だけど本当は、誰よりも愛されたいのです。あなたに
あの小生意気な天使の顔を思い浮かべて、私は肩を竦めて笑ってみせる。
そりゃあもうとびきり生意気な子だけれど、聡明で優しい子。あの子がこれからたくさん様々なことを経験して、この国の次の王様になる、と考えるとドキドキしてくる。
どんなに素晴らしい王様になるんだろう! て。
「あの方が立派な次代の王となる、そのお手伝いが出来ると思うととても胸が熱くなります。……きっと母もこんな気持ちだったのだろうな、と思うとますます憎めなくて」
私が少し恥ずかしく感じながら言うと、陛下は首を傾けた。さらり、と金糸が僅かな照明の光に反射して輝くのが見える。
「そうか……私はそなたに恨まれても仕方がないようなことをしてきたのに、私の息子をそこまで愛してくれている。これは稀なる僥倖なのだろうな」
そう言われて、心がぶる、と震えた。
私はディーノ様のことを、確かに家族として愛している。陛下はそれを十分に理解して、信頼してくれているが、私が彼に恋をしていることは知らないのだ。
そして私は、王子様の応援も無視して、今この場でこの恋心を殺そうとしている。
そうしたら、心が、
嫌だ! て、大声で叫んでる。
私の、初めての本気の恋、が、叫んでいる。
「ウィレミナ?」
驚いた陛下の声が聞こえるが、私は俯くしかなかった。バルコニーの床に、ぱたぱたと涙が零れ落ちていく。
「……っ、き、です……」
「ウィレミナ、大丈夫か……」
言葉が、想いが、零れる。止められない。
「好きです……ライアン様」
ぼろぼろと瞳から涙が溢れた。
ずっと、この人の前では泣きたくなかった。あまりにも卑怯だと思っていたからだ。
涙というものは、それだけで相手を牽制してしまう。そして絵面は確実に泣かせた者が悪い、というものになってしまう。
陛下は厳しい方だが、女が泣いていて慰めずにおれる程冷たい人ではない。まして、私は契約上とはいえ彼の妻なのだ。優しい陛下が、私を放っておく筈がなかった。
でも私は慰めてなんて欲しくなかった。涙だなんて卑怯な方法で彼の口を塞いでおいて、慰められるだなんて情けなくて、施しを受けたくなかった。
第一、泣いたところで何も解決しないのだ。
かつて行かないでと懇願しても無駄だったし、今更ここにいたくないと言っても許される筈もない。
自分に望みがあるのならば、ただ泣いて無為に時間を溶かすよりも、口を使い手を使い、頭を使い、己が全てで自分の主張を通すしかない。
今までも、これからも。
私の願いと私の強さは、私が証明するしかないのだ。
「……ウィレミナ」
驚かせてしまっただろうに、陛下の声は随分と落ち着いて聞こえた。でも私は今彼に顔向け出来ない。
話の途中で突然告白しだして号泣する女なんて、恐怖でしかないだろう。あれ? ディーノ様の前でもうやっちゃったな、これ。本当に情緒不安定。
即時撤退の後、体勢を立て直す必要がある。心配いらないわ、私は強いの。皆が、知ってる通り。だから、絶対大丈夫。
「十秒ください。この涙を止めてみせます」
ぐっ、と唇に力を入れて、私はまず感情を切り離そうとする。陛下のことは好き。好きになってからずっと、彼にも私を好きになって欲しかったけど、これは過ぎた願い。
届かない願い。
ディーノ様は応援してくれたし、気持ちは伝えようと思っただけど、それだけだ。
報われたいなんだ過ぎた願いはここでさよならしなくては。
それでも、ずっと気持ちを閉じ込めているのは辛かったから、言えてよかった。
よかったのだ。
いつの間にか私の顔からは表情が抜け落ち、静かに涙が溢れているだけになっている。
「ウィレミナ、私の話を聞いてくれ」
「勿論、後でちゃんと聞きますとも」
泣きながらにっこりと笑うと、ライアン様は首を横に振った。それから私の両手を握って、その場に跪く。
「陛下!?」
ぎょっとして声を張り上げると、低い位置からこちらを見た彼が少し困ったように笑った。
「ああ、やっと涙が止まってくれた」
「あ……すみません」
「謝ることはない。そなたを泣かせたのは私の咎だ」
「そんなわけありません……」
何と言えばいいのか分からず、私は言葉を失う。驚いたけれど、未だ陛下はその場に跪いたまま。
「陛下、私はもう泣き止みましたので、どうか立ってくださ……」
「いいや、これが正式な作法だ。最初に間違えたのは、私だ。ウィレミナ」
「?」
「ウィレミナ・ブリング」
「は、はい!?」
何故か旧姓で呼ばれて、私はまた混乱した。
「そなたを愛している。どうか私と結婚して、私と恋をして欲しい」
「なっ……!?」
「虫の良い願いだとは分かっている。そんなつもりはないと思うのならば、きっぱりと断ってくれて構わない。そなたとハノーヴァ伯爵家には決して禍根を残さぬように、以前そなたが望んだ通りに、王妃の任を解くと約束しよう」
「え? え?」
私は目を白黒させてしまった。
やったー王妃解任! じゃなくて!
「陛下、私のこと好きなんですか?」
「ああ」
陛下はこくりと頷く。そんな、あっさりと!!
「ルクレツィア様のことが好きなんじゃないんですか?」
「無論彼女は家族だ、愛しているとも。ディーノと同じように」
「だ、だって、陛下はルクレツィア様のことを女性として愛しておられたのでしょう!?」
そう言うと、ライアン様は何故か目を伏せた。そこに揺蕩う感情を読もうとするが、私が混乱している所為と、彼が目を伏せている所為で読み取れない。
これはきっと、大切なことなのに。
「……ルクレツィアのことは確かにとても愛している。彼女は私の幼馴染であり、親友でもある。婚姻を結ぶずっと前から、彼女は私の大切な家族だ」
「え……えっと、恋をしてらしたんですよね……?」
「いいや。私と彼女の結婚は完全な政略結婚。互いに国の為に尽力しようという共通の目的はあったが、恋情は抱いていなかった」
口元に手をやって私が慄くと、ライアン様は安心させるように僅かに微笑んだ。
「ルクレツィアは真面目な性分で……互いに恋情を抱かぬことが、良いパートナーとして関係を構築出来ると言っていた」
でもそれはただ予防線を張られてしまったから、ライアン様は恋をする以前に気持ちを摘まれただけで、本当はルクレツィア様のことを愛したかったのでは? 妃と、恋をしたかったのでは?
何故か私の考えていることが分かったのか、陛下はまるで言い聞かせるようにゆっくりと首を横に振る。
「確かに私は、それでもルクレツィアに抱く感情が恋情なのだろうと考えていた。そなたに会うまでは」
「え……?」
私?
「ウィレミナと軽口を言い合う時や、ディーノと話しているそなたを見ている時、何も語らずただ傍にいる時……その時に私がそなたに抱く感情は確かにルクレツィアに感じていたものとは全く違う」
ぎゅっ、とまた手を握られて、私は混乱の嵐の中にいながらもその手を掴み返した。徐々に輪郭を現し始めた広がる世界、この温もりだけが、道標なのだと分かる。
「……じゃあ、もう恋をしないって言ったのは……?」
そう言うと、ライアン様は申し訳なさそうに眉を下げた。
「無理矢理連れてきて、王命として娶ろうと言うのだ……そなたから他者に恋をする権利を奪っておいて、自分が恋をすることなど出来るわけがない。……そう思っていた、ウィレミナに、恋をするまでは」
また私の目から、どんどん涙が零れていく。今度は違う意味の涙である。
「……そなたを泣かせてばかりの情けない男だが、どうか私を愛してはくれないだろうか」
「それは……」
とっくに、愛している。
愛して、いる。
泣くじゃくる私に、一度は離れていたライアン様の指先が遠慮がちに触れる。
「……抱きしめても、いいか?」
「っ、いいに決まってるでしょう! 私はあなたの妻ですよ!?」
怒鳴りつけると、瞬間、強い力で抱き寄せられた。骨が軋むぐらい強く。
でも全然痛くない。いっそ、もっと強い力でも平気なぐらいだ。どんどん近づいて、互いの境界線がなくなってしまえばいいのに。そうすれば、すれ違いも仲違いもない。
ああ、でも、それだと、私が彼を抱きしめ返すことが出来ない。
「愛している、ウィレミナ」
力強い言葉に、ますます涙が溢れた。
私の名前を、私を愛する男が呼び、愛を告げている。
本当はずっとずっと、愛されたかった。
他の誰でもない、私として、愛されたかった。
大勢の一人でもなく、特別に私を、私が愛する人に、愛されたかった。
「もう一度言ってください」
ぽつ、と呟くと、ライアン様は喉を震わせて笑った。密着している所為でその振動が伝わる。
ひょい、と脇裏に手を差し込まれ、ふわりと抱え上げられる。急に高くなった視界が怖いのと、温かい腕の中から離れてしまったことが寂しくて彼を見た。
すると、驚く程澄んだ青い瞳が星明りの下で、美しく輝いて真っ直ぐに私を射抜く。
「ウィレミナ、そなたを愛している。私の生涯をかけてそれを証明し続けよう」
欲しい言葉をくれる人。
私が両手で顔を覆うと、また抱きしめられた。
「答えは? 我が妻よ」
傲慢な男だ。この期に及んでなお、私の言葉まで欲しがる。
「言っておきますけど! 私の方が先ですからねっ」
あなたに恋をしたのは!!
ライアン様の、驚く程快活な笑い声がバルコニーに響き渡った。