表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 藤白 幸

『無題』と同じ世界線の話です。あのとき拾われた女の子が大きくなった時のお話。

 殺伐とした空気が頬を叩いた。

 剣を振って血糊を払う。慣れた動作に迷いはなく、吐く息も震えてはいない。

 いくつもの時が流れた。決して平穏な時代ではなかった。けれども、自分はそれを憎んだことも嘆いたこともない。女の身で武器を持つ。それを不幸と|(ひが)んだこともない。

 膨らんだ胸部をサラシで潰すことも、所帯を持つ選択を捨てたことも何もかも、全ては自分で決めたことだった。康寧(こうねい)から目を逸らしたんじゃない。自らを苦境に落とし光に背を向けたんじゃない。

「命とは、尊厳だ」

 男は不可解だと言いたげに(いぶか)しんだ。対峙する女の殺気に気圧されながらも、情けなく震えた手は離れたばかりの長剣へ伸びる。

 指が触れる前に飛躍して冷や汗の滲むその横面へ蹴りを入れた。予兆のない動きにまともな受け身を取れなかった男は汚い声を上げて地面を転がる。

 追いかけてその喉元に白刃を突きつけた。

 落ち切らなかった血糊が地鉄(じがね)を伝い、襟に染みをつくる。それはまるで己の怒りを体現するように広がって、色を深くする。

「命とはそれぞれが持つ尊厳だ。誰にも犯されちゃならないものだ。誰よりも何よりも守られなきゃならないものだ。貧民でも王族でも関係ない。どれも尊ぶべきで、そこに優劣なんかつけちゃあいけないはずだろうが」

 喉が潰れそうなほどの叫びが辺り一帯に木霊した。遠くから自分を探す声が微かに聞こえてくる。ここだ、と返す余裕がなかった。ただ目の前の男が、堪らなく腹立たしくて。

 剣柄を握る手が怒りで震えるのがわかる。

「人は生まれも生き方も選べない。貧民に生まれれば貧民、王家に生まれれば王家。身分の決めた運命からは誰も逃げられない。確かに私は親なしの貧しい女だ。だけどだからって犯されていいと誰が言った。殺してもいいと誰が決めた。私の価値をお前が決めるな。それを決めるのはお前でもこの国の王でもない、この私だ」

 (ほとばし)る激情を叩きつけるように浴びせた。逆上した男の足が眼前に迫る。咄嗟に跳び退(しさ)り回避する。間髪入れずに手首を返すと、血潮(ちしお)が放物線を描いた。

 悲鳴の余韻を掻き消すように剣を振り大股で踏み込む。首を斬るまであと少し。


 


 人は平等ではない。

 貧民は王族のように豊かにはなれないし、凡人は天才の広い視野には及ばない。孤児は親の愛を知らないし、孤独を知らない者は情けの尊さを万謝できない。

 だから時に人は見失う。忘れ、迷い、取り違える。

 人が持つ尊厳は、身分や境遇に従するものではない。命の価値はその国の頂でさえ決めることは敵わない。犯されてはならなかった。脅かされていい時代なんていつだって存在しなかった。

「……どうしてそれがわからない。私はずっとわかっていた。お前たちの言う貧民の孤児だ。どうして格上のお前たちがわからない。私たちより賢いんじゃなかったのかよ」

 滲む視界も震える喉も、正し方がわからなかった。濡れたままの手を握り締め俯く。しゃっくりをあげる自分の声が疎ましい。

 泣くな。泣くな。泣くのは惨めなことだ。やり過ごせない悔しさに負けたことになる。だから泣くな。

 水分を含んだ視界に影が差した。その正体を認める前に、頭に重いものが乗る。

「お……」

「――耐えるな」

 低く響いた声が鼓膜を震わせた。

 姿を確かめるまでもない。物心つく頃からそばにいた。無愛想で素気無い育ての親だ。

 普段なら子供扱いするなと振り払うのに、持ち上げた腕を見て踏み止まった。

「……う、っ……わ、わたし、は」

 胃の奥から込み上げてきた、熱い塊。胸が詰まって、息ができない。己の中にあった正しさが、途端に揺らいでいく。

 犯されたもの。犯したこと。足掻いた末に、目の前に差し出された無情な現実。

 戦慄く体を太い腕が強引に抱き寄せた。

 奪われる体温を引き留めるように。惨憺(さんたん)たる現状から虚に奪われる意識を引き戻すように。

「いいから、今は泣いとけ。お前には、その義務がある」

「――」

 汗臭さは嫌いじゃなかった。信念と誇りを貫く、苦労の匂いだから。慣れ親しんだ落ち着く香り。歳の理由で口うるさくしていたけれど、本心では邪険に思ったことなどなかった。

 不器用な優しさを、誰より近くで見てきた。だから知っていた。本当にどうしようもなく辛いときにだけ、彼は、義父は、手を差し伸べてくれること。

 縋る弱さを教えてくれた。甘える強さを導いてくれた。だから自分は、ここまで己を貫けた。

 厚い背に腕を回し、懐かしい香りの胸に額を擦り付ける。血に濡れた手で服を掴まれても義父は何も言わなかった。

 その優しさに、また涙が溢れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ