「夜の闇に誘う者」
僕は布団の中で、目を覚ました。
大人たちは、また宴会をしているのか、大きな笑い声が聞こえた。
一度眠りについて、体力を回復させた僕は、客間を出て長い廊下を歩いた。
たぶん母に会いに行こうとしたのだと思う。
「……おーい。おーい」
少年の声が、外から聞こえた。
「……太門?」
「……そうだよ。おれだよ」
その声の主は、確かにそう返事をした。
僕は、まだ雨戸を閉めていない窓を開けて、外を見た。
「おーい……こっち、こっち……」
太門の声は少し離れた場所から聞こえた。
「えー……。靴ないのになぁ」
僕は、こんな時間に人を呼ぶ、太門の無遠慮さに少しムカつきながら、目線を下に向けた。
そこには、誰の物かもわからないサンダルがあった。
縁側から誰かが家の中に入ったのだろうか。
僕は、太門に文句だけ言いに行こうと決めて、サンダルを勝手に借りた。
夜の庭は、意外と怖くなかった。
月明りが、街中の街灯よりも明るい気がした。
そんな僕の目の前を、一匹の蛍が飛んでいた。
「あ! ほんとにいるんだ」
僕は初めてみた蛍に吸い寄せられるように、近づいた。
初めてみた生の蛍は、思ったより地味だった。
光るコメツキムシみたいだなと思った。
「おーい……おーい……」
再び太門の呼ぶ声が聞こえた。
「そうだ。太門に、こんな時間に呼び出すなって言わなきゃ」
僕は、微妙にサイズの合わないサンダルで小走りした。
「おーい、おーい……」
その声は、川の方から聞こえた気がした。
僕は、太門が蛍を見せようと呼んでいるのだと、勝手に思い込んでいた。
「おい、太門……」
川原に降りると太門の姿はなかった。
その代わりに、一匹の狐が僕を待っていたかのように座っていた。
「きつねもいるんだ……」
僕は初めて見た狐にどきどきしながら、その姿を観察した。
狐は、僕の姿を見ると猫のような鳴き声を出しながら、川原の茂みの中へ消えてしまった。
「そうだ。太門はどこにいるんだろう」
僕は、蛍が飛び交う川原を見渡した。
そこには太門の姿はどこにもなかったが、川の中から大きな魚が飛び跳ねた。
水飛沫が飛び、魚の鱗が一瞬だけ、月明りを反射した。
「わあ。あんなに大きな魚がいるんだ」
飛び跳ねた魚は、大きめの鯉のように見えた。
僕は、「人面魚がいませんように」と祈りながら、川の中を覗き込んだ。
「えっ……」
川の中には、夢で見たあの大きな沢蟹が、夢で見た時と同じようにひっくり返っている。
あの夢と違ったのは、僕が手を伸ばすまでもなく、その沢蟹は体を反転させた。
「……うあぁ……」
そこからは、夢と同じだった。
蟹の甲羅は、老婆の顔になっていて、ひどく怒っている。
蟹の甲羅の老婆は、川の中で何かを叫ぶように激怒していた。
「うわぁぁぁぁ!」
僕は叫びながら、身をひるがえし、急いで川から離れた。
川原から離れるのに必死で、借りていたサンダルを無意識に脱ぎ捨てて走り出した。
川原から川沿いの道に戻ってくると、村の中の雰囲気が豹変していること気が付く。
蛍はいなくなり、虫の声も聞こえない。
聞こえてくるのは、大勢の人の足音だけ。
足音がする方向に顔を向けると、青白い顔をした、大勢の人たちが歩いて来ていた。
その中には大人もいるし、子供も、赤ん坊を抱いた女の人もいる。
ただ全員が、ただまっすぐに山を見つめたまま、山に向かって歩いていた。
べちゃ、べちゃ、べちゃ……
水気の多い足音が、突然僕の背後から聞こえてきた。
それと同時に、鼻が曲がるような腐敗臭がした。
「うわぁぁぁぁ!」
振り返るとそこには、人の大きさのヘドロの塊が僕のすぐ後ろにまで迫ってきていた。
「なんで……太門は、村には、ぐろはりはいないって言ってたのに……」
僕は青白い人たちと、ぐろはりに追い立てられるように走り出した。
僕は、ただまっすぐに、家を目指していたはずだった。
でも、なぜか走って逃げた先にあったのは、ロープに結びつけられた赤い布だった。
ここから先は山の中だ。
道を変えなきゃ。そう思った。
そう思って振り返ろうとした時に、あの大勢の人の足音が迫ってきていた。
強烈な腐敗臭もする。
「そうだ。ぐろはりはこの赤い布には、近づけない」
そのことを思い出した僕は、迷うことなくロープをくぐって、山の中へ入った。
僕は、ロープの側でぐろはりたちがいなくなるのを待とうと考えていた。
恐ろしい山の中ではあるけれども、このロープの近くは安全な場所だと思っていた。
「……おーい……おーい……」
なぜか、山の中から太門の声が聞こえる。
「太門、なんでここに……」
その声の主を太門だと信じて疑わなかった僕は、なんの心の準備もなしに、振り返ってしまった。
「おぉぉぉぉいぃぃぃ……」
そこにいたのは、太門ではなく狐だった。
でもただの狐ではない。
狐というには、とても平面的な顔をしていて、笑うようにむき出しになった歯は、人間のようだった。
「こおぉぉぉんンンンん……」
「うわっ! うわぁぁぁぁ!」
その狐が放つ低音の不気味な鳴き声に、僕はまた絶叫して、逃げ出した。
ロープの向こう側には戻れない。
僕は必死になって、山の中をはだしで走った。
山の中に向かうにつれて、あの嫌な腐敗臭が強くなっていく。
息が苦しくなって、木に手をついて足を止めた。
その木は泥のようにぬるぬるしていた。
「あ……ぼふぉお……ゴぼぼぼ……」
「え……」
声か、音かも判別できない何かが聞こえた。
「どっ、ぼぉぉぼう……ぼふぉ」
木だと思っていたそれは、両手を大きく広げたように見えた。
僕の鼻はより強烈な腐敗臭を嗅ぎ取った。
急いでその場から駆け出すと、すぐに何かに正面衝突した。
「ぎゃっふぅぅぶぉふぅ……」
べちゃあ! という嫌な音と共に、何かが倒れた。
夜目だけど、それが動いているのがわかる。
僕の周囲には、木に紛れるように、数体の動く何かが迫ってきていた。
そして、ついに僕の足を誰かが掴んだ。
「ああああああ!」
僕は全力で足を振って、それを振りほどいた。
「「いやあああああああああ!」」
「「きぃやぁあああああああ!」」
僕の叫びに呼応するように、ぐろはりと思われる者たちも、一斉に絶叫した。
「うあああああ!」
僕も、ぐろはりの絶叫に負けないくらいの大声で叫びながら、山の中をまた走り出す。
「「いやあああああああああ!」」
ぐろはりたちは、絶叫したまま僕の後ろをついてきた。
僕は追いかけられていると思い込んでいた。
でもそれは、たぶん違った。
ぐろはりたちも逃げ出したのだ。
木々を力強くなぎ倒す音が、聞こえ始めた。
「アグバババババババ……」
聞いたことのない獣の鳴き声が、山の中に響きわたる。
「あ、あ、あぶふゅうば……」
ぐろはりが、立ち止まった僕の横を駆け抜けていく。
ボオオオン!
それは、爆発音のようだった。
僕の横を駆け抜けたぐろはりと共に、山の木や石などが吹き飛んだ。
「アグババババババ……」
ぐろはりを山の木々ごと吹き飛ばしたのは、川オクリの時に見た、あの巨大な鹿モドキだった。
木が倒れた山の中に、月光が差し込んだ。
鹿モドキの異様な口が、月明りに照らされる。
巨大な目の下まで裂けた、ワニのような口。
ワニのような、恐竜のようなその口には、鋭い牙が並んでいるのが見えた。
なぜそんな凶悪な口が、必要なのだろう。
その答えはすぐにわかった。
鹿モドキは、目の前にいたぐろはりに素早く噛みつくと、一瞬でそれをバラバラにかみ砕いてしまった。
「「いや……ああ……ああああああああ!」」
僕の近くにいたぐろはりたちは、仲間の死を見て絶叫し、鹿モドキから逃げ出した。
「バババ……」
鹿モドキは、あの巨大な血走った目で僕を見た。
鹿モドキが、大きな口を開ける。
僕は本能的に、横に飛んだ。
それをしなかったら、僕はあのぐろはりのように、バラバラにされていただろう。
爆発音が地面を揺らす。
飛び込むように倒れた僕の背中に、はじけ飛んだ砂利などが降り注いだ。
『起きろ! 走れ!』
僕は、僕自身に向かって、心の中でそう叫んだ。
僕は、死ぬことを覚悟して立ち上がり、振り返ることなく山の中を必死に駆け抜けた。
どれくらい走ったのだろう。
それまでの人生の中で、もっとも長く、そして全力で走った。
そのうち僕は、大きな橋の橋脚のような立派な木をみつけた。
その木に影に飛び込むように隠れて、息を殺す。
破裂しそうな心臓に手を当てて、なるべく音を立てないように呼吸を整えた。
「迷い込んだか? 童よ」
「それとも狐に化かされたか? 人界の狐は、悪食だと鳥たちはいう」
突然聞こえた男女の声に、一度落ち着いたはずの心臓が再び高鳴った。
声がした方向に振り返った僕の目に映ったのは、二匹の犬……いや、狼だった。