「帰龍川村」
目の前で老婆が川の中に落ちた。
僕は思わず川に駆け寄り、川底を覗き込む。
しかし、そこにいたのは、老婆ではなかった。
見たこともないほど巨大な沢蟹サワガニが、川底でひっくりかえっていた。
その大きさは、大きめの枕のようなサイズだった。
好奇心に駆られ、思わず手を伸ばした。
僕の手が沢蟹の足に触れたとき、それは一瞬で、体を反転させる。
「あ……」
その沢蟹の甲羅には、恐ろしい表情で激怒し、睨みつける老婆の顔があった。
川の底から、血走った目で睨みつけてくる老婆の顔に、恐怖で言葉を失った。
そして僕は逃げ出すように、ベッドから飛び起きた。
それは恐ろしい夢。
そんな夢を見たのは、僕が小学五年生のときのことだった。
この夢と、あの日の出来事は、いまだに忘れることができない。
♢♢♢
「大翔! 準備できた?」
母が僕の名を呼ぶ。
その日は、祖父の葬儀に向かうことになっていた。
祖父は母の父にあたる人物で、今思うと不思議なことに、僕は一度も会ったことがなかった。
母の実家は山奥にあり、関東地域に住む僕の家からは、かなりの距離があった。
そのため朝が早く、寝惚け眼をこすりながら、僕は母の車に乗った。
なぜか父は、家に残った。
僕たちを見送った父の姿を覚えている。
「なんでお父さんは一緒にいかないの?」
「……お父さんは、お仕事休めなかったのよ」
一瞬言い淀んだ母の言葉に、引っかかるものがあったが、追及はしなかった。
まだ幼かった僕は、母の言葉を鵜呑みにした。
車の中から、流れていく景色を眺める。
やがて、母の運転する車は、長いトンネルの中へと入っていった。
トンネルの中のオレンジ色の照明が、少し不気味に見えたのを覚えている。
ぼんやりとしていると、突然、腐敗の進んだ生ごみのような悪臭が漂ってきた。
思わず鼻をつまんだ。
そして、足元に目を向けると、白い小さな何かが二つあるように見えた。
そのビー玉のような白い何かに、顔を近づけたことを激しく後悔した。
それは、人の目だった。
ただまっすぐにこちらを見つめてくる瞳。
それは、闇に紛れるような、どす黒いヘドロの中に埋まっていた。
ヘドロは徐々にせり上がるように、近づいてきた。
やがてそれが、人の顔に見え始めたとき、ヘドロに穴が開いた。
それが口だとわかった。
それが笑っている顔だとわかった。
「うわぁぁぁぁ!」
僕は絶叫して、のけぞった。
「なに⁉ どうしたの⁉」
「えっ⁉」
母の声を聞いた瞬間、視界が光に包まれた。
車は、すでにトンネルを抜けていたのだ。
「い、いま……」
僕は足元に目を向けた。
そこには、ヘドロの怪人はいなかった。
先ほどまで、漂っていた腐敗臭もなくなっていた。
「怖い夢でもみた?」
「夢……? そっか。寝てたんだ」
母が笑い出したので、少し恥ずかしくなった。
しかし、それよりもあれが夢であったことのほうが、羞恥心に勝る安堵感があった。
♢♢♢
母の車は、舗装されていない山道を進み、ようやくその村にたどり着いた。
その村の名は、「帰龍川村」というらしい。
まず目に入ったのは、テレビでしか見たことのなかった、実物の棚田だった。
村の中には舗装された道もなければ、車や電柱も見当たらない。
その代わりに、いたるところにヤギがいた。
「すごいところだね」
「そうでしょう。だから若い人はみんな外へ出て行っちゃうのよ。まぁ、私も村をでた内の一人なんだけどね」
母とそんな会話をしながら、とても気になったことがあった。
それは村を分断するかのように流れる、川の存在だった。
車からみたこの村は、この川を中心に集落が広がっているように思えた。
「お母さん。この川はなんて名前の川なの?」
「村の名前と一緒よ。帰龍川。
神様のところにつながる大切な川なんだって。
夜には、蛍が見れるかもね~」
たしかにその川は、とても大切にされているようにみえた。
ごみ一つないキレイな川で、透き通るような水の中を泳ぐ魚の姿も見えた。
「さあ、着いたよ。ここがおじいちゃんの家」
その家は、木造のとても大きな家だった。
庭にいたっては、僕たち家族が住んでいた家が、何軒も入ってしまいそうな広さだった。
「はあ、よう来なさったなぁ」
軒下で野菜を並べていた老婆が、声をかけてきた。
「ただいま。お母さん」
その優しそうな老婆は、祖母であるようだった。
「ほら、大翔も挨拶して。おばあちゃんだよ」
「うん。こんにちは。はじめまして。大翔です」
「あら。あの時の赤ん坊かい。大きくなったねぇ。『川オクリ』は明日だ。それまで中でゆっくりしておいき」
祖母はそう言って、玄関に僕たちを招きいれてくれた。
「お母さん。川オクリってなに?」
「この村のお葬式のことよ。この村ではそう呼んでいるのよ」
「まあ! 佳乃さんじゃない。久しぶりね~。元気にしてた?」
「ミサさん。お久しぶりです。ご無沙汰しております。家族ともども元気、元気!」
母は、家の奥から出てきた中年女性と、親しげに話を始めた。
その声につられるように、家の奥の方から、すごい数の人が集まってきた。
「お通夜の準備で忙しいのよ~。もしよかったら手伝ってくれない?」
「わかりました。すぐ用意してきます」
母と僕は、家の一階にある客間に速足で向かった。
「大翔、お母さん忙しいから、この部屋で待っててくれる?」
「わかった」
そうして、母が出て行った客間で何をするでもなくぼんやりとしていた。
するとドタドタと廊下を走る足音が、聞こえてきた。
「よう! 都会から来たんだって? 一緒に川に遊びにいこうぜ!」
その足音の主は、たぶん当時の僕と同世代の少年だった。
丸刈りの頭に、タンクトップと半ズボンという、〇ブリ作品のト〇ロの世界から出てきたかのような出で立ちに衝撃を受けた。
「あ……うん。でも遊びに行っていいの?」
「大丈夫! 大丈夫! 行こうぜ!」
僕はその少年の背中を追って、家の外へ出た。
「タモン~! ど~こいくんだ~!」
「川!」
村のお婆さんと少年のやり取りは、彼らの日常を想像させた。
「なぁ! 名前ヒロトでいいのか?」
「うん。君の名前は?」
家から川に向かう土の道で、そんな会話をした。
「おれ? おれは太門だよ。よろしくな!」
「よろしく。太門」
川原にたどり着くと、太門は川の上流を指さした。
「ヒロト。山には入るなよ。帰って来れなくなるぞ」
「山?」
太門が指さす方向には、川とつながる山があった。
「…………」
車に乗っているときには見えなかった、その異様な光景に、言葉を失った。
その山と集落の境目には、赤い布のようなものが巻き付いたロープが、切れ目なく結びつけられていた。
その赤い布は、山の境目にある木々の枝にも狂気じみた数が結びつけられている。
さらによく見ると、「立ち入り禁止」と書かれた看板があったり、人間と見間違うようなリアルなマネキンが、数十体近く配置されていた。
「なんであんな厳重に……」
「ああでもしないと、外から来た奴が勝手に山に入るんだって。
おれたち、夜は外を出歩かないから、どんな奴らなのかしらないけど。
あと『ぐろはり』が山から降りてこないように、赤い布を巻くんだってさ」
「ぐろはりってなに?」
当時の僕は、聞いたこともない単語に戸惑ったのを覚えている。
「ぐろはり、知らないのか。
ぐろはりは、腐った人間のことだよ。
悪いことをした人間は、川にも、土にも帰れないから、ドロドロに腐ったままサマヨい続けるんだってよ~」
太門は僕を脅かすように、映画の中のゾンビのような動きを見せた。
「アハハ! あ……も、もしかしてあいつが……」
太門のコミカルな演技に笑いながら、車の中で見たあの不気味な夢のことを思い出した。
あの姿とあの嫌な臭いは、まさにぐろはりだったのではないか。
「大丈夫か? 顔真っ青だぞ?」
「うん。大丈夫……」
気分が悪くなった僕は、救いを求めるように、キレイな川の中を覗き込んだ。
「うわっ!」
川底にいた「それ」の姿を見て、驚き、尻餅をついた。
川の中には、人の顔をした不気味な魚が泳いでいたのだ。
しかもそれは、人面模様などではなく、魚の頭に人間の顔を移植したかのような奇妙さだった。
「なんだ⁉」
太門は、すぐに川底を覗き込んだ。
「なんだよ。ジンメンか。ときどきいるんだよな。夜の内に川に帰れなかった奴」
太門は明らかにそれを見慣れていた。
彼の中では、それの存在を知っていることが、常識であるかのような反応だった。