エピローグ
「……明日は降るか、また外に出られそうにない」
少し、湿り気を帯びた風が肌を打ち、髪を揺らす。
流れる雲の厚さを見るに、きっと明日はひどい雨になるだろうと予想し、女は片方だけ開いた左目を細める。
長い間、部屋に閉じ込められ、ずっとベッドに寝かされていたために体全体が重い。
息苦しさしかない数日だったが、それが全て主である少女の善意による処置であるものだから、大きな声で文句も言えず、ため息ばかりがこぼれていた。
「もう大丈夫だというのに、我が主は本当に過保護だな」
「それは貴方が、体調が万全じゃないのに任務に向かおうとするからよ、アイシア」
苦笑を浮かべ、虚空を見つめていた女―――アイシアは、背後からかけられた声に思わず振り向く。
そこには主である公爵令嬢・セリアが頬を膨らませて立っていて、じろりと忠臣を責めるように見つめていた。
「セリア様……私はも、本当に大丈夫ですので」
「いいえ、まだ休んでいなければだめよ。…本当に心配したのよ、あんな場所で倒れ込んでいて」
「その…申し訳ありません」
静かな怒りを見せるセリアに、アイシアはしきりに頭を下げる。
主からの過ぎた心配に困惑するものの、こうなっても仕方がない理由について思い出し、それ以上何も言えない。
数日前、ツーベルク領だけでなくエイベルン王国全土を脅かそうとした事件が集束した直後のこと。
王国の救世主である黒竜にせめてもの礼がしたいと、アイシアが代表して、彼の元に大量の食物を持って訪れた。
しかし、向かってからいつまで経っても女騎士は戻って来ず、次第に心配になったセリアが捜しに行くと、森の中で倒れ伏す彼女の姿を見つけたのだ。
セリアは慌てて人を呼び、アイシアを屋敷に連れ帰って自室に寝かせ、大急ぎで医者を呼びつけたりし、忠臣の看病に努め続けた。
アイシアはそれから三日三晩眠り続け、ある時急に意識を取り戻した。
ある二つの点を除けば、アイシアは健康そのものであることがわかったものの、胆が冷えたセリアは彼女にしばらくの間休むよう命じ、頻繁に様子を見にやってくるようになっていた。
「本当に怖かったのよ……あの方の元に向かったあなたが、死んだように横たわっていたんだもの」
「申し訳ありません……」
「あの方までいなくなって、貴女までいなくなってしまったら、私にはもう頼れる人はいなくなるのよ。本当に……目覚めてよかったわ」
不安げに目を伏せるセリアを見ていると、アイシアにはもう何も言えない。
命を賭して、主を守るべき立場にありながら、長い間彼女を悲しませてしまった負い目が、アイシアの心を苛んでいた。
その時、不意にアイシアの腹から空腹を示す音が鳴る。
アイシアもセリアも大きく目を見開き、次いでアイシアは顔を赤く、セリアはくすくすと嗤い声をこぼす。
「も、申し訳ありません…」
「最近のあなたは、本当によく食べるわね。あの方に影響されたのかしら」
「誠に申し訳ありません……食べても食べても腹が減るのです。一体、私の身体はどうしてしまったのか…」
食べ物を求めて唸る腹部を押さえ、恥ずかしそうに頬を染めるアイシア。
永い眠りから目が覚め、最初にアイシアが求めたのは、自らの空腹を満たす事だった。
以前の彼女とは比べ物にならない量を求め、料理人が唖然とするくらいの健啖ぶりを見せた彼女は、さらな量を求めて料理人達を失神させたほどだ。
自分の本文は騎士であると考えている彼女だが、人前で腹を鳴らすという恥を見せ、平気でいられるほど女を捨ててはいない。
なのに正直すぎる自分の身体が、情けなくて仕方がなかった。
「ご飯をきちんと食べられるのはいい事よ? だけど……どうしてそんなに食べているのに、ここら辺は変わらないのかしら? 羨ましいわ…」
セリアは唇を尖らせ、アイシアの腹部を撫でる。
常人の何倍もの量を腹に収めているのに、アイシアの体型には全く変化がない。胸元や臀部の豊満さは増して見えるのに、腰周りや脚はしなやかで細いままなのだ。
アイシアはどう答えた者かと困惑し、苦笑を漏らすだけにとどまっていた。
「……ところで、その、もう一つの方は」
「……はい」
ふと、セリアが表情を変え、心配そうな眼差しをアイシアに送る。
アイシアは即座に察し、右目を―――これまでずっと閉じていた方の瞼を開く。
そこに露わになったのは、異形の眼だった。
瞳は血のように紅く、白目は星のない夜空のように真っ黒に染まっている。よく見れば、瞳孔部分は爬虫類のように縦に細く裂けているのがわかった。
「これは……流石にお医者様にも見せられませんわね」
「ええ、無用な混乱を招くだけ……いや、私を化け物扱いする者も現れるかもしれません」
「どうして、こんな事になってしまったのかしら…?」
変わり果てた忠臣の目を見つめ、悲痛な声を漏らすセリア。
常に自分を守ってくれた女騎士に起きた異変を、どうにもできない無力感に苛まれているようだ。
一方でアイシアは、ある可能性を脳裏に思い浮かべて黙り込む。
おそらくは、自身に起きている異常の原因であろう存在に―――自分や主の恩人でもある、一体の巨大で凶悪な怪物の事を。
(根拠はない…だが、やはり彼が何かしら関わっている事は間違いないのだ。気になると言えば気になるが……)
別段、困っている事は何もない。
人前で右目を見せられなくなったが、眼帯をつけて怪我をしたと誤魔化せばいいだろう。空腹感についても、今はそこまで困っているわけではない。
しかしそれでも、謎を謎のまま終わらせておくことは、できそうになかった。
(貴殿は……今、どこで何をしているんだ…?)
姿の見えない、闇の世界に住まう怪物のことを想い、アイシアは深くため息をつく。
その眼差しが、どこか熱を孕んだ潤んだものとなっている事に気付く者は、誰もいなかった―――。




