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Le Gibet

作者: 一宮 集

彼の存在に。

僕は、ようやく気付いた。

左の網膜に焼きついている、一人の男。

吊られた骸骨は、僕の視線の上を当てもなく彷徨って。

何処にも落ち着くところがないように見える。

そう。

僕は、彼から逃れられない。

多分、永遠に。






「…古沢」


「はい」


「またお前だけだぞ。提出してないの」


意地悪な教師が言う。

革製の鞭を僕の咽喉元に突きつけながら。


「…提出期限は、明日って言ってたじゃないですか」


「明日だとしてもだ。他の連中はもう今日までに持ってきてるんだから」


「……」


「親父さんが死んで腑抜けになってるのは判るがな。いい加減しっかりしてくれないと」


「…でも」


僕が、口を開きかけた途端。

鋭く空を切る音がして。

左肩が、裂ける感触がした。


「教師に口答えするなんざ、百年早いんだよ」


蹲る僕に。

なおも、振るわれる鞭。

クラスメートは、くすくす笑って。

眉を顰める者すらいない。



繰り返される体罰に耐え。

両腕で、頭を庇いながら。

体が小刻みに震えてくるのが判った。

僕は、恐ろしいのだ。

怒りを露わにすることが。

そんな時。

必ず、彼が現れて。

僕を誘惑し、煽動するから。

あいつを見ろと。

俺にやらせろと。



「…何だ?」


僕が顔を上げ、教師を見つめると。

たちまち、僕は僕じゃなくなっていく。

その現象に。

僕は、抗うことが出来ない。


「何か文句でもあんのか?それとも、病気のおっかさんに言いつける気か?」


奴が得意気に、そいつを振り下ろそうとした瞬間。

体は、勝手に動き出す。

僕は咄嗟に鞭を奪い取り、奴に馬乗りになって。

その首に、二重、三重に革を巻いていく。

周囲の悲鳴と、奴の呻きが聞こえるより先に。

僕の両手は、きりきりと奴を締め上げていく。


先生の醜い顔は、みるみる紫色になって。

両手は、僕を殴ろうとするけれど。

僕が両手に力を込めていくと。

奴は、みっともなく舌を突き出し、もがいて泡を吹き、小便を漏らし始める。

その様を。

僕は、黙って見下ろしている。

やがて、その体が大きく痙攣し。

全ての動きが途絶えるまで。






はっと、気付いた時。

僕は、廊下に転がされていた。

まみれている血は、自分のもので。

あの教師のものではない。


激痛に身を震わせながらも、僕は密かに喜んだ。

今度も、僕が勝ったのだと。

彼の衝動を、僕の理性が押さえつけたのだと。





クラスメート達は、とっくにいなくなっていて。

暴力教師の姿も見当たらなかった。

美しい夕陽の差し込む廊下を、よろめきながら歩いている間も。

左目の中には、恨めしそうに僕を見詰める彼の姿があった。

あと少しだったのに。

そう、言わんばかりに。





家に帰ると。

学校から、連絡が入っていたようだった。

母親は病床を抜け出して、僕の帰りを待っていた。


「あんた、また先生に反抗的な態度取ったんだって?」


「そうじゃないよ。あれは完全に言いがかりで…」


「これ以上騒ぎを起こしたら退学だって。凄い剣幕だったわよ!」


「だから、そうじゃないって…」


僕は懸命に、事態を説明しようとしたけれど。

母親は聞いてはくれない。

頭ごなしに僕を叱り、喚き散らすだけ。


「とんだ迷惑よ」吐き捨てるように、母親は言う。「あんたなんか産むんじゃなかったわ」


「誰が、産んでくれって頼んだよ?」


「ああ、もう、そういうところまで父親そっくり。理屈っぽくて、怒りっぽくて」


髪を掻き毟ると、母親は、くるりと踵を返す。

まるで、僕なんか見たくないとでも言うように。


「お兄ちゃんやお姉ちゃんはあんなにいい子なのに。何であんたはあのろくでなしに似たんだろうね」


「……」


「とにかく、明日、先生に謝りなさいよ。あんたのせいで、何であたしが怒られなきゃならないんだか…」



―― やめろ。

やめてくれ。

それ以上言うな。


僕は、そう祈っていたけれど。

母親の罵詈雑言は止まらない。


「体が弱くて、問題児で。ほんと、どうしようもないわよね。いっそ、あの事故の時、死んでくれれば良かったのに」


母親の赤いガウンを見つめる僕の目に。

再び、彼が現れる。

左右に揺らぐ、透明なしゃれこうべ。

微かに、笑っているようにも見える。


そして。

僕はまた、自制を失いそうになる。

傍にあった果物ナイフをひっ掴むと、母親の背後に歩み寄り。

迷わず、その背中を突き刺した。

悲鳴を上げる隙もあらばこそ。

振り返ったところを、縦に切り裂くと。

鮮血が、たちまち溢れ返ってきて。

ベージュ色の直腸がこぼれ落ち、黄色い脂肪がめくれて見えた。

次に。

彼は、首を横に掻き切ろうとする。

もう二度と、誰かの悪口を言えないように。



…彼?



そこで。

僕はようやく、自分を取り戻す。

ナイフを皿の上に置き、血中のアドレナリンを呼び返し。

カーペットの上にへたりこんで、きつく目を閉じる。

これは妄想だと。

単なる願望だと。

自分の中に潜む殺意を、狂おしいまでの衝動を、必死に押し殺しながら。

そんな僕を。

彼はやはり、つまらなそうに見ている。

透明な眼窩を向けながら。

腑抜けな僕を、哂っている。






陰気な空気から逃れるように。

僕は、外へ出る。

どうして、こうなってしまったのだろう。

僕はいつから、こんな恐ろしい人間になってしまったのだろう。

お願いだから。

誰も、僕に近づかないで欲しい。

僕を怒らせないで欲しい。

もう二度と、こんな思いはしたくないから。






降り始めた雨を避けるように。

人々は、地下街へ潜っていくけれど。

それに逆行して、僕は歩き続けた。

とにかく、一人になりたくて。

近くにある公園へ向かっていたのだ。



大きな噴水の淵に。

一人の女子高生が腰掛けていた。

長い茶髪に、短いスカート。

これ見よがしに、高々と脚を組んでいる。


でも。

僕が、傍を通りかかった時。

彼女は、携帯を盛んにいじりながら。

汚らわしいものでも見たかのような視線を送ってくる。


「あのさ〜、雨降ってきたんだけど。待ち合わせ場所変えていい?」


殊更大きな声で、彼女は言う。

あからさまに、僕を睨み付けて。


「て言うか。何か〜、変なのがいんだよね。キモいんだけど。消えてって感じ」


その言葉に。

僕は耐え切れず、早足で去ろうとしたけれど。

彼女は、なおも言う。


「でもさ〜、あたしがちょっとガン見したらさ〜、マジビビってんの。逃げんの。超受ける!!」


その言葉に。

彼はまた、反応してしまう。


いけない。

こんなことぐらいで。


僕は必死に、押しとどめようとしたけれど。

体は、勝手に動いてしまう。


「え、何?こっち来たんだけど!」


彼女の驚く顔が、目前に迫ったかと思うと。

僕の手は、その肩を押して。

彼女を、水の中に突き落としていた。

それから。

長い髪の後ろから、首を掴んで。

抵抗する体を、押さえつけていた。

彼女が派手に水飛沫をあげ。

もがき、苦しむ姿を中庸に見下ろしながら。

その動きが、呼吸が、完全に止まるまで。






はっと、我に返ると。

僕は、公園のベンチに一人きり。

彼女の姿は、何処にもなかった。


また、妄想か。


僕は、安堵の溜息をついたけれど。

同時に、酷く疲れてもいた。

骸骨は相変わらず、左目の中で揺れていて。

僕がそれを実行に移さなかったことを、悔しがっているようだった。


あの事故以来。

僕はこんな妄想に、日夜悩まされていて。

自分が狂気の境にいることを、嫌でも思い知らされた。

仲の悪い友人を刺し殺し、口うるさい近所の主婦を絞め殺し。

悪態をついた幼児を突き落とし、割り込みした老婆を殴り殺し。

のちに、それが幻覚であることを知り。

そのたびに、激しい後悔と自責の念に駆られていたのだが。

もう、限界だった。




ポケットに収めた、護身用のナイフ。

僕はそれを取り出すと、手に取って眺めてみる。

思わぬ武器を前にして。

骸骨は途端にはしゃいだ。

今すぐ殺れ、と。

恨みを晴らすのだ、と。


でも。

些細なことで、すぐにかっとなる自分のことを。

抑えることに、いい加減疲れていた。

だから。

とにかく、楽になりたかった。

自由になりたかった。

憤怒とも衝動とも、無縁な世界へ行きたかった。

そして。

あの頃に戻りたかった。

無条件に、人を愛することの出来た頃に。

誰かを信じ、誰かから信じて貰えた、幼い頃に ――














「 ―― 検死結果、出ましたか」


「ああ。さっき報告を受けた。腹部の傷が致命傷だったようだ」


「つまり、事件性はないってことですね」


「まあ、そうなんだが。可哀想にな。まだ高校生だろう?」


「そうですね。父親を亡くして以来、ノイローゼだったみたいで」


「遺書代わりに残されたノート、さっき読んだけど。凄まじかったよ」


「そうらしいですね」


「自分だけ生き残ったことと、親父さんの角膜を貰ったことが、相当ショックだったらしい」


「まだ、見つかっていない方でしたか」


「そう。確か左目だ。丁寧に、えぐり取られてた方な…」

 

 

 

 

 

 


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― 新着の感想 ―
[一言] 暴力的な場面でもっと凶暴にめちゃくちゃに文章を書いたほうが面白くなりそうにおもえました。 丁寧に言葉を選んで書いているところには好感が持てました。
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