「川オクリ」
夕方から、家の中で祖父の通夜が始まった。
その光景は、以前参加した親戚の通夜となんら変わりがないように思えた。
ただ、学校の教室のような広さの座敷にはとても驚いた。
人が数十人、入ってもまだ余裕のある広さだった。
それと通夜というわりには、とても賑やかだった。
喪服を着ている人も少なくて、もはやただの宴会のようだ。
母は、お酌と料理運びで忙しいのか、台所と座敷をしきりに行ったり来たりしていた。
「ねぇ太門。あの鹿の骨かぶってる人は何?」
お通夜には、なぜか太門も参加していた。
というより、忍び込んだのだろうか、いつの間にか家の中にいた。
当然、服装も昼間一緒に遊んだときのままである。
「あの人は『神通導師』だよ。都会にはいないのか?」
その神通導師という人は、このお通夜という名の宴会の中で、異質な存在だった。
頭にかぶった立派な雄鹿の白骨化した頭部と、白装束。
それと、首に巻かれた赤い布。
山の境目のロープや木々に結びつけられた、あの赤い布と同一のものにしか見えなかった。
「い、いないよ。その代わりお坊さんが来るんだ」
僕がお坊さんの外見を伝えると、太門は何がおかしいのか大笑いした。
ツルツルの頭という部分がおかしかったのだろうか。
だとすれば、太門の丸刈りも大差ないのだが。
僕は、この賑やかな宴会の中で、胡坐をかいたまま一言も喋らず、身動きもしない神通導師の不気味さと異質さが、恐ろしく思えた。
「ねぇ太門。この村にもぐろはりはやってくるの?」
「なんだよ。怖いのかヒロト。
大丈夫だよ。ぐろはりは、山から降りて来れないから。
そのために、赤い布をロープや木に巻いてるんだ」
そう平然と語る太門の言葉を聞いて、逆に怖くなってしまった。
昼間、川の中で見た人面魚といい、この村には得体の知れない何かが、確かに存在しているのだと確信してしまった。
♢♢♢
通夜の翌日の夕方、「川オクリ」が始まった。
村の大人の男性たちが、祖父の棺を担ぎ上げ、家の外で待機していた村人たちと合流した。
神通導師を先頭にした村人たちの行列は、夕日に照らされながら、帰龍川を沿うように山に向かって進んで行く。
「大翔。山に入ったら何があっても、声を出しちゃだめだからね。
そういう儀式だから、絶対に声を出しちゃだめだよ。絶対だからね」
「……うん。わかった」
母は異様に強く念を押した。
当時の僕は、その理由を聞くことができなかった。
昨日は、あんなに大はしゃぎしていた大人たちが、すでに一言も喋らなくなっていたからである。
二十人以上の人間がいるのに、聞こえてくるのは足音と川のせせらぎだけ。
なぜか、鳥の声や、虫の鳴き声さえも聞こえなかった。
その重苦しい空気は、山に近づいていくにつれてさらに重みを増しているように思えた。
やがて、山の近くで前方の誰かが、鎖を触っているような音が聞こえた。
僕は前後を大人に挟まれていて、前方で何が行われているのか、さっぱりわからなかった。
「ギィィィィ……」という音が聞こえると、行列は再び前に進みだした。
自分の番が近くなり、その異様な物の存在に、本能的な戦慄を覚えた。
そこには、枠だけの扉があった。
それはまるで〇ラえもんに出てくる「どこでもドア」のリアルバージョンのようにみえた。
村の大人たちは、律儀にその枠だけの扉を通って、山の中へと入っていった。
僕は「なんでこんなことをしているんだろう? 扉の横のロープをくぐればいいのに」と思うと同時に、これも儀式の一環なのだろかと考えた。
枠だけのドアを母と共に通過して、山の中へと進んで行った。
山の中は、夜の校舎の中よりも恐ろしかった。
友達と共にカブトムシを取りに行った林などとは、比べ物にならない場所だった。
まだ夕日の光があったはずなのに、なぜか山の中は青く見えるような薄暗さだった。
足元の山道には、虫も見えなければ、どこにでもいると思っていたカエルもいない。
静まりかえった山の中は、まるで誰かが息を殺して、僕たちを監視しているかのような不気味な視線を感じた。
大勢の大人たちが側にいるから、歩ける場所。
僕の脳内では、本能的な危険信号を絶えず受信し続けていた。
「早く帰りたい」と心の底からそう思った。
隣を歩く母に、「気持ちが悪くなった」とも、言えない緊張感の中で、川オクリが早く終わることを祈り続けた。
そうしている間に行列が、突然止まった。
先頭の神通導師が、川に向かって歩き出し、行列はそれに続いた。
たどり着いたそこは、ただの川原のように見えた。
僕は、光を遮っていた木々の中から抜け出すことができて、どこかほっとしていた。
夕日のぼんやりとした光を感じて、救われたかのように嬉しくなったのは、このときが初めてだった。
でも、この一時の安心感は、すぐに不安と恐怖で塗り替えられた。
神通導師が、聞いたことのない御経を唱え始めた。
テレビでも聞いたことのない御経で、むしろ御経というよりも外国の歌のようだった。
そして神通導師は、御経を唱えながら、棺を持っていた大人たちに「川に入れ」といっているかのようなジェスチャーをした。
そのジェスチャーに従い、大人たちは祖父の棺を川に流した。
「そんなことをしていいのか」と思っていた僕は、棺の奇怪な動きに恐怖を覚えた。
祖父の棺は、川の流れに逆らうように、遡上して上流へと流れて行った。
川に物を浮かべたら、流れに乗って下流へと流れて行くことくらい、小学一年生でも知っている。
祖父の棺は、この世の常識を覆して、どんどん川を遡って行った。
それを見た村の大人たちと、僕の母は「ハリタニエ、ハリタニエ……」と聞いたことのない掛け声とともに、何度もバンザイをして、祖父の棺を見送った。
僕は、母に合わせてバンザイをしながら、オカルト宗教の集会に参加してしまったような居心地の悪さを覚えた。
それに「ハリタニエ」と叫び続ける母の姿は、いつもの母とは別人のようだった。
もしかしたら、いつの間にか別人になってしまっていたのではないか、という不安を感じた。
祖父の棺が見えなくなった頃、村人たちは来た時と同じように徹底的な沈黙を守ったまま、帰路についた。
僕も列に戻ろうとしたとき、視線を感じて下流の方向に目を向けた。
「!」
思わず叫びそうになって、必死に両手で口を塞いだ。
そこには巨大な雄鹿が、川の中に立っていた。
その姿は、奈良公園にいる鹿と似ているが、どうみても、日本に生息する鹿ではない。
動物園のゾウを超える大きさの巨大すぎる鹿だった。
そしてその巨大鹿の角も巨大で、大木の枝に似た立派な角の先端は、杭のように鋭く尖っていた。
よく見ると「それ」は鹿ですらなかった。
頭の大きさに合っていない巨大な両目。
それだけでも恐ろしいのに、その鹿モドキの白目は、不気味なほどに血走っていた。
その不気味で恐ろしい目は、全身の力を吸い取られるかのような威圧感を放っていた。
恐怖で全身が硬直した僕を、親戚のおじさんが無言のまま、抱きかかえて持ち上げた。
そんな僕の姿を見ても、母も、周囲の大人たちも何も言葉を発しなかった。
僕は、おじさんの首に手をまわし、ゆっくり流れて行く地面を見つめたまま、山の中から村に帰ってきた。
「よーがまんしたなぁ。えらいのう。
山の中で騒ぐやつは、みんな、あの「川の神」に食われちまうんだ」
僕を運んでくれたおじさんは、そう言って僕の肩を叩いた。
「う、うん……」
僕の記憶は、そこで一度途切れている。