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8.Anxiety

 パチパチと音を立て、焚火が煌々と燃え上がる。

 常に新しく枯れ枝を投入し、火の勢いを保ちながら、アイシアはセリアに目を向ける。


「明日、早朝にここを発てば、昼頃にはガーランド伯爵領に到着できるでしょう」

「そうね……思ったよりも早く着きそう」

「そこは彼のおかげです。途中に、獣に出くわさなかったのも、彼の存在が牽制になったのでしょう」

「フフ…頼もしいわ。貴女が惹かれるのも無理はないわね」

「で、ですからそういうつもりではないと何度も…!」


 揶揄われ、顔を赤くする女騎士にまた笑い、セリアは焚火の火を見つめる。


 昼間は本当に、窮地だった。平気で領地を犯す帝国の兵達に囲まれ、生きた心地がしなかったのだから。

 あのまま彼らの手に堕ちていれば、使命を果たせないだけではない。令嬢として、大切に育てられてきたセリアでは想像もできないような、身の毛もよだつ悲惨な目に遭わされていたことは間違いない。

 彼の黒竜が助けてくれなければ、そうなっていたのは間違いないのだと、今更になって少し震えが蘇っていた。


「…最もガーランド伯爵を訪ねたところで、前もっての連絡をしていない時点で、すぐに門前払いされる可能性もありますが」

「そこは…着いてから考えましょう。まずはこの旅を終えてから、身の安全を確保してからです」

「そうですね…」


 予定よりも何日も早い、黒竜の手助けを受けた、結末に不安しかない旅。

 黒竜には悪いが、アイシアにとってもセリアにとっても、不穏な未来が予定よりも早まってしまったという印象があり、素直に喜ぶことができない。

 道半ばにして、無念を抱えたまま不埒者に凌辱される未来こそ回避できたが、眉間からしわが外れる事はない。


 暫く俯き、考え込んでいたアイシアが、不意に主に縋るような視線を向ける。


「……本当に、このような手段しかなかったのでしょうか」

「アイシア…?」

「民の為にその身を捧げようとしているセリア様の在り方は、貴族としてあるべき姿だと、ただの護衛に過ぎない私であっても誇らしく思います……ですが、いくら何もあの男の元に」


 これから助力を乞いに向かう、ガーランド伯爵に纏わる話を思い出し、アイシアはきつく唇を噛み締める。

 セリアも彼女が何を思い出しているのかを把握し、儚げな笑みを浮かべて目を逸らした。


 国内でも有名な、好色伯爵。

 有能で領地は大きく栄えているが、その原動力は女性で遊ぶという欲望であるとまで言われるほどの、色情狂。

 年端も行かない女児から熟した女性まで、性別が女であれば見境なく性欲の対象とし、他人のものであっても欲しがる姿勢を隠そうとしない。むしろ策略を巡らせて横取りすることも厭わない変態。

 下種と下品を絵に描いたような助平が、ガーランド伯爵という男なのだ。


 彼を憎む人の言葉を聞けば、裏で相当あくどい行為に手を染めているとも聞く。

 人身売買や違法薬物の扱い、その流通を帝国と行っているだの、昨今の帝国の侵略を莫大な金で援助しているだの、黒い噂は多岐に及ぶ。

 ただの被害妄想と断ずるには、あまりに怪しすぎる事も事実であった。


 これは、ただの噂ではない。

 限りなく真実に近いであろう、若しくは事実より優しい方かもしれない、伯爵に関する人伝のなのである。


 人の口から聞いた情報を鵜呑みにするほど、アイシアもセリアも浅はかではない。

 実際に、過去に王宮で催された貴族同士のパーティーに出席し、本人と面と向かって挨拶を交わしたことがあるからこその感想であった。


 厳つい顔を髭で覆い、大きく樽のように肥えた体を揺らす短足の男。

 自分より身分の低い者に対しては見下す姿勢を、上の身分の者に対しても自信満々な態度を崩さない、しかし実際に成果を残している高い能力を持つ、驕り高ぶった人物。

 その男は、パーティーで初めて相まみえたセリアと、護衛として共に出席したアイシアに対し、即座ににやにやと下卑た視線を向けていた。


 嫌悪感が全身を巡ったセリアであったが、どうにか表面上を取り繕い、貴族然とした態度で挨拶に応じた。

 場所をわきまえ、着慣れた甲冑ではなくドレスを纏っていたアイシアも、ぐっと歯を食い縛り、特に大きすぎる自分の胸に感じる視線に耐え続けていた。

 そういう出会いもあり、二人は巷で流れるガーランド伯爵の噂は、限りなく真実に近いものであると判断していた。


「……そうね、私が助力を乞いに行ったところで、応じる事はないかもしれない。応じたところで、どんな理不尽な要求が待っているかもわからない。あの方の噂を聞いた後では、その不安も大きいわ」

「…逃げる気は、ありませんか」

「どこへ? 私はツーベルク公爵令嬢、セリア・ツーベルクよ? 苦しむ民や父を放置して、どうして自分の幸せだけ求められるというの?」


 しかしそれを理解しながらも、セリアはこの旅を途中で投げ出すわけにはいかなかった。

 自分を待つ運命がどれだけ悲惨なものであろうと、逃げるわけにはいかない。民から税を徴収し、自分達の為だけに使うような醜い行為を働くわけにはいかない。

 それでは、民から益を搾り取り、贅を貪る事しか能がない帝国貴族と変わらないのである。


「私は貴族……爵位を受け継ぐ身ではありませんが、それでも民を守り抜く義務を持って生まれました。そんな私が、こんな形でも彼らの役に立てるのなら…こんなに幸せなことはないでしょう」

「セリア様…」


 悲痛な表情で見つめる忠臣に笑いかけ、セリアは首を横に振る。

 膝に乗せた自分の手の震えを必死に隠し、それでも大切な友人を心配させまいと、笑顔の仮面を張り付ける。

 覚悟を決めた主のその姿に、アイシアはもうかける言葉を失っていた。


 しんと会話が途切れ、重苦しい空気が漂い始めたその時。

 どさっ、と何かが落下する音が再び聞こえ、アイシアはやや呆れた顔で振り向く。


「グルル?」

「……そうやって、気配を消したまま近付かないでくれないか。気遣いはありがたいがな」


 事切れた角兎を地面に落とし、どうかしたのかというように首を傾げる黒竜に、アイシアがため息をつく。

 先ほどから姿が見えないと思っていたが、どうやら晩飯用に獲物を狩りに行ってくれていたらしい。


「ありがとう、この獲物は使わせてもらうから、貴殿は自分の腹を満たしに行くといい。……世話をかけてすまないな」

「グルルル……」


 アイシアが黒竜の首元を撫でると、黒竜は承知したと言うように唸り、影の中に沈んでいく。

 途中、ニコニコと手を振ってくるセリアにじっと視線を向けてから、黒竜は完全に闇の中にその巨体を消していった。


「…先ほどの話、彼の方も聞いていたのでしょうか」

「どうでしょう……聞いていたとしても、意味までは理解できなかったかもしれません。昼間の私のように…」

「あら、ごめんなさいね、アイシア。からかうつもりじゃなかったのよ」

「い、いえ! 私は気にしていませんので!」


 くすくすと笑うセリアにわたわたと手を振り、アイシアはまた赤くなる頬を誤魔化す。

 重苦しかった雰囲気が若干緩和されたことを確認し、セリアは黒竜が持ち込んでくれた角兎を見やった。


「では彼の方の気遣い通り、今晩のお夕食にしましょうか。野生の角兎とは、こんなに立派なのですね」

「……凄腕の猟師も時に餌食になるぐらいの、危険な動物なのですがね」


 巷ではめったに食うことのできない、貴重な食材を前にし、アイシアは内心ごくりとつばを呑む。

 わくわくと目を輝かせる主の為に、騎士となるために叩き込まれた知識と経験を思い出し、短剣を取り出したアイシアは、地面に転がる角兎の毛皮に慎重に刃を通す。


(……もし、かの竜に助けを求めたなら、彼はセリア様の為に動いてくれるだろうか)


 ふと思いついたそんな選択肢に、アイシアは即座に苦笑し候補から外す。

 お人好しなあの怪物にこれ以上何を望むのか、何も出来ない自分の無能さを棚に上げて、獣相手に何を考えているのか、と。

 少しだけ期待を抱いた自分を恥じながら、アイシアは角兎の肉に刃を滑らせるのだった。

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