『闇喰ヒ』1.雨の憂いは春の夜が深い
『闇喰ヒ』(やみくい)
〝Dark Eaters〟
1.
雨の憂いは春の夜が深い。
もう一昨年になるだろうか。小夜の容体が急変したのは。幼くして大病を患い、いつとも知れぬ泉下の迎えに慄きながらそれでも過ごしてきた日常が破られたのは。
始めの一つは、項の小さな赤い点だった。それが一夜にして全身に広がった。
それが黒く、また中世であれば黒死病を疑うだろう。
しかし、違った。
専門医に診せても「分からない」の言ばかり。セカンドオピニオンも同じこと。
ただ、何か不可思議なことが起こっていることだけは事実だった。
細菌でもウイルスでもない、現代医学ではまったく解決できない病だった。
医師で病が治せないと、誑かす者があらわれる。ああした者の嗅覚だけは正確だ。
一巡して金を奪われたあとの終いには医師までもが宗教家をすすめる。そうした病だった。
三月ほどすると赤みは深まり肌が紫色を帯びてきた。
美しかった小夜の顔を隠すため鏡は遠ざけられ、水面の影にさえ怯えてしまった。
*
そんな少女に興味をもったのは、神戸にある茶泉記念病院の茶泉珠子理事長だった。専門は心臓血管外科だが、再生医療の権威でもある米国籍の医学博士だ。
発病から数日後、診療室ではなく特別に理事長室で、ソファーに座る小夜の黒いベールをそっと上げた。
小夜は目を伏せている。
「草津ですね」
白衣の珠子が一瞥して病名を告げた。後ろに金縁眼鏡の紳士が控えていた。
「草津?」
「符帳です」
仲間内でしか通じない隠語のことだ。
「ああ……」
小夜の父の説明で母も合点がいったようだ。医師が匙を投げる草津といえば、歌にある。
恋煩いならば、治す手立てもある。父には言わなくとも、母には言うだろうと思われたが、小夜は一向に相手の名を答えなかった。
「他にも手はありますが……」
医師とは思えない法外な報酬価格に両親は怒り、病院を後にした。
そのあとは前述通り。騙され家と金を失った。
*
ようよう自分たちが何をしたのか理解した夫婦が頭を下げたのが二年後の今日という訳だ。
指定された深夜に訪れると、珠子が提示した価格は十倍になっていた。
「どうしてそんな金額に!」
「状態は進行しています」
珠子が非情に答えた。前と同じように三つ揃いのスーツの男性が後ろにいた。
「あの時でしたら払えたかもしれませんが、今となってはもう……」
価格を冷静に受け止めながら、小夜の父は母の肩を抱いた。
耳に顔を近づけ囁いた。聞こえないが意味は誰にでも分かる。
小夜はもう自分の力で立つこともできないほど弱っていた。他に法はないのだ。
「どうなさいますか?」
「お願いします……。お金はどうにかしますので……」
「本人の意思を確認したいのですが」
母のすがる言葉を否定した。
「お任せします」
やわらかな美しい声だった。神もそれだけは残したらしい。
「お母さん、お金はいいのよ。この人はわたしの身体に興味があるのだから」
紫色になった皮膚はそれでも再生していた。見えない部分なら移植しても問題はないと考える人は多い。そうした人が望むのは、まずは生きることだ。
けれど……。
「名前は言いません。それでいいのでしたら」
「では、始めましょう」
珠子が契約書を二通だした。分厚い。三センチメートルはあるだろう。
小夜がプリントされた名前の下に署名した。
「えっ?」
小夜の母には、黒い靄のようなものが小夜の手にからんだように見えた。
瞬きすると消える。仄かな影が消えている。
珠子の後ろに控えていた男性が上着を脱いでいた。襟付のウェストコート。
「失礼。左手を」
小夜がゆっくり手をあげると、同じ左手で握った。
赤い斑模様が、ゆっくりと左手に集まっていった。
(毒を吸い取っている?)
小夜の母にはそう思えた。自然に夫の手を求め、二人が握りあった。
ハンサムが眼鏡を正したあと、ゆっくり深呼吸した。
赤い点が、小夜の手の甲に浮かんでは消えていく。
線香花火が光っては消えるようだ。
小夜の足の先から、右手の指先から赤みが消えていった。
最後の一点すら消えると、男性が倒れるように珠子の隣に腰を下ろした。
「わあ!」
小夜が立ち上がり、一回転舞ったあと、珠子と男性それぞれに深く頭を下げた。
「小夜、待ちなさい」
扉を開けて暗い廊下を裸足で走っていく小夜を母が追った。泣いている。
「アレは一体何なのですか? また、お支払いはどのように?」
父は、現実的な問いをした。
「〈闇喰ヒ〉という技法です。小夜さんの闇を――食べてしまった訳です。ただ、これは一時的なものです。闇が深ければ深いほど、またそれに対する光が必要になります。それをどう形成していくかが鍵となります。……こちらとしては契約書にある金額の十分の一を頭金に、あとは皮膚の一部をいただければ」
契約書を開いて提示した。残りの十分の九は、言うことを聞かなかった罰であり、継続的な治療(アレが治療といえるならだが)の対価だった。
ただ、支払先は〈鰭﨑音響事務所〉宛で、内容は「音響環境の調査費用として」となっていた。つまりは「黙っていろ」である。
*
小夜の父である甲谷雄一郎は山田栄建設株式会社の神戸支店長だ。あるていどなら内部留保から店長決裁で可能だった。
「よく調べてある……」
どの程度の金額があるかまで茶泉珠子は把握していたのだろう。
家や土地を手放したのは、妻の咲とその両親の目があるからだ。連れ子とはいえ、愛情がない訳ではない。ただ、勘違いしている人間が多すぎた。
親の愛情を受けなかった雄一郎には、人を愛する資格などないと考えていた。咲と結婚したのも未亡人の姿に恋したからだが、それを言うことはできない。
大手取引先の部長が偶然亡くなったのだ。自分が手を出した訳ではなかった。
ただ、咲といっしょにいたかった。それだけだった。
また、二人の子が生まれたあと、小夜に愛情を注げるか不安だったことが、子供を作らなかった一因でもある。
大のおとながみっともないが、傷ついた少年のままだった。
あれから小夜は、元気に学校に通っている。親しい友人もできたと聞いている。
仕事に熱中するあまり、茶泉記念病院のことなど忘れていたころ「鰭﨑」と名乗る人物が予約もなしにやってきた。