8
「なんて気持ちがいいのかしら!」
王女宮の庭に降り立ち、その光を浴びて空気を胸いっぱいに吸い込む。花の香が鼻腔をくすぐり、目を向ければそこには真っ白な木蓮が満開を迎えていた。
「ナァオ」
背中に乗る私を振り返り、じとりと睨むルアド。
「ふふ、ごめん、呑気なこと言うなって言いたいのね」
「ニャア」
「可愛いわよ、ルアド」
「ナァア!」
びっと耳を伏せて牙を剥くルアド。可笑しくてよしよしと頭を撫でるとぷいっとそっぽを向いて歩き出した。低木の植え込みに沿って身を隠すように歩き、庭の隅に誂えられた四阿に移動する。
この時間はいつも私が庭に出て四阿で読書をするので、ルアドも人気がないのを知ってここに来たのだろう。
四阿のテーブルに飛び乗り腰を下ろしたルアドの背中から降りて、庭を見渡した。
ここから王女宮正面の馬車停まりが見える。
そよそよと吹く風を浴びながらそちらをじっと見つめていると、やがて立派な馬車と騎馬が到着した。
(アントレア王国の馬車だわ)
真っ黒な艶めく車体に金色の紋章が光る馬車には双頭の鷲が象られた紋章が光る。遠目ではっきりとは見えないけれど、この国では見ない車体に自然と目が釘付けになった。
身を乗り出すように前のめりになりじっと目を凝らすと、馬車から花束を持った背の高い人物が一人降りてきた。
黒髪に深い緑のマント。
(……あの方ね)
遠すぎて顔はよく分からない。
玄関に出てきた侍女長と何か話をし、花束を渡している。
(……すごく申し訳ないことをしているのよね)
会ったこともない異国の王女を見舞ってくれているというのに、姿も表さず玄関で侍女長と執事長が対応するなんて。今日到着したばかりの王太子を、本来は労り出迎えなければならないのに。
ぼんやりとその姿を遠くから見つめていると、隣でルアドが「ナァ」と鳴いた。
よしよしと頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らす。本当の猫みたいで、思わず笑ってしまった。
まるで他人事のような彼らの姿を遠くから眺め、春のそよ風に吹かれて私はすっかり気が緩んでしまった。
今日は朝からバタバタと忙しく、なんだかこんな姿になった朝の出来事が遠い昔のようだ。
ふと空を見上げると、白い雲がゆったりと流れている。
(……疲れたな)
色んなことが起きた。なんて一日なんだろう。
日差しと気持ちのいい風に吹かれて、段々眠くなってくる。隣のルアドもすっかり気持ちが良くなったのか、くあっと大きな欠伸をした。
ぼんやりと空を見上げていると、急に玄関のほうが騒がしくなった。
何かと思い視線を戻すと、みんながこちらを見て何かを叫んでいる。
ドキリと心臓が跳ねた。
(え、姿が見えてる?)
そんなはずはない。これだけ離れているのだ、いくら何でも見えるはずがない。
「ルアド……起きて」
隣のルアドの身体を揺すると、ルアドが眠そうな顔を上げ前方を見た。目を細めピクピクと耳を前に向ける。すると突然ルアドが立ち上がり、フーッ! と毛を逆立てた。
同時に四阿のすぐ側にある垣根がガサガサッと大きく揺れ、目の前に真っ黒な塊が飛び出してきた。
「ワン!」
「きゃあああっ!?」
犬!?
大きな黒い犬は四阿の柵を飛び込えると、ルアドに向かってもう一度吠えた。
ルアドは完全に毛を逆立て牙を剥き、犬に向かって爪を立て立ち向かう。
「ルアド!」
黒い犬はそんなルアドの反撃を華麗に躱し、地面に落ちたルアドには目もくれず、くるりと向きを変えて私を見た。
茶色の瞳とバッチリと目が合う。
(あ、まずい)
と思ったも時既に遅く。
その大きな犬は尻尾をブンブンと振ったまま、大きく口を開けて私を……パクリ、とくわえた。
その瞬間、まんまるに瞳孔を開いたルアドと目が合った。
(る、るあど!)
私の叫びは声になることはなく、そのまま黒い犬にくわえられ、四阿を飛び出しぐんぐんとすごい速さで王女宮の玄関に連れて行かれた。
(きゃあああっ!?)
目が回る! これはダグザの加護があっても無理だわ!
「レト! 止まれ!」
誰かが叫んだ。
私を咥えた黒い犬は走るスピードを緩めるとその声のする方へ向かって歩き出した。
(待って、一体誰が……)
ぐるぐると回る目をなんとか開けてそっと周囲を伺うと、真っ青な顔をした執事長とマリアが私を見下ろしていた。
(……まさか)
さあっと自分の血の気が引くのを感じた。
ここは、王女宮の玄関だ。
「これは……何を見つけてきたんだ? レト」
優しそうな声に思わず振り返りたくなるのをぐっと堪える。
(ということはやっぱり、この声はアレクシオス王太子殿下……!?)
叫び出しそうになるのをぐっと堪える。
(どうしよう、どうしたらいい!?)
犬にくわえられた私の頭をそっと撫でる手付きに、身体を固くして耐えていると、耐え切れずマリアが叫ぶように口を挟んだ。
「そっ、それは姫様のお人形です!」
「ユーリエ王女の?」
私を撫でたその手がふと動きを止めた。
ダラダラと変な汗が流れてくる。目だけを動かしマリアを見ると顔色が赤くなったり青くなったり、とにかく様子がおかしい。
(人形ね、人形のふりをするのね!)
瞬きすら我慢してじっと身体を硬直させていると、マリアはウロウロと目を泳がせながら、なんとか私を取り返そうと言葉を紡いだ。
「そ、そうでございます。子供の頃にお亡くなりになった御母上様から頂いた大切な、大切な人形でございます……っ」
「そうか。そのような大切なものが何故外に……」
「ねっ、猫に!」
「猫?」
アレクシオスの不思議そうな声に、遠くでニャア、と猫の鳴き声が応えた。
「窓を開けていたら猫がくわえて行ってしまったのです! 取り返していただいて助かりましたわ!」
「そうか、それは良かった。よくやったな、レト」
アレクシオスは黒い犬、レトの頭をよしよしと撫でると「ホラ、もう離して」と私の身体を掴んだ。
(ひいいい!)
声を上げそうになるのを必死に堪えて、視界の隅に映る真っ青なみんなの顔を見つめながら、私は人形のフリを続ける。
(お願い、早く私を離して!)
「困ったな、無理に取り上げようとすると牙が食い込んでしまうかもしれない」
「きっ、牙が!?」
マリアが聞いたことのない引き攣った声で叫んだ。執事長はもう倒れそうだ。
「……うん、申し訳ないが、とりあえずこのまま引き上げて、明日改めてお返ししてもいいだろうか」
「そっ、それは……!」
マリアの後ろに控えるロイも今にも倒れそうな顔をしている。我慢して、黙っていてロイ!
「レトのよだれで汚れてしまったしね。綺麗にしてからお返しするよ」
「そっ、それは……っ、お、……恐れ入ります……!」
(そ、そんな! 待って!)
マリアも今にも倒れそうな顔色をしている。なんとか侍女長の矜持で体面を保っているというところだろうか。
「では、ユーリエ王女が大変な時に突然失礼した。今日はこれで」
アレクシオスは挨拶をすると「レト、おいで」と、私をくわえたままのレトと共に馬車に乗り込んだ。やがてガタンと馬車が動き出す。
(どうしようどうしよう、どうしよう!)
人形のフリなんていつまでもできるはずがない。
レトは未だに私をくわえたまま離す気配がなく、段々ドレスがよだれでベタベタになってきた。
(ううう、せっかくお風呂に入ったのに!)
「レト、さあもう離して」
動き出した馬車の中でもう一度アレクシオスが手を差し出すと、レトは大人しくそれに従い、手のひらにそっと私を降ろした。
(さっき降ろしてくれたら良かったのに! どうして今なの!?)
益々身体を固くして、アレクシオスと目が合わないようにぐっと堪える。
「汚れてしまったな」
王太子はそう言うと、顔を寄せてすん、と鼻を鳴らす。
(ち、近いわ!)
「……いい香りがする。レトはこれが気に入ったのかな」
ワン! と嬉しそうに答えるレトは、私に鼻を寄せてふんふんと匂いを嗅いだ。
(くすぐったいから今はやめて!)
「ふふ、きれいなドレスを着た人形だね」
「殿下、いつから人形遊びが趣味になったんです?」
向かいの席から呆れたような声がかけられた。従者だろうか、年若いその声の人は深くため息をつくと、不満げな声を漏らした。
「婚約者となる殿下が来たというのに顔を出すこともないとは。よほど具合が悪いと見えますね」
「そういう言い方をするな。仕方ないさ、このまま顔を見ずに終わるわけはないんだ。滞在中に会えればそれでよしとしよう」
「事前調査では、特に体が弱いという話はありませんでしたが」
「タイミングが悪かったんだろう」
「だといいですがね」
不服そうな従者の声に、胸が痛む。胃も痛い。
「着いたばかりなんだ、今はこの国の文化を楽しもう」
アレクシオスはそう言うと私を膝の上に座らせるように乗せた。眼の前の従者が眉毛を寄せ訝しげに私を見下ろすのを正面から見て、必死に瞬きしないよう目を開き続ける。
「殿下、その人形はどうするつもりですか?」
「姫の大切なものらしいからね、綺麗にしてお返ししよう」
アレクシオスの言葉に、明日までの長い時間、どうしたらいいのか途方に暮れる。このまま人形のフリを続けるのだろうか。
遠くで、猫の鳴き声が聞こえた。