだと瞬時に悟った。

 一平も、学の大声に一大事だと気がついた。

「苦しいのか?とうしたんだ?もう帰ったはずじゃ…」

 翼を抱き起こして学が問う。

 一平が駆け寄り、後からか部員たちが取り巻いた。

「…大丈夫…だから…皆に…あっち行ってもらって…」

 こんなに人がいては話したいことも話せない、と翼は苦しい息の下から切望する。

「ばか…医者に行くのが先だ」

「誰か…救急車を呼んでもらって下さい」

 一平が部員たちを振り返って叫ぶ。

 部長の大川が副部長を行かせた。もう一人に、内山に知らせろと指示した。

 そうする間もか弱く首を振って拒否する翼の姿にただ事ではないと学は勘付く。部長を振り返って言った。

「大勢いると却ってよくないんで…皆部活に戻ってくれませんか」

「あ…わ、わかった…、皆、戻れ」

 翼と双子で一番よくわかっている学が言うのなら間違いないだろう。そう思い、部長はその場を離れる。

「おばさんに連絡してくる」

 腰を上げかけた一平のジャージを翼が掴んだ。

「…⁉︎…」

「…一平…パールのとこ…行ってくれ…洞窟に人間が来る…」

 これだけは伝えなければならない。翼は言葉を絞り出した。

「‼︎‼︎」

(何…だって?…)

「…岬の上を…調べてた…祠を作るって…」

 それだけ聞けば十分だった。一平はすっくと立ち上がる。

「学…」

「母ちゃんにはオレが知らせる。おまえは海へ行け!」

 一平の言いたいことを察し、学が代わりに言った。

 一平は頷いて踵を返した。

 

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