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1.Awakening

 ゆっくりと、深く、深く沈んでいく感覚がする。

 一切の光も音もない、ただ自分がそこにある事だけがわかる奇妙な世界で、〝それ〟は目覚めた。


 瞼を開くものの、開かれた視界に変化はない。墨を何度も塗り重ねたような黒の世界が広がるばかりで、全く変化が見受けられない。

 そんな世界を凝視したそれは、何度も自身の正気を確かめるように目を瞬かせた。


(……何だ、これは?)


 最初に抱いた感想はそれで、続いて自身の違和感に気付く。

 腕は、ある。正確には、腕に該当する器官の感覚がある。

 しかし、足や腰といった部分の感覚が酷く曖昧になっている。さらに言えば、以前には感じなかった知らない器官が増えているような、奇妙な感覚を覚えていた。


(尻に何か生えている……いや、尻かこれ? 足もうまく動かないような……ん? 増えている?)


 違和感のある個所に集中し、動かそうとしてみるものの、なかなかいうことを聞かない。

 まるで、自分の肉体が一度ぐちゃぐちゃに溶かされて、全く異なる形状の器に押し込まれたような、そんな気持ち悪さに襲われていた。


(ああ、いかん……そうこうしているうちにどんどん沈んでいく。……沈むということは、ここは水中か? いやしかし、全く息苦しくないな。ん? ならばこの空間は、何だ……?)


 考えても考えても、自分の身体は未だに上手く動かせず、視界に映る景色も変化がない。

 状況を理解するにも、得られる情報が全くないために、それはバタバタと藻掻きながら困惑する他にない。


 しかしそのうち、今の身体の感覚に精神が順応し始めたのか、少しずつではあるが違和感が薄れ始める。

 視界の方は相変わらずではあるが、なぜか自分の身体が、少しずつ動いているということを認識し始めていた。腕と思わしき箇所を動かすと、その感覚は余計に強く感じられる。


(……動けた、いや、泳げたな。やはりここは水中か? 全く見えんが、前に進んでいるというのは何となくわかってきた。……おお、意識すると結構早く動けるな)


 徐々に徐々に、それは自分の肉体をものにし始める。例えて言うなら、痺れた体が少しずつ元の感覚を取り戻し、真面に動けるようになってくるような、そんな感覚である。


(さて……動けたはいいが、全く状況は理解できないままだな。なぜ俺は、こんな場所にいる? ここは何だ? さっきまで何が起こっていた?)


 それは黒の空間を泳ぎながら、悶々と考え込む。

 自分が目覚めるまでの記憶、意識が浮上するまでに起こったはずの全てが、何もかも綺麗さっぱり消失してしまっているのである。

 俗にいう記憶喪失というものであろうか。しかし、そのような大事に至る事故を経験したのだろうかと、それはより一層自分の中を探り起こそうとする。


 その時、それはある重要な事に気がついた。

 なぜ自分がこうなったのか以前に―――自分が何なのかという疑問にぶつかったのである。


(……俺は、誰だ?)


 ぴたっ、とそれの動きが止まる。とにかく体を動かしたいと、懸命に泳いでいたそれの肉体が、止まってしまう。

 自身の中にぽっかりとあいた、あまりに大きすぎる穴を自覚したそれは愕然と目を見開き、固まっていた。


(俺は……何だ? 何という名前だ? 何という生物だ? 何処に住んでいた? 何をする存在だ? 何故ここにいる?)


 疑問が次々に浮かび、その答えを見出せないまま積み重なっていく。頭の中に靄が無数に溜まり、それの思考は全て問いかけるだけの作業に埋もれていく。

 わからない、わからない。

 募るだけの疑問符を解き明かせず、それはまた黒の世界の奥底に沈み始める。


(まぁ、いいか)


 だがしばらくすると、それはまた何事も無かったかのように泳ぎだしていた。

 まったく見えない答えに、それは考える事を止める。自身の事であるのに、それは一切の興味を失くし、只管に泳ぎ続ける作業を再開する。


(別にわからなくても何も困らんし、何かが変わるとも思えん。取り敢えずは、動いてみる他にやる事もなさそうだな……)


 せっかくこの肉体の扱いにも慣れてきたのだから、とそれは独り言ち、黙々と身体を動かして黒の世界を泳ぎ続ける。

 ここが何なのか、自分が何なのかなど微塵も気にすることなく、気の向くままに自分の見つめる先を目指して移動し続けた。


 しかしそのうち、それの動きが鈍くなり始めた。

 腹部の奥、喉の奥にある一つの器官に、少しずつ隙間が空き始め、身体から力が抜け始めたのである。


(ああ……何にしても腹が減ってきたな。ずいぶんと泳いできたものだが、呼吸は必要なくとも食事は必要なのか? よくわからん身体だな、これは……)


 空腹を訴え、蠢く自分の腹の奥に目を細めると、それは辺りに目を凝らしてみる。

 次なる目標―――食事の為の獲物探しを始めるそれだが、やはり辺りは一面黒の無の世界。自分の姿も見えないほどの暗闇なのに、他の生物の存在など視認できるはずもない。

 泳いでも泳いでも、何も発見する事ができないまま、腹の危険信号は強くなるばかりだ。


 こうなれば、せめてもの慰めに自分の腕でもしゃぶるべきか。

 頭も機能の低下を始め、奇妙な事を考え始めた頃合だった。


 それは、何かを感じ取った。

 自分の頭上に、黒の世界の遥か上に何かがいて、自分に気付かぬまま移動していると察知したのである。


(……これは、気配か? 俺にこんな事ができたとは……)


 少なくとも今までできた例のない、他の存在の気配を察するという力に、それは困惑しつつもすぐさま行動に映る。

 腹の奥は未だに泣き叫び、早く獲物を捕らえここに持って来いと促している。本能的な衝動にそれも決して抗うつもりなどなく、自分の身体を懸命に動かし、獲物に向かって一直線に浮上を開始する。


 泳げば泳ぐほど、それは黒の世界における境界が迫っていることを知る。

 やはりここは、水中に近い何かの仲であったのだと脳の片隅で認識し、しかしその発見は食欲という原始的な本能に押しのけられる。


(いただきます)


 境界が目の前に迫った瞬間、それは大きく口を開き、中に並んでいた無数の鋭い牙を剥き出しにする。

 ごっ!と自身の身体が新たな世界に飛び出すのと同時に、それは口の中に獲物が―――何故か角の生えた兎が入り込んだことを確認した。


「ピキィィッ―――」


 真下から襲い掛かられた角兎は悲鳴をあげかけるも、それが勢いよく口を閉じて強制的に黙らされる。

 口の中でバキゴキボギンッと鈍い音が鳴り響くのを感じながら、それは黒の世界の外側を目に映す。


 外は、夜だった。

 見たことがないくらいに大きな月が三つ、夜空を照らす幻想的な美しい光景の中、鬱蒼と茂る木々が広大な森を構成している。

 森の向こう側には高くそびえたつ山が連なっており、まるで巨大な壁が続いているような景色が広がっている。


 ようやく視界に映った黒以外の色彩を横目に、それは飛び出したときと同じく勢い良く、影の中へと落下していく。

 あっと、それが我に返った時には、それの視界はまた黒一面に変わっていた。


(今のは……影? 俺は今まで……影の中を泳いでいたのか!?)


 まさか、そんな馬鹿な、と。

 自分に起こった奇妙な現象に動揺するそれは、口の中でぴくぴくと痙攣する獲物を一度ゴクリと呑み込み、再び境界に向かって浮上していく。

 ゆっくりと、今度は慎重に周囲を確認しながら上がってみれば、目に映るのは先程と同じ光景。

 顔だけを浮上させ、目を真下に向けてみれば、やはり月光が生み出す影の中に、自分の半身が浸かっていることを確認する。


(まるで魚だ……だが、魚が影の中に入り込めるか。それにこの鰭……魚類というより爬虫類の様だな)


 それは顔を出したまま、自分の腕と思っていた期間を境界の外に持ってきて、まじまじと見つめてみる。

 黒の世界で、何かを掻き分け肉体を前進させていたその部分は、びっしりと鋭い鱗に覆われた蜥蜴の腕のようであった。小指が変形し、腕に生えた棘との間に皮膜が存在しているのを見るに、この部分が何かを捕まえて黒の世界を泳げていたのだろう。


 そこでそれはさらに気付く。普通の魚なら、首を曲げて自分の身体を見下ろすことなどできないはずだと。

 少し頑張って影の中を泳ぎ、さらに多く自分の半身を浮上させてみれば、より一層蜥蜴に似た上半身が目に映る。正体はわからずとも、爬虫類か両生類であることは何とか分かった。


(……どうやら、俺は普通の生物ではなくなっているようだな。何ということだ)


 道理で最初に違和感を感じたわけだ、とそれは自嘲気味に空を仰ぐ。

 一体どこの世界に、影というただの平面にできる現象の中に入り込める生物が存在するというのだろうか。

 そんなもの空想上の生物でもいたかどうか、その業界に詳しくないそれには判断のしようがなかった。


(まぁ、いいか)


 しかしそれは、再び空腹を訴えだした自分の腹の赴くままに、影の中に潜り込む。

 自分が何者なのか、そんなことはそれにとってはどうでもよく、ただこの本能の疼きを鎮める為に、また別の獲物を求める。


(俺が何者であろうとどうでも良い……とにかく今は、腹が減った)


 何か、重要なものが自分の中から抜け落ち、紛失していることを脳裏で自覚しながら、それは黒の世界を泳ぎ続けるのだった。

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