第十章 罪悪感
翌日の昼休み、翼は一平の教室に来て尋ねた。
「おまえ、今日は行けるだろ?」
勿論、パールの所へだ。
「うん。昨日は結局行けなかったから」
「ぼくは今日行けないんだ。用事を頼まれちゃってさ。だからそのつもりでいてくれよ」
「どこ行くんだ?」
何の気なしに一平は訊いた。
「隣町。父ちゃんに荷物を取ってくるように言われてるんだ」
嘘だった。
翼は昨日パールから預かった真珠の加工のために隣町にある加工業者の所へ行こうと思っていたのだが、一平は気がつかない。
「わかったよ」
「じゃな…」
そうだ。昨日は帰りが遅くなってしまい、パールの所へ顔を出すことすらできなかったのだ。一日翼が一緒にいてくれたので本当に助かった。協力者がいるというのは実に心強いものなのだと、一平は翼に感謝していた。
昨日の埋め合わせに今日はパールの好きな蛸を獲っていってやろう。食べるのは好きなくせに、蛸を捕まえるのだけは苦手なのだ、パールは。
少し具合が悪いからと、こちらも嘘をついて、一平は部活を早めに抜け出した。
昼間考えていたように蛸を一匹捕まえて、犬首の洞窟へとよじ登る。
中ではパールがぼうっとプールに浮かんでいたが、物音と気配に外の方を見た。
翼ではなく一平が立っていた。
ここのところ、ここに一番にやって来るのはずっと
翼だった。今日もそうだと思っていた。勿論翼のことはパールも大好きだし、一緒にいると楽しい。が、やはり毎日顔を見たいのは一平だった。昨日姿を見せてくれなくて本当に寂しかったのだ。
「一平ちゃん!」
大喜びでプールから出て来るパールの鼻先に、一平は蛸を突き付けた。
「わ!」
「昨日は来られなくてごめんな。ほら、お詫びのしるし。パール、蛸好きだろ?」
「うん‼︎」
手放しの笑みを浮かべてパールは蛸を受け取る。
蛸はまだ生きがよく、ぬるっと滑って地に逃げた。
慌てて追いかけていたら一平が背後からひょいと掴み上げた。
「捌いてやるから、おいで」
サバイバルナイフで器用に蛸を捌いてゆく一平の手元を、パールは待ち遠しそうに眺めていた。手にはままごとのお皿を持って待っている。足元、というか尻尾の先にはもう一枚の皿があって、中に黒い液体が入っていた。
醤油だ。
蛸が好物なのはパール一人ではなかった。パールは一口大の大きさの生をそのまま口に入れるが、一平は蛸を醤油につけて食べる。その方が美味しいのだと言う。時々、それにわさびという緑色の練り物を入れることもある。試しに舐めてみたことがあるが、つんと辛くてとても食べられたものじゃない。一平は『これが大人の味なのさ』と言うが、パールはごめんだった。
醤油もしょっぱくてあまり美味しいとは言えない。パールの前にあるのは一平がつけるための醤油であった。一平のためにパールが皿に注いだのだ。
「ほら、いいぞ」
一平が切り身にした蛸をパールによこした。嬉しそうに頬張る姿を優しく見つめてから、一平も自分の分の蛸に手を伸ばす。
「昨日は何食べたんだ?」
いつもなら自分が獲って来るので大体パールが食べたものはわかっている。だが昨日のことは一平は知らない。
「うんとね…イワシとワカメ」
パールはあまり大きな魚は狙わない。捕まえて簡単に平らげられるような小さめの魚を選ぶ。ワカメもどちらかと言うと採取するのが簡単だ。
自分で獲ってきたな、と一平は予想した。
「うまく獲れたか?」
「…うん…」
答えながらパールはどきどきしていた。イワシもワカメも獲ったのは昼間だ。一平に縄梯子を使っちゃいけないと言われた時間にパールは漁をしていた。そのことがばれるといけないと不安になっていた。
幸いなことに一平はパールが漁をしたのは暗いうちだと思ってくれたのか、そのことはそれ以上尋ねてはこなかった。
「昨日は何してたんだ?」
「えっ⁉︎…あ、あのね。ビーズ遊びとそれから…」
真珠をいっぱい見つけた、と言いそうになって慌てて口を押さえた。これも喋っちゃいけないのだった。
「?」
これはさすがに不審に思われる。
「どうした?」
一平が訊いてくる。訊かないでほしいと思いながら、パールは苦しい言い訳をした。
「あのね…。翼ちゃんのご本…濡らしちゃったの。…怒られた…」
思い出したことを言っただけだが、思いの外うまい言い訳になった。
一平はちょっとびっくりし、ちょっとおかしそうに笑って、いたずらな目を向けた。
「それで…泣いちゃったんだろ?」
パールは目を丸くした。
(何でわかるの?)
「翼ちゃんに聞いたの?」
「いや…。多分…そうだと思って…」
そのくらいわかるさ、と一平は満足気だ。
「いつだっておまえ、すぐ泣くじゃないか」
「……」
(パールって、そんなにすぐ泣くかなあ…。そうかなあ…)
「翼は許してくれたんだろ?」
「うん…」
でも、その後がまずかったのだ。パールがひどく泣いたせいで翼は掟を破らざるを得なくなった。パールは一平の言いつけを破ったのだ。それを思い出すとパールは悲しくなる。
これが罪悪感というものなのだと、パールはまだわからなかった。自分が悪いことをしたのはわかっている。けれど謝るどころか喋ってもいけないと翼は言ったのだ。二倍の悪いことをしたような気持ちでいっぱいだった。
自然とパールは暗くなる。
一平も変だな、と思う。一日前のことをまだしょげているような子ではないのに、と。
考えれば考えるほどパールは黙っているのが辛くなる。大好きな蛸の味も感じなくなり、喉から先へ通っていかなくなった。
「パール?」
心配そうに覗き込む一平の労りのこもった声を聞いた途端に、パールは爆発した。
「ああーん…」
一平にはわけがわからない。
(一体どうしたんだ?ボクは何か悪いことを言ったか?)
「ああーん、あーん、あん…」
喜ぶ時も手放しだが、泣く時も手放しだ。本当にパールは子どもらしい子どもであった。
一平は暫く呆然としてパールの泣くのを眺めていた。
泣き喚いている時に何を言ってもだめなのだということは彼はもう心得ていた。
少しパールが収まると、一平は腰を上げてパールの前に座り直す。蛸の皿を脇へやり、か細い少女の肩を抱いて自分の胸にもたせかけた。
「…いい子だ…」
宥めるために言った言葉だった。
が、パールは首を振る。
「パールいい子じゃな…い…」
「ん?」
何を言ってるんだ、と一平はパールの顔を覗き込む。
「パール…悪い子…一平ちゃん…約束…破った…」
「約束?」
何のことだろうと一平は思考を巡らした。一つのことに思い当たる。
―ボクが、毎日来てやる。一緒にお父さんとお母さんを探そう―
そんなことを言った覚えがある。
(じゃあ、パールはボクが昨日来なかったことを…毎日来なかったことを責めているのか?)
「ボクが来なかったから泣いてるの?」
パールは違うと首を振る。
「パール…寂しかったけど…違う…パール…パール…」
(寂しかった?本当に?)
パールはまだ泣いているのに一平は少し嬉しくなった。
「パール…明るい時…オサカナ捕まえたの…。きれいな玉…見つけたの…」
「何だって?」
翼は見張っていてくれなかったのかと、一平は額に皺を寄せた。
「でも…翼ちゃん…言っちゃだめって…。一平ちゃん‥怒るからって…」
(パール…)
「パール泣いたから…翼ちゃん困って…パールが…悪い子なんだ…」
そしてまた自分は泣いている。また悪い子になってしまう。そんな強迫観念がパールの心を襲う。
「ごめ…ごめんなさ…パール…悪い子いや…」
ひくひくしながら、必死で説明するパールがいじらしかった。
一平はパールの頭を抱き抱え、自分の頬を擦り寄せた。
―愛しい―
そんな言葉は思いつかなかったが、その時一平の心に浮かんだ感情はまさしくそれだった。
約束を破った。そのことを黙っていた。それだけでこの幼けな少女には重荷だったのだ。何と汚れのない魂だろう。
一平なぞ嘘なんか数えきれないほどついている。今日部活を抜け出した理由だって嘘だし、そもそもこうしてパールを匿っているのだって自分の身体の秘密だって、隠しているからには人を騙していることではないのか。
それなのにこの子は…。
「もう泣くな、パール。泣かないでいい。おまえはいい子だよ」
一平は言った。
でもパールは首を振る。
(自分が許せないのか?)
一平は言った。
「パールよりボクのほうがずっと嘘つきで悪い子なんだから」
パールは意外な顔をして一平を見た。敬愛していると言ってもいいくらい頼りにしている一平が悪い子のはずがない。
―そんなことあるはずない―
パールの目はそう言っていた。
どうやって自分が悪い子であるかを証明するための理由を一平は探した。
「…ほら…昨日だって…毎日来るって約束したのに来なかっただろ?」
「……」
「実は今日だって、学校の先生に嘘ついてサボってきたんだ」
「‥どうして?…」
どうして一平はそんなふうにすらすらと告白できるのだろう。どうして嘘ついたのにそんなに爽やかな顔をしていられるのだろう。パールには不思議だった。どうしてあの一平が嘘ついたりなんかしたのだろう。
「パールに会いたかったからさ。昨日のお詫びに蛸獲るつもりだったし。今日は翼も来れないって言うし…」
「……」
「人が嘘をつく時にはね、パール。…理由があるんだよ。でもね…ボクは構わないと思う。その人が嘘をつくことが他の誰かのためだったら…。全部が全部間違ったことじゃないんじゃないかな」
「一平ちゃん、パールに蛸獲るのに嘘ついた?」
一平の言うことを懸命に聞き取り、自分なりに理解したことをパールは口にした。
「うん…」
一平はこくりと頷く。
「パールだって…約束破ったって知ったら、ボクがいやな気持ちになると思ったから言わなかったんだろ?」
パールも頷いた。
「だったらいいじゃないか。これから気をつければいい。もうパールは十分苦しい思いをしたんだから。それに…これならおあいこだ」
「オアイコ?」
うまく説明する言葉が見つからなかったので一平は言った。
「元のパールのに戻ったんだよ。…もう、約束破ったりしないだろ?」
「うん…」
パールはしっかりと頷いた。もう絶対にするまいと強く思った。