10.Amorphous
「――――――‼」
べちゃっ、べちゃっ、と不定形に蠢く極彩色の何か―――液体と固体の中間のような、粘度を持った不定形の怪物が、身体の一部を手足のように伸ばして壁や地面に貼り付き、巨大な全身を前へと動かしていた。
否、それはよく見れば様々な色をした無数の何かが一塊になり、一つの生物のように蠢いているらしい。気持ちの悪い半液体の身体にはうっすらと臓器のような物が覗き、巨体が蠢く度に脈打つ様子を見せる。
赤、青、黄、緑、紫、桃、灰と同じ色がないようだが、そのどれもがどす黒く不気味な色をしていて、触るだけで恐ろしい目に遭う事が予想される。
事実、不定形の怪物の体内には人の姿が……皮膚を溶かされ、今もみるみる筋肉や骨を溶かされていく憐れな犠牲者の姿が見つかった。共に漂う汚れた布の破片から察するに、途中の道で寝転がっていた浮浪者の一人に間違いない。
「うわあああああああ‼」
「に、逃げろ!」
「助けてくれぇ‼」
最初の一人の悲鳴で叩き起こされたのか、あちこちに寝転がっていた、あるいは座り込んでいた浮浪者達が弾かれたように走り出す。
しかし、小枝のように痩せ細った身体では上手くは知れない様子で、それ以上に不定形の怪物が見た目とは裏腹にあまりにも俊敏であった為に、次々に伸ばされた半液体の腕に囚われ、呑み込まれていった。
「あ……あ、ぁ……!」
「――――!」
半透明な体の中に囚われ、藻掻き苦しむ浮浪者達だが、強力な酸で満たされた牢獄の中であっという間に溶かされ、やがて跡形もなくなってしまう。
そんな様を目の当たりにし、盗人達は皆棒立ちになったまま震え上がり、最も背の高い仲間に怯えた表情で振り向いた。
「ラ、ライアン…!」
「ちっ……予想を悪い意味で裏切りやがって。ここを離れるぞ! 固まって逃げるな、ばらばらになって走れ! 立ち止まったらそこで終わりだと思えよ‼」
ライアンと呼ばれた盗人の一人、彼らの間で上の立場を有しているらしいその者は、舌打ちをこぼしてからすぐさま仲間達に命じる。そうしてようやく、盗人達はわっと悲鳴をあげてその場から駆け出した。
「あ、あれは一体…⁉ この街にも、アサルティさんやあの蜘蛛みたいなとんでもない化け物がいたっていうんですか…⁉」
わらわらと小さな盗人達が真横を駆け抜け、街の暗闇の中に姿を隠していく様を呆然と見送り、エイダは目を見開いたまま目の前の新たな怪物を凝視する。
一応、生物の姿を保っていた二体とは全く異なり、異様としか言えない、決まった形を持たない謎しかない怪物。この世に存在するものとは思えないその姿に、恐怖よりも戸惑いが思考を占める。
「……って、見てる場合じゃないですね、これ⁉」
立ち尽くしていたエイダは慌てて、踵を返して走り出す。不定形の怪物に背を向け、一切振り向く事なく無我夢中で、怪物の魔の手が届かない場所を目指して足を動かす。
怪物は自分の体の一部を蠢かせ、顔のように盛り上がらせると、逃げ惑うエイダや小さな盗人達を睥睨するような素振りを見せる。
やがて半透明の巨体はぶるぶると震え出し、どばっと幾つにも破片に弾けるようにして分かれ、それぞれで獲物の後を追いかけ始めた。
「―――――――!」
「―――!」
「――――!」
「何なんですか、あの化け物は⁉」
叫びながら、エイダは必死の形相で夜の道を全力で疾走する。
途中に横たわる、捨てられた木箱のような者を足場にして跳躍し、建物の上へ移動してすぐさま走る。
その後を、濃い青紫色をした不定形の怪物がずるずると身体を引き摺り、追いかけてくる。それが這った跡は、体内の酸が漏れ出しているのかしゅうしゅうと不気味な色の煙を上げ、異臭を漂わせる様が目に映った。
「あ、あれは絶対に捕まってはいけない…! あんな最期は絶対に嫌です‼」
エイダはもうぼやく事も止め、とにかくこの謎しかない危険な怪物から逃れようと、走る事だけに集中する。振り向く事もせず、只管に前だけを見据えて足を動かす。
屋根を飛び越え、瓦を滑り、背後から迫る這いずる音から離れようと必死に藻掻き、汗だくになりながら荒い呼吸を繰り返す。
対する不定形の怪物もまるで速度を落とす事なく、屋根瓦や壁を溶かしながらエイダの背後に食らいつき続ける。
生物としての特徴が全く見つからない所為か、疲弊している様子は全く見当たらなかった。
「しつ……こい!」
いつまで経っても離れない怪物に、エイダは次第に苛立ちを募らせていく。
怒りのままに蹴り飛ばしてやりたくなるが、そうした瞬間触れた足が無残な有様になる事は目に見えていて、悶々とした気持ちを抱えたまま走るしかなくなる。
方向を変え、物陰や段差を利用して引き離そうと試み、その尽くが失敗に終わってさらに苛立ちが募った……その時であった。
「いやあああっ!」
ふと、エイダが走る屋根の真下から、少女の悲痛な悲鳴が響いてくる。
はっと目を見開いて振り向けば、細く狭い道の途中でへたり込む、小さな盗人の一人の姿が見つかった。
被っていた外套が脱げ、恐怖で引き攣り涙で濡れた幼い少女の貌が露わになったその前に、ずるずると濃い紅色の怪物がにじり寄っていた。
エイダはその様に息を呑み、ほんの一瞬躊躇いを抱く。
死が背後から迫り来る自分と、目の前で死に近づきつつある少女。偽善と自愛が自分の中で天秤にかけられ、自愛に重さが傾きそうになった、刹那。
「――――!」
「…! ああ、もう!」
ずばっ、と背後の怪物が体の一部を伸ばし、槍のように突き出してくる。
エイダはそれをどうにか紙一重で躱し、進行方向を真横にし、そのまま目下の地面に向かって勢いよく飛び降りる。
向かいの建物の壁を蹴りつけ、跳躍してまた反対側の壁を蹴りつけ、少しずつ減速しつつ地面に着地すると、そのまま全力で少女の元へ向かう。
エイダが少女の元へ辿りつき、走りながら胸の中に抱え込んだ直後、少女に迫っていた怪物がざばっと無数に腕を伸ばしてエイダと少女に襲い掛かる。
「―――! うぐっ⁉」
大急ぎで飛び退こうとしたエイダだったが、彼女が離れるより前に怪物の腕が背中に触れ、じゅうっと音を立てて彼女の背中に熱が走る。
衣服を容易く溶かされ、決して浅くない傷を刻まれ、エイダはその場に痛々しく倒れ込んでしまう。それでも腕の中の少女に傷をつけまいと、歯を食い縛りながら抱き締めて守る。
「うぁ…、うわああぁん…!」
「…! あぁ、どうして僕ってば……こんな状況で他人の事なんか気に掛けちゃったのかなぁ…⁉」
怪物が一度視界から消えた為か、火が着いたように泣き声を上げる少女。エイダはその声と背中の痛みに顔を顰め、自嘲気味に吐き捨てる。
他人の事など気にかけている場合ではない筈なのに、怪我を負ってまで庇うという自分でも意味の分からない行動。どこぞのお人好しの黒竜にでも影響されているのかと苦笑をこぼし、エイダはのろのろとぎこちない動きで顔を上げる。
そうした彼女の視界に、ぬるりと半液体状の貌が迫る。
うっすらと向こう側が覗いて見える、血を凝縮したような色合いの何か……それが、ゆっくりとエイダの顔に近づいてくる。
喰われる。生物の捕食とは間違いなく異なる末路を脳裏に浮かべながら、そう察して恐怖で固まるエイダと少女。
自らの顔をぼんやりと映す怪物の貌が触れるまで、あと僅かとなった―――その瞬間だった。
「グルァアアアアアアアア!!!」
ばぐんっ!と。
エイダの目の前から不定形の怪物の姿が掻き消される。
はっと息を呑んだエイダは、咄嗟に頭上を見上げ、遥か高く跳躍する夜空以上に黒く巨大な竜を凝視し、歓喜を交えた声を上げる。
「アサルティさん!」
「ガルルルルルルル!!」
名を呼ばれ、しかし一切反応する事なく、アサルティは半液体状の獲物を咥え、真っ逆さまに地面に落下する。
ずるん、と巨体が自らが生み出した影の中に潜り、一瞬で全体が消え失せる……と思いきや、すぐさま刺々しい鱗に覆われた顔が飛び出してくる。
「グルルル……ブベッ!!」
もごもごと口の中で獲物を味わっていた黒竜は、やがて顔を顰めると獲物を勢いよく吐き出し、地面に叩きつけた。
赤黒い物体を全て吐き出しても、アサルティは何度も嘔吐き口の中のものを撒き散らす。それにより唾液以外に色々と、細かい肉片や赤黒い液体が幾つも地面に飛び散った。
一方、吐き出された不定形の怪物はしばらくの間ぴくぴくと痙攣し、次第にずるずると集まって一つの塊に戻っていく。ものの数秒で、元より多少縮んだだけの姿に戻ってしまった。
「ふ、不死身ですか…⁉」
「ゴルルルル……!」
何事も無かったかのように蠢く不定形の怪物に、エイダが少女を抱えたまま引きつった声を漏らす。
アサルティはそんな彼女達を背に庇うようにしながら、鋭い目で敵を睨みつけ、今度は自分から出るのではなく相手の出方を待つ。
すると、不定形の怪物は自らの身体を縮め、発条のように弾力を使ってアサルティの方に飛び込んできた。
「アサルティさん、気をつけ―――うわぁっ⁉」
「グルル……グルアアア!!」
飛んできた怪物に、アサルティは苛立たし気に唸ると影の中から腕を抜き出し、怪物に向けて思い切り振り下ろした。
どんっ、と凄まじい音と衝撃が走り、不定形の怪物が地面に叩きつけられ、再び幾つもの破片に別れて飛び散る。一瞬で怪物は、地面や壁に染みとなって貼り付いてしまった。
「―――!」
「――――――!」
襲撃は一度だけではなかった。エイダを追い回していた青紫色のもの、他の獲物を追っていた深緑や黄土色の怪物達がやって来て、同じようにアサルティに向かって飛び掛かってきたのだ。
アサルティはそれらを睥睨すると、今度は尾を影の中から起き上がらせ、怪物達を地面や壁に叩きつけ、次々に潰していった。
轟音が立て続けに鳴り響き、辺りに大きく亀裂が入るも、エイダと少女が悲鳴をあげる事も気にせず、アサルティは襲い掛かる敵を無慈悲に葬っていく。
「イイ加減ニシロ……グルァァァ!!」
やがて、そこらに溢れていた不定形の怪物は、残らず壁と地面の染みへと化した。辺り一面が毒々しい極彩色に染められ、鼻に衝く異臭が立ち込める羽目になる。
アサルティはふん、と鼻を鳴らすと、腕と尾を上げて潰した獲物の様子を見る。
血痕のように広がって石畳の上に貼り付いた不定形の怪物だったが、それでもまだぐずぐずと蠢き、飛び散った破片と合わさろうとする様子を見せる。
「うへぇ……これだけやってまだ生きてるんですか…? 気持ち悪い……」
「グルルルル……」
アサルティの背後に隠れながら、様子を窺ったエイダが鳥肌を立たせながら産屋き、アサルティも同意するような唸り声をこぼす。
少しの間、蠢く潰れた敵を見下ろしていた黒竜は、やがて地面に口先をつけ、貼り付いた不定形の怪物を啜り始める。怪物は微かな抵抗を見せたが、アサルティから受けた衝撃が効いていたのか、次第に端からずるずると呑み込まれていく。
「……味ハ中々ダッタガ、食感ト喉越シハ最悪ダナ。モウ二度ト喰イタクナイ」
やがてアサルティは怪物達を纏めて飲み干し、ごくりと喉奥に流し込む。最後にげふっとげっぷを漏らし、気だるげに首を竦めてみせたのだった。




