嫁ぎ先へ
馬車は、ひたすら走った。馭者は一名で、ひとことも口をきくことなく馬をムチ打ち続けていた。馬の扱いのあまりのひどさに、馬車内で涙を流してしまった。
窓外に流れていく景色のどれもが初めて見るものばかりだった。なぜなら、ずっと屋敷に閉じ込められていたから。
ムチでぶたれ、罵られ、働き続けていたから。
まるで馬のように。
流れ落ちる涙は、馬の為ではなく自分の為だったのかもしれない。
その罪悪感からか、馭者が休憩しているときにこっそり馬を撫でた。馬の好きそうな物をあげたかったけれど、なにも持っていない。言葉をかけるだけしか出来なかった。馬の目はやさしく、その目がじっとわたしの黒い瞳を見ている。まるで心を見透かされているようなそのつぶらな瞳に、心が痛んだ。
(このままいっしょに逃げたらどうかしら?)
この馬を連れ、とにかくどこかに逃げるのだ。
が、すぐに思い直した。
わたしにはなにもない。居場所もお金も、とにかくなにもない。そのわたしと逃げても、馬がかわいそうなだけ。
わたしの情けなさすぎる状況に関係なく旅は続く。そして、国境を越えてすぐのところで馬車は停まった。
馭者は、へとへとに疲れた馬をまたムチ打っている。帰りのことがあるからである。
静かにムチ打たれている馬を見つめている内に、頭の中でなにかがキレた。それも、唐突にである。
そう。いまのわたしにこれ以上失うものはなにもない。命でさえ、残りが少なくなっている。家族も居場所も国さえも、もうなにもない。
だったら、もういいじゃないかしら。好きなように、思うようにすればいい。
「やめてください。馬がかわいそうだわ」
「なんだって?」
馭者のムチ打つ手首をつかみ、お願いしていた。
「やめてください、と言いました。きこえませんでしたか?」
「その手を放せ……」
馭者がわたしの手を払おうとしたので、少しだけ力をこめた。
「いたたた。やめろ……」
彼と目が合った瞬間、彼の痩せ細った体がビクリと震えた。
「わかった、わかった。わかったから放してくれ……」
手を放すと、彼は逃げるようにして去って行った。
馬をムチ打つことなく。
馬車が去ると、振り返ってあらためてその屋敷を見た。
ここが、例の「呪われ将軍」の屋敷らしい。
「呪われ将軍」というふたつ名は、ダンフォード国だけでなくこの周辺の国々にも知れ渡っているらしい。
ダンフォード国の「呪われ将軍」は、冷酷非情で有名な最悪にして最強の将軍。
だれもがそう噂している。
少なくとも、お父様とお母様とお姉様はそう言っていた。
みんながそう噂しているのだと。だからこそ宰相の、ひいては王族からの命令であっても、そんな男に嫁ぐのは、ぜったいにイヤだと。
というわけで、わたしがここにやって来た。一年後の生存率がわずかにも満たないわたしが。
死ぬまでの一年間だけガマンしろ、ということらしい。
それでもまだマシかもしれない。これまでの状況よりかは。いまからのことは、過度な期待はしていない。夢も希望も抱いていない。
どうせ無視されるか顧みられないか、のはず。ああ、そうだった。そんなに冷酷非情な人物なら、ムチでぶたれて奴隷のような扱いを受けるかもしれない。
家族と認められなかったあの人たちから解放されてホッとしたのも束の間、結局状況はかわらないかもしれない。
どちらがマシでどちらがひどいのか、といったところかしら。
だけど、もともとお姉様が嫁ぐことになっている。いくら将軍でも他国の侯爵令嬢にそこまでひどいことをすれば、祖国もだまってはいないかもしれない。
いずれにせよ、これ以上失うものはない。得るものもないけれど。
あと一年、思うように生きたらいい。
と、頭で決めたはずなのに、心は怯えたまま実行に移せないでいる。
さまざまなことを想定し、ダンフォード国の辺境にある「呪われ将軍」の屋敷へと歩を進めた。