4.Monster
「くっ…! おのれ、帝国の卑怯者共め…!」
切り裂かれた片腕を押さえ、それでも家宝である宝剣を手放さず、女騎士アイシアは自分と主を取り囲む醜悪な顔つきの男達を睨みつける。
傷口から垂れた血が足元に血溜を作り、ズキズキとした痛みが意識を引きはがそうとするが、背後で怯えた表情を見せる主の姿を目にし、表情を改める。
「アイシア…!」
「大丈夫です、セリア様。この程度の傷……それにあのような雑兵集団、私の敵ではありません」
不安げな主、セリア・ツーベルク公爵令嬢を宥めながら、アイシアは下卑た笑みで見つめてくる黒い鎧の男達を見据える。
二人を取り囲む兵士達―――大陸で最も勢力を増している帝国の精鋭達は、圧倒的に不利な状況にありながら怯む様子のないアイシアと、怯えて震えるセリアを愉しげに見つめる。
二人とも美しい容姿をしているため、下賤な思考をした兵士達には垂涎の獲物であった。
「へへへへ…威勢がいいなぁ、騎士様よ。だがもうどうしようもないぜ? お仲間はみ~んな死んじまったんだからなぁ?」
「そうそう、これ以上怪我したくなけりゃ、大人しく剣を捨てた方がいいぜ? その邪魔な鎧と服を剥いだら、可愛がってやるからよぉ? げひゃひゃひゃ!」
「くっ……外道が!」
鎧を着ていてもわかるほど、自己主張の激しい自分や主の肉体をじろじろと不躾にみられ、嫌悪感に顔を歪めるアイシア。
自分と彼女に課された役目の重要さは勿論、こんな悪意に満ちた連中に好き勝手されるような最悪の未来は、断固としても拒否したかった。
「貴様らにくれてやるものは何一つとしてない! 貴様らのような下種には特にな!」
「言ってくれるじゃねぇか……だがまぁ、お前が何と言おうと、俺達はお前らを適当に甚振って、取っ捕まえて連れていくだけだけどな!」
「その前に存分に楽しませてもらうがな!」
「隊長~、俺あっちの嬢ちゃんがいい!」
「馬鹿野郎、そこはあの澄ました顔した女の方だろ!? あの面を泣き顔にしてやるんだよ!」
兵士達はもはや、美女達を我がものにしたと考えてか、全く臆することなく距離を詰めてくる。
味方が斃れ、逃げ場もない絶体絶命の状況下を理解しているアイシアは、遠慮なく近づいてくる帝国の兵士達の前で歯を食い縛る。
忠実な護衛にして長く時を共にしてきた友人であるアイシアに庇われたまま、セリアはきつく瞼を閉じ、震える事しかできずにいた。
(ごめんなさい、お父様……私は、託されたお役目を果たせないかもしれません……!)
脳裏に過る、心労で痩せ細った父の顔。彼を悩ませる原因を取り払いたくて、危険を承知でここまでやってきた。
だが、その願いがこんな道半ばで、しかもこのような受け入れがたい結末を迎えようとしているなど、覚悟をしていても信じがたかった。
「がははは! じゃあお前ら、お待ちかねのお楽しみの時間だぁ!!」
「うおおおおお!!」
一歩も動けず、睨みつける事しかできない女騎士と令嬢に、兵士達はまるで餌を前にした飢えた犬のように殺到していく。涎を垂らし、目を血走らせたその顔は、人間とは思えないほどに醜悪だ。
ここまでか、とアイシアはぎりりと歯を噛みしめ、せめて一人二人は道連れに、できるなら自分の命と引き換えに主だけでも守ってみせると剣を振り上げる。
そう、決死の覚悟を決めた時だった。
もっとも前、アイシア達に最も近い場所にまで近づいていた兵士の一人が、唐突に消え失せたのだ。
「…え?」
「あ?」
何の前触れもなく消失した仲間に、目の前から消失した敵の姿に。
アイシアは勿論、他の兵士達はぽかんと呆け、思わず状況も忘れてその場に立ち尽くす。
そして彼らは気づいた。
消えた仲間の代わりにそこに姿を現した、巨大な黒い何かの存在に。
「……何だ、こいつは」
そこにいたのは、まるで闇そのものでできたように思えるほどに黒い竜だった。
全身をびっしりと覆った鱗は、その全てが刃物のように鋭く。頭や背、いたるところから生えた角のような突起は槍のよう。口の中に並ぶ牙も、その全てが刃のごとき輝きを放つ。
加えて肉体の大きさも人や馬を丸のみにできそうなほどで、一見しただけでは全体が把握できない。
もっとも異様に見えるのは、その肉体の大半が地面の中に消えているということ。
否、地面に広がった影の中に肉体が入っているのだと、竜の姿を凝視した者は気づき、驚愕と困惑に立ち尽くす。
あまりにも異質。あまりにも異常。
見たことも聞いたこともない異形の出現を目の当たりにし、帝国の兵士達はぽかんと口を開けて呆けてしまう。
それが、彼らの命運を完全に決してしまった。
「ゴァアアアア!!」
ぎろり、と赤い血のような目を向けた竜が、大気を震わせるような咆哮を上げ、大きく口を開けて帝国の兵士達に迫る。
巨体に似合わぬ素早さで向かってくる怪物を前に、兵士達は咄嗟に動く事ができず、瞬く間に二人が大あごの中に飲み込まれ、噛み潰される。
ごきばきぼきっ、と骨と肉が砕ける音が辺りに響き渡ってようやく、兵士達は我に返った。
何もわからぬままの方が、幸せだったかもしれないのに。
「ぎっ―――ぎゃああああ!!」
「何だこいつ……ぐああ!!」
噛み潰された仲間が、バラバラの破片にされて地面にぶちまけられる光景を目にし、他の兵士が剣や槍を構えて竜に向き直る。
だが、その時には既に竜の姿は消え失せ、自分達の荒い呼吸だけが聞こえる静寂に包まれていた。
「ど…どこ行った…!?」
「ばらばらになるな! どこから出てくるかわからんぞ!」
「円陣を組めぇ!!」
慌てて辺りを見渡して竜の姿を探すが、あれだけの巨体を見つける事が叶わず、焦りで顔中に汗が浮かぶ。
目がダメならば耳で探そうと、息を殺した兵士達は辺りの音を探る。が、それでも全く痕跡すら捕らえられず、彼らの心臓は早鐘のように脈動し続けていた。
「ど、どこだ……どこにいる!?」
「あっ―――」
きょろきょろと辺りを見渡し、目を血走らせて竜の姿を探す兵士達。
すると、隣にいた仲間が小さな声を残して消え、ガサッと草が擦れる音だけが響く。慌てて振り向くも、そこには何も無い地面があるだけ。
「おい! おい! 何が起きてる!? 返事をしろ!」
「ギャッ―――」
「ガッ……」
消えた仲間の姿を探しつつ、黒竜がどこにいるかを探ろうとするも、わかるのはまた別の仲間が次々に消え失せている事だけ。
冷静さを保とうとするが、絶えず聞こえてくる断末魔の声と、一瞬聞こえる肉が裂けるような音が、兵士達の心を搔き乱す。次は誰だ、どこだ、今度こそ自分か、と恐怖感が湧きあがり、とても正気ではいられなくなる。
「う…うわあああ―――ギャッ」
「に、逃げ―――アッ!」
とうとう我を見失い、その場からの逃走を始める者も表れたが、走り出すよりも先にその姿が消え、びちゃっと血飛沫だけが残される。
あっという間に、十数人いたはずの兵士達は、たった一人を残して忽然と姿を消してしまっていた。
「ち…ちくしょう…ちくしょう…!」
ガチャガチャと、身体の震えが鎧に伝わり、情けない音と声が漏れ出る。
残った一人はあちこちを見渡し、消えてしまった仲間の姿を探して涙を流す。つい数秒前までともにいて、これまでともに言葉を交わしてきた者達がいなくなったことが信じられず、ひたすらに痕跡を探して狼狽をあらわにする。
ふと、彼は気づく。
これだけの人数が姿を消しているのに、当初の狙いであった令嬢と女騎士が、未だ無傷のまま同じ位置に生き残っていることに。
「て…てめぇらが…! てめぇらの仕業か、このクソアマ共がぁぁ!!」
「っ! セリア様っ…!」
「アイシア!」
生き残った兵士には、もう彼女達こそがこの惨状を生み出した元凶に見えた。
襲い来る黒竜のことなど一切考えず、憎い仇敵へと変わった二人の美女に向けて剣を振りかぶり、突進する。
血走った目で自身らを見据え、怒号と共に向かってくる兵士に、アイシアがセリアの前に立ちはだかる。
殺意を力に変え、尋常でない加速を見せた兵士の剣が、女騎士の掲げた剣を叩き折り、脳天に振り下ろされようとしたその時。
女騎士の真下の影から顔を出し、顔を横に倒した黒竜が、兵士の上半身を剣ごと呑み込んでいた。
「アッ―――」
暗く血生臭い、竜の咢の中へと入り込んだ兵士は、一瞬にして消えた殺意に戸惑いながら。
意識を永遠に手放した。