22.Aggression
(……恐ろしく暇だな)
塀の中の日陰に伏せ、〝それ〟はふと思う。
周りにはやたらと引き攣った顔の兵士達がいて、槍を構えたまま自分を油断なく凝視しているが、然したる脅威とも思えず好きにさせている。
女性と少女を運んできて、自分を見ながら何か怒鳴りつけている兵士達を見て、邪魔をする者なら叩きのめして食い殺してやろうかと思ったところに、女性達が突如全身で伏せだした。
これは自分もしなければならない流れかと思い、取りあえず似たように体を伏せてみたところ、兵士達も大人しくなり、槍も下げたので正解とわかった。
兵士達は女性達を何処かへと連れて行き、〝それ〟のみがこの場所に残された。
それからもう数十分か小一時間、〝それ〟はほったらかしにされていたのだ。
(敵意のようなものは薄れたから手出しはしなかったが……何の話をしているのだろうな。向こうで妙な事になっていなければいいが……いや、そもそも俺はなぜこんな事を気にしているのか)
ただ単に、食しても誰も困らないような獲物を食せる機会を得られると思って、女性達をここまで遥々送り届けに来たつもりだった。
しかし、辿り着いたこの場を見渡しても、それらしい獲物は見当たらない。
警戒し槍を突きつけてくる兵士達に対し、女性達は立ち向かうどころか頭を下げ、何かを懇願していた様子。そんな相手を捕食するわけにはいかず、黙って女性達の好きにさせるしかなかった。
(たらふく獲物にありつけるかと思ったのにこれとは、当てが外れたか?)
これならあの後、さっさと森にでも戻り、獲物を求めて流離う日々を再開した方がましだったかもしれないと、〝それ〟は自分の選択を後悔する。
こうなったら、そこらにいる兵士達を口にして空いた腹を満たそうかと目を向ければ、ざわっとどよめいた兵士達が槍を向けてくる。
本気でそうしようかと考えた〝それ〟だったが、やがてその考えを引っ込め、空腹を誤魔化すように瞼を閉じた。
(いや、そんなことをすればこれまで我慢してきた意味がなくなる。俺は獣とは違うのだ。本能のままに目の前のものに襲い掛かるような事は……大分してきたが、二度も同じ過ちは犯すまい)
揺らぎかける自分の中の欲をどうにか抑え込み、〝それ〟はひたすら耐え続ける。
だが次第に、腹の奥に空いた隙間が広がり、それを埋めたいという欲求が膨れ上がってきた。
(ああ、なんて融通が利かないんだ、この身体は……小一時間も我慢する事ができないのか? これなら途中に遭遇した獲物を喰っておけばよかった。どれだけ食ったら真に満たされるのだ、この我儘な体は…!?)
胃の腑が訴える空腹の信号が、痛みに変換されてそれを責め苛む。丸一日絶食したかのような感覚に陥り、思考までもが徐々に鈍り始める。
せっかく抱いた我慢も砂の城のように崩れ出し、苛立ちで低い唸り声が口から漏れ出る。
兵士達が怯えたように後退っている事も知らず、〝それ〟はせめて視界に何も入らないようにしながら、必死に自分の中の欲望と戦い続けた。
が、そんな自分への抗いも、長くは続きそうになかった。
(ああ…だめだ、頭がうまく働かん。一体俺は何だというのだ…なぜこんなにも節操がない。なぜこんなにも欲望に忠実だというのに、余計な感情がくっついている。ただの獣、化け物に必要のないもののはずなのに)
ぐるぐると思考が渦を巻き、次第に〝それ〟から冷静さが失われていく。
思考はひたすらに食うことにのみ集中され、それ以外の優先順位があっという間に下がっていく……いや、そもそも思考から外される。
だらだらと口の端からは涎が溢れ出し、滴り落ちて真下に池を作っていく。
一度限界を超えた直後を経験したためか、以前よりは堪える事ができている。
しかし、それも焼け石に水と言った些細なもの。理性の鎖はあっという間に本能に覆い尽くされ、食い尽くされようとしていた。
(そもそも俺はなぜ我慢している? なぜあの女性達に気を遣っている? 獣ではない? いや獣だろう? 好きに食って好きに腹を満たして何が悪い? 食う獲物を選り好みする必要があるのか? 獲物ならそこら中に棒立ちになっている奴らがいるだろう? 何故だ? 何故だ? 何故食ってはならん?)
苛立たし気に、置かれた自分の爪が地面を引っ掻き、溝を刻む。投げ出された尾もびたんびたんと地面を叩き、何の意味もない行為を繰り返しさらに不満が募る。
がりがりゴリゴリと理性が削られていき、残りあともう僅かとなり始める。
周りで何やら、駆け込んできた兵士が叫び、他の兵士達にも動揺が広がってさあ河しくなり始めるが、最早そんなことも気にならない。いや、そもそも興味がわかない。
〝それ〟に対して警戒を向ける事も忘れ、ばたばたとあちこちに駆け回り始めているが、〝それ〟はもう見てもいない。
―――そんな事、もうどうでもいいか。
ぷつ、ぷつと糸が切れていくような感覚がして、必死に本能を抑えつけていたことも忘れ、欲が求めるままに体が動き出していく。
その時だった。
〝それ〟の本能を刺激する、大量で濃密な気配が漂い始めた。
(…! 何だ、この感覚は…?)
思考がわずかに澄み、膨れ上がっていた食欲がほんの少しだけ抑えられる。何故かを考える余裕もないまま、〝それ〟の宿す特殊な嗅覚が強く働き始める。
その気配は、一度〝それ〟が感じ取ったことのある種類のものだった。
追い詰めた弱者に対し、空腹を満たす為でなくただ甚振り愉しむために囲い、力を揮おうとするような気配。生物の本能ではなく、個人的な好みで害をなそうとする、吐き気を催す感情。
あの女性と少女にも向けられていたことのある、他者を踏みにじるためでしかない胸糞の悪い悪意に満ちた気配だ。
〝それ〟が目を覚まして初めて抱いた、〝それ〟の欲と望みを全否定するかのようなその気配が、それはもう大量に流れ込んでくる。
気づいたその直後、〝それ〟はゆっくりと体を起こし、動き出していた。
△▼△▼△▼△▼△
「訓練中の兵、非番の兵も全員集めろ! 迅速にだ!!」
「装備の用意を急がせろ! 一刻も早く!」
ガシャガシャと鎧を鳴らし、兵士達が慌てた様子で王城内を駆けていく。
全員、焦りと狼狽で表情を引き攣らせ、ばたばたと騒がしく走り回っている。彼らが口々に叫ぶ声が重なり、室内にいてもそれが聞こえていた。
「……もう、始まってしまったのですね」
客室の窓際に立ち、慌ただしく駆け回る兵士達を見下ろしていたセリアが小さく呟く。
旅の疲れと、精神的疲労を癒すようにと案内されたこの部屋に来て小一時間。
無駄に胸元も脚も露出していない、きちんとした格好の侍女達に入れて貰った飲み物で喉の渇きを癒し、一息ついていた時に聞こえてきた喧騒。
何事か、と聞き耳を立てていた彼女は、彼らが口にする情報で、全てを理解してしまった。
「…セリア様!」
虚ろな表情で立ち尽くすセリアは、やがて部屋の外から聞こえてきたけたたましい足音に振り向く。
バンッ、と勢いよく開かれた扉の向こう飛び込んできたアイシアに、セリアはフッと渇いた笑みを浮かべて出迎えた。
「アイシア……陛下とのお話はもう終わったの?」
「え? あ、いいえ…それどころではなくなりましたので……ああ、いえ! セリア様がお気になさることではありませんが!」
「いいのよ、アイシア。もう、全部わかっているから…」
静かな声で告げるセリアに、アイシアはグッと言葉に詰まり、目を逸らす。
隠し事のできない、全てが態度に出てしまう忠臣の悲しげな姿に、セリアは自嘲気味にため息をつく。
「…ツーベルクに、帝国が来ているのね」
「はい……おそらく私達がガーランドの屋敷を出た時点で、動き出していたものかと」
「そう…そういうことだったのね。私達の働きは……何もかもが遅すぎた、そう言う事だったのね」
今のセリアの中に渦巻いているのは、激しい無力感。
二人の臣下の命を散らさせ、苦難を偶然で乗り越え、ようやくたどり着いた真実とこの場所であるが、それらが全て無駄に終わったかのように思えて、やるせなくなる。
そんな主の姿を見ていられず、アイシアも自分の不甲斐なさに歯噛みするばかり。
(あの男の思惑に……卑劣な思考を予測できなかった私の落ち度だ。何が専属護衛だ、この方の身体を守る事ばかり気にして、この方の願いを聞き届ける事もできなかった)
もっとうまい方法はなかったのか、もっとできる事はなかったのか。
二人してそんなことばかり考えてしまい、只々重いため息ばかりがこぼれてしまう。
加えて、アイシアの脳裏にはあの黒竜の事も浮かぶ。
幾度もアイシア達の窮地を救い、この地まで守り続け、送り届けてくれた異形の者。何一つ例もできないまま、他者に頼る事しかできずにいるアイシアとは異なり、確かな結果を残している怪物。
そんな彼に対し、向けられる疑念を解消できず、挙句の果てに暗に排除を命じられる始末。
情けなくて、申し訳なくて、今あの黒竜に顔向けできる気が、全くしていなかった。
(私などとは違い、多くの事を成してみせた彼の立場を守る事もできやしない……何という、役立たずな人間なのだ、私は…!)
重い沈黙が降り、その場に立ち尽くすアイシアと、まだ窓の外に目をやるセリア。
一言も発さないまま、目を合わせる事もなく、外から聞こえてくる兵士達の声を耳にし、時間だけが過ぎていく。
やがて、セリアがアイシアの方へ振り向く。
渇き切った枯れ花のような、儚げな笑みを湛え、セリアは弱々しい声で告げる。
「…アイシア、帰りましょう」
「え…!? そ、それは、どういう意味で…」
「言葉通りの意味よ……ツーベルクに、お父様たちのいるあの地へ戻ると言ったの」
アイシアな大きく目を見開き、セリアの言葉に、それが意味する意思に絶句する。
今まさに戦場となろうとしている地に帰るなど、自ら命を投げ出そうとしている事と同じ。
いや、死ぬだけならまだしも、悪逆非道で知られる帝国兵が無数に集う地に向かうという事が、どれだけ凄惨な未来に直面するか。
見目麗しい、由緒正しき公爵家令嬢であるセリアがどんな目に遭わされるかなど、想像に難くない。
「お気を確かに! 自棄になった所で、誰一人救われは……」
「自棄じゃないわ…もう、そうする事しか私にできる事はないと思った、それだけの話よ」
必死に主の無謀を止めようと説得を試みるアイシアだが、詰め寄ってくる女騎士を前にしても、セリアの表情に変わりはない。
確かに、自暴自棄になった様子はない。いたって冷静なまま、しかし同時に全てを投げ出すような表情で、自らの決定を口にする。アイシアにはそれは、諦めに似た感情に見えた。
言葉を失くす忠臣に、セリアは苦笑を見せながら言葉を続けた。
「私はね、アイシア…私がこの旅で犠牲になることで、誰も傷付かなければいいと思っていたの。お父様も民も、ガーランド伯爵も、そしてあなたやあなたの仲間もみんな、誰一人いなくなる事はないと思っていたの……馬鹿な話よね、そんなの有り得ないのに」
「セリア様…」
「私は人の悪意に疎すぎたわ……本当に悪いのが誰かも考えずに、言い様に利用されようとしていただけだった。その所為で、こうやって何人もが犠牲になろうとしている」
「それは……あなたの所為では」
自責の念に囚われる主を説こうと、アイシアが彼女の目を見つめるも、セリアは首を横に振る。すでに気持ちは決まってしまっているようで、一言も聞き入れようとしない。
セリアは再び窓の外を見やり、美しく広がる城下町を眺めため息をつく。
きっと帝国軍は瞬く間に、ツーベルク領を蹂躙し、さらにこの王都を目指して突き進んでくるだろう。
道端に生えた野花を気にせず踏み潰すように、何の躊躇いもなく、病で弱り切ったツーベルクの民を蹂躙し、金と女を奪い取り、肥えた腹をさらに膨らませて向かってくるだろう。
その進軍を、果たしてエイベルン軍はどれだけ押し返せるだろうか。
つい先ほど知らせを受けただけで、迎撃の準備などまったくできていない無防備な状態。敵が王都に辿り着かれる前に出陣できたとしても、ツーベルク領が戦場になる事は避けられない。
そうなる前にここへ急ぎやって来たというのに、全てが無駄になってしまったのだ。
今にも消え入りそうな、主の悲痛な姿を見てしまったアイシアは、もう彼女に対して何も言う事ができなくなってしまった。
「私にできることはもう……なにもないわ。できる事と言えば、自分で最期を決めることぐらい。帝国兵に純潔を犯されるぐらいなら、故郷の地で自ら命を絶つわ」
セリアはそう告げ、遠い森と山々の向こう、ツーベルク領の方角を見据える。
アイシアがどれだけ反対しようとも、苦しむ民たちの元に戻り、最後を彼らと共にすると確定している様子である。
アイシアはもう、否定の言葉を口にすることはできなくなっていた。
「…最期まで、お供いたします」
「…ありがとう、アイシア」
困ったような顔で微笑みかけるセリアに、アイシアは彼女に見えないように唇を噛む。
本音を言えば、たとえ恨まれてでも彼女をここに縛り付けるか、帝国兵の手も届かないような地に連れ去ってしまいたい。主の意志を踏みにじってでも、死なせたくない。
血筋を守るためではなく、敬愛する主人として最後まで守り抜きたいと思っていた。
だがアイシアは、自分の手ではそんなことは叶えられない事をわかっていた。非力な自分を自覚したまま、無茶を最後まで通せる自信など、一切ありはしなかった。
(…彼の背を借りれば、そんな未来もかなうのだろうか)
ふと脳裏に浮かんだ考えに、アイシアは深く自己嫌悪を抱く。
この期に及んでまだ他人に力を借りる気になっている自分の浅はかさに、吐き気を催すくらいだった。
(いずれにせよ、私にできる事も何一つとしてない。セリア様への義も、侯爵様への恩も、そして彼への借りも、何一つ返せないまま……それなのに潔よい最期を求めるとは、私も相当に強欲だな)
暗い表情でアイシアが俯いていると、セリアが小さくため息をつき、客室の出入り口に向かって歩き始める。宣言通り、戦地となり果てる故郷へ帰るためだ。
「帰る前に…一度陛下にご挨拶をしておくべきかしら。でも…今はきっと、お忙しいでしょうね」
「…私達の意志を聞けば、お引き留めになると思います。ここは何も言わず……王都を去るべきかと」
「そうね……そうなるでしょうね」
アイシアの考えを肯定し、セリアは一度申し訳なさそうに、視線を王城の奥、玉座の間がある方角へ向ける。
一貴族の令嬢として、最も位の高い存在である国王に一言も言えないまま去る事を心の中で謝罪しつつ、意志を変えぬまま外に向かって歩き出す。
このまま何事もなく、城の外まで出ていくことができるだろうか。
途中で止められる事だけはないように、とアイシアとセリアが祈り、客室の扉に手をかける、その時だった。
「グルルルルルルル……!」
突如、窓の外から聞こえてきた聞き覚えのある唸り声に、アイシア達はハッと目を見開く。
振り向いた二人は急いで部屋に戻り、窓から身を乗り出すと、声の主を探して辺りを見渡し、そしてまた目を見開く。
王城の入り口で横になっていたはずの、怪物。
城内に案内されるアイシアとセリアを見送り、そのまま大人しく沈黙していたはずの黒竜が、酷く不機嫌そうに顔を歪め、体を起こしている姿が目に入った。
多くの兵達に囲まれながら、それを全く意に介せず、虚空を睨みつけて牙を剥き出しにしていたのだ。
「ど、どうしたのでしょうか…?」
訝し気に黒竜を見やり、困惑した声を上げるセリア。
黒竜が見ている方角、その先にあるものを考えていたアイシアは、やがてある可能性に思い至り、顔から血の気を引かせて息を呑んだ。
「まさか……待て!!」
「グオルルルルルル!!!」
気づいたアイシアが叫ぶのとほぼ同時に、黒竜は巨大な咆哮を上げて立ち上がり、四つん這いで駆け出す。
驚いた兵士達が慌てて左右に避け、腰を抜かすのを放置し、黒竜は王城の塀に向かって、頭から真っすぐに突っ込んでいく。
激突する、と周りの兵士達から悲鳴のような声が上がる。
だが、黒竜は塀にできた自らの影に潜り、鼻先から触れた瞬間から壁をすり抜け、あっという間に全身が壁の向こう側に消えていく。
「ゴルルルルルル!!」
呆け、我を失って硬直する兵士達。
黒竜はそれをすべて無視し、再び強烈な咆哮を上げて影の中に飛び込み、どこへともなく、その巨体を消してしまったのだった。




