「深淵」
「まて。逃げなくてもいい」
「そうだ。我らは、人を食わぬ」
逃げ出そうとした僕を、その狼たちは穏やかな声で呼び止めた。
「それに、夜の間は山を下ってはならぬ」
「左様。生きて帰りたければ、ついてこい。死者の登り来る道に帰路はない」
二匹の狼は僕に背中をみせた。
僕は、自然と彼らの背中を追った。
彼らが、嘘を言っているようには、思えなかったからだ。
「……ど、どこに向かうんですか?」
「山頂だ」
「日が昇るまで安全なのは、あの場所をおいて他にない」
その言葉通り、二匹の狼は木々の間を縫うように、山を登っていく。
「なんで助けてくれるんですか?」
それが僕にとって一番の疑問だった。
この二匹の狼は、おそらく神様に近しい存在なのだろうと思った。
あの恐ろしい川の神と同じような存在なのだと思った。
「生きることは、生き物の使命だ」
「死ぬまで終わらない、役目の一つだ」
二匹の狼は、同時に振り向く。
「其方は神によって生かされた。
不味いものばかりを喰い、すこぶる機嫌の悪い川の神が、其方を見逃した」
「左様。触れる者あれば薙ぎ払い、動く者あれば喰いつく。
かの荒々しき神が、見逃したとあれば、其方にはまだ成すべきことが、残っているのであろう」
夜風が木々を揺らす。
「命とは、偶然の連続の上にあるもの。我らと其方の出会いもまた偶然」
「其方は、助けられたのではない。偶然この道を歩むことになったのだ」
「偶然……」
僕はそう呟きながら、再び山を登り出した彼らを追いかけた。
僕は、必死に彼らを追いかけた。
そして山を登りながら、いろいろなことを考えた。
川の神はなぜ、あんなに恐ろしいのか。
ぐろはりたちはなぜ、ああなってしまったのか。
川の神に見逃されたのは、なぜなのか。
それも偶然?
生き延びて成すべきこととは何か。
使命とは何か。
生きることとは何なのか。
時間も疲れも忘れて、僕はひたすらに考え続けた。
「童よ。ついたぞ。ここが山頂だ」
「ここは巨大なる神々の世界。そして、かつて命だった者たちが集い、再び廻りゆく湖」
「…………」
僕は、その光景に言葉を失った。
そこには、対岸も見えないほど巨大な湖が存在していた。
まるで海のような、いや、海よりも圧倒的広い湖だった。
湖の水は七色に輝き、真昼のように明るい。
湖には、至る所から水が流れ込み、巨大な滝をいくつも作り出していた。
僕らの目の前は、切り立った断崖絶壁になっていて、その場に立っているだけでも足が震えた。
この場所が山の山頂であるとは、とても信じられなかった。
「こ、ここが……山頂?」
「左様。かつて命だった者たちが、川を遡り、たどり着く場所」
「そして神と共に、天へと舞い上がり、再び命として世に降りそそぐための場所」
真昼のような明るさは、二匹の狼の本当の姿を照らし出した。
「木だ……。木の体……」
二匹の狼は、木の葉の毛皮と、太い木の枝の体で作られていた。
「人と話すには、この姿がいいと先代の神通導師はいう」
「しかし当代の神通導師は、何も言わぬ。人の世のことを伝えるのも役目であろうに」
二匹の狼はそう言いながら、くつろぐようにその場に寝そべった。
「童よ。其方も座れ。間もなく雨になる」
「間もなく巨大なる神が、目を覚ます」
「雨になると神様が、起きるんですか?」
「いや、違う。雨こそが神なのだ」
「湖を覗き込んでみるといい。そこには神の姿がある」
僕は言われた通りに、切り立った断崖絶壁から、恐る恐る湖の中を覗き込んだ。
吸い込まれそうな水面が恐ろしくて、ひざまずいて、丈夫そうな岩にしがみついた。
湖の中には、貝殻の内側の虹色の光沢に似た鈍い輝きを持つ、とてつもなく巨大な何かが沈んでいた。
そしてその巨大な何かは、一枚だけではなく、湖の中に敷き詰められているように見えた。
湖が広すぎて、敷き詰められたそれの数を数えることもできない。
僕は、あらためて湖の深さと広さに、思わず足がすくんだ。
虹色の何かの巨大きさが、湖の果てしなさをより明確に引き立てた。
僕は足を震わせながら、後ずさりして、断崖絶壁を離れた。
「見えたか? 神の姿が」
「間もなくだ。間もなく雨になる」
狼の言葉の通り、それは突然始まった。
地震のような激しい揺れと、聞いたことのない地響き。
そして濁流のような音と共に、激しく揺れる湖面。
やがて、海をひっくり返したかのような水柱が立ち上り、虹色の鱗をもつ、巨大すぎる大蛇が姿を見せた。
「うあぁ……」
僕は、湖に飛び込んでしまったのかと錯覚するほどの、大量の水に飲み込まれた。
でも、その水は、僕の体を押し流すこともなければ、体や服を濡らすことさえなかった。
水が引くと、湖の中から空に向かって伸びていく、大蛇の姿が見えた。
山を丸呑みにしてしまいそうなほど、巨大すぎるその大蛇は、ゆっくりと空に向かっているように見えた。
しかし、水面から伸びる胴体は、凄まじい速度で上昇している。
湖の底に敷き詰められた虹色の物体は、大蛇の鱗だったと気が付いたとき、果てしないほど巨大な存在への恐怖によって、体が硬直した。
湖面に巻き起こる大渦は、死を連想してしまうほどに大きく、激しいものだった。
巨大な蛇の神様は、地面を押しつぶしてしまいそうな、果てしない大きさの入道雲の中に、潜り込むように消えて行った。
そして大蛇の神様がいなくなった湖に、山よりも大きな人型の泥人形が飛び込んだ。
その泥の巨人は、腰まで水に浸かりながら、湖の中心を目指してを進んでいく。
巨人は他にもいて、続々と湖の縁から現れては、湖の中へ飛び込んでいく。
僕たちを跨ぐように現れて、湖に飛び込んだ巨人もいた。
「あれも神様ですか?」
「さあ? なんだろうか」
「よくわからない者たちだ」
二匹の狼は、スッと起き上がると、湖に背を向けた。
「童よ。もう朝がやってきた」
「山を降りて、人界に帰れ」
彼らはそう言って、山を降り始めた。
僕は返事をしたあと、彼らの後をついていった。
♢♢♢
山の中は、深い霧で包まれていた。
気を抜くと、彼らの背中を見失ってしまいそうだった。
山の中は、夜とは雰囲気が一変していた。
鳥や、虫の鳴き声が山の命を感じさせてくれた。
木の葉が、風で揺れる音が安らかな気持にさせてくれた。
湿っぽい土の匂いが、なんだかよくわからない安心感を与えてくれた。
そうしている内に霧が晴れて、いつの間にか僕の目の前には、川オクリの時に通った道が現れた。
そして、二匹の狼の姿は、霧と共に消えた。
「……童よ。その道を行けば、人界に帰れる」
「もう迷い込むことなかれ。偶然助かった命。次も助かるとは限らない」
「あ、ありがとうございました」
僕は、山の奥の方から聞こえたその声に向かって、お辞儀をした。
彼ら、いや、あの神様たちがいなかったら、僕はどうなっていたのだろう。
僕は駆け足で、川沿いの道を走り抜けた。
赤い布が巻き付いたロープを超えて、村に帰ることができた。
村の中では、大人たちが僕を探してくれていた。
数時間ぶりに再会した母は、大泣きしながら僕に抱き着いた。
「よく生きて帰って来たなぁ」
「あぁ。生きて夜の山から降りてきたのは、俺は初めてみたよ」
そう言って驚いていた大人の人に、なぜ驚いているのかと聞いたことを後悔した。
ある日、上京した若者が、友人たちを連れて帰郷したそうだ。
その若者と友人たちは、夜の山で肝試しをした。
四人で山に入ったらしい。
でも、一人も生きて帰って来なかったそうだ。
一人目は、体がばらばらになって、川原に流れ着いた。
二人目は、赤い布を握り締めた右手しか見つからなかった。
三人目は、口の中にヘドロを詰め込まれて窒息死。
四人目は、山の中腹の谷底で、死んでいるのが見つかった。
それを聞いて、狼の姿をした神様の言葉を思い出した。
「偶然」
そう。僕が助かったのは、本当に偶然だったのかもしれない。
♢♢♢
僕はそのあと、お風呂に入れてもらった。
体がきれいになると、ものすごい眠気に襲われた。
お風呂から出て、客間に向かっているときに、和室に飾られた遺影が目に入った。
その遺影には、優しそうな笑顔を浮かべたお婆さんが映っていた。
そのお婆さんを初めて見たはずなのに、どこかで見たことがあるような気がした。
一歩近づいた時に、思い出した。
このお婆さんだ。
あの大きな沢蟹の甲羅。
僕は思わず腰を抜かした。
「大翔! どうしたの⁉」
和室で腰を抜かした僕を母が見つけた。
「こ、このひと……」
「このお婆ちゃん? この人は、あなたのひいお婆ちゃんよ。
……もしかして、山の中でお婆ちゃんのこと見たの?
この人もね、神隠しに遭ったのよ。
誰もお婆ちゃんを見つけられなかったの」
「えっ⁉ そうなの⁉」
僕は、母の話を聞いて、あの脅しは警告だったのかもしれないと思った。
「この村に来てはいけない」そう夢を通して、伝えてくれていたのかもしれない。
川で見たときは、「夜の川に近づいてはいけない」と言おうとしてくれたのかもしれない。
僕は、ひいおばあちゃんの遺影に手を合わせて、心の中でお礼の言葉を唱えた。
♢♢♢
あの日から月日が経って、僕は二十一歳になった。
あんなに恐ろしい体験をしたのに、僕はもう一度帰龍川村に行きたいと思っている。
でも、そう簡単に行くことは、できないみたいだ。
帰龍川村は、地図に載っていない。
帰龍川という川も、日本には存在していない。
頼みの綱である母でさえ、行けるときと行けないときがあり、ここ何年も行くことができないらしい。
まるで道が変わってしまうかのように、たどり着けなくなってしまうらしい。
あの日からずっと、あの川の夢も、ぐろはりの夢も見ていない。
それでも僕は、あの湖を、あの果てしない深淵をもう一度見たい。
短編のつもりで書いていたのですが、長くなってしまったので分割しました。
しかし分割したら、システム上、短編を四本投稿することになり、これって短編か? という疑問にぶち当たり、連載として投稿させていただきました。
四話しかないので、これで完結です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。