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18.Regret

(……やってしまった)


 口の周りに付いた血を舐め取り、それは自分の行いそのものに激しい後悔を抱く。

 歯の間に残った、人間の食べ残しであろう指の欠片を噛み砕きつつ、それは自分の周りに出来上がった景色を見下ろす。


 まるで血の海の中を泳いでいるような、真っ赤に濡れた周囲。

 我を忘れ、欲に突き動かされるままに襲い掛かったために、食った獲物の腕や足、首から上がいくつか残され、血の海の中にごろごろと転がっている。

 酷いという外にない、意地汚く行儀が悪すぎるその様に、それは影に埋まりたいほどの羞恥を覚えていた。


(これが、空腹を耐えかねた獣の所業か……残すことは俺の流儀に反するというのに、こうも見っともない様を晒すとは。多少の空腹は耐えられるかと思ったが、今の俺はこうも節操がなかったのか)


 それは恐る恐る、惨状の中の数少ない生き残りである女性達に目を向けつつ、転がっている肉の破片に腕を伸ばし、こっそり口の中に運ぶ。

 女性達はそれに背を向け、たった一人、それが吐き出した肉団子のような男を見下ろし何かを話している。その隙に、それは自分の食い散らかした痕を隠滅しにかかった。


(あの男だけは……なぜだか食う事ができなかったな。体臭が凄まじく飲み込む事さえできなかった……だが、残すのは俺の流儀に反する。我慢して食うか)


 取り敢えず周りにあった食べ残しを平らげてから、それは何やら冷淡な表情をしている女性と、やや青い顔で頷いている少女の元に向かう。

 女性達は近付いてくるそれに気付くと、パッと表情を明るいものに変えて出迎えてくる。


「…――、―――――――、―――。―――――」


 倒れ伏す男に手を伸ばしたそれだが、肥え太ったその体をつまみ上げるより先に、女性がそれの手を取り、語りかけてくる。

 ホッと安堵した様子で、血に濡れたそれの爪を親し気に撫で、どこか熱を孕んで見える眼差しを向けてくる。隣にいる少女も、慌てて引き攣っていた表情を取り繕い、それに真正面から向き直る。


 言葉が伝わらなくとも、彼女達の態度は感謝を示していることがわかる。

 屈託のないその笑顔を見た瞬間、それはスッと視線を横にずらした。どうしようもないほどの申し訳なさと不甲斐なさに襲われたからだ。


(いや、その……すまない。たぶんだが、俺は……お前達の事も食う気でいたと思うんだ)


 自分の限界も知らぬまま、深く考えることなく女性達への助力を決め、その結果自分の食欲が暴走し集まっていた獲物に襲い掛かった。

 もし、彼女達が獲物の人間達の近くに居たのなら、それは迷うことなく彼女達にも牙を剥いていただろう。そうならなかったのは、単にそれの食欲が周りの人間達に向いていたからに過ぎない。


 囲まれ、武器を突き付けられていた様子は、我を失っていた中でも確認できた。

 おそらくはそれが介入し暴れ回ったおかげで、窮地を乗り越えられ、その事を深く感謝しているのだろう。それはますます、居心地が悪くなった。


(一度手助けしてやろうと思った者達にまで食欲を向けかけるとは……我が肉体ながら情けない。偶然にこうも感謝する日が来るとは)


 それが渋い顔のまま黙り込んでいる間にも、女性はずっと語りかけている。それが激しい自己嫌悪に陥っていることなど知らないまま、熱い視線をそれに送り続ける。


「――――…、―――、――――――」

「――! ――――――!!」


 少女がそんな女性に、何やら意味深な笑みを浮かべて話しかけると、女性は急に顔を真っ赤にして振り向き、まくしたて始める。

 キャーキャーと騒がしくなる女性達。それが胡乱気に見つめている事も忘れた様子で、はしゃぐような甲高い声が交わされていた。


(さて、どうしたものか……獲物をたらふく確保できたことは正直嬉しく思うが、何時までこの女性達の旅は続くのか。なんだかもう…自由気儘だった頃が懐かしいな)


 自我を失うほどの空腹の危機は逃れたものの、これがいつまで続くかは分からない。

 このまま彼女達と旅を続け、またあのような飢餓に襲われるような事があれば、今度こそ彼女達にも牙を剥きかねない。


 出会って数日だが、すでに彼女達に対して多少の愛着を覚えているそれは、その未来だけは回避したいと思っていた。


(大勢に囲まれ、欲に満ちた視線に晒されながらも立ち向かう彼女は好ましい……その気概を踏みにじり、犯そうとする連中に嫌悪を抱いたのは確かだが、何時までも付きまとうのもどうか。俺の今後だ、いい加減しっかりと考えておきたい)


 女性達は人であり、それは獣にして怪物。

 そもそも誕生からして歪なそれが、当たり前のように女性達の側にいられるとはとても思えない。ただ気になるからという理由だけでは、これまでと同じ関係は続けられないだろう。


(ここで別れるべきか……いや、それならそもそもこの人里に入る前の段階で別れておけばよかったのか? しかし、それでは彼女達はここであの連中に……いや、待てよ?)


 眉間にしわを寄せ、策を講じていたそれは、ふと浮かんできた考えに目を見開く。

 いまだ赤い顔をしている女性と、悪戯を目論む子供のような顔の少女。彼女達とともにあった時間を思い出し、それは真剣に考えてみる。


(……このままこの女性達についていけば、彼女達を狙う敵にまた遭遇できるか? 思えばこれまで、大勢で襲ってくることが常だったのだし、多少空腹を我慢できれば、あとでたらふく食えるのではないのか…?)


〝損して得取れ〟

 そんな一文が脳裏に思い浮かんだ瞬間、それの目は一際強い光を発していた。


          △▼△▼△▼△▼△


「……やはり凄まじいな、貴殿の力は」


 辺り一面、真っ赤に染まった屋敷の中を見渡し、アイシアは戦慄した表情で呟く。

 数十人の人間の体内の血液、それが全て撒き散らされれば、こうも悲惨な光景が出来上がるのかと感嘆し、そしてそれを成した黒竜に驚愕する。


 足元には、白目を剥いたまま気を失っているレギンがいて、びくびくと痙攣を繰り返している。

 体中地で真っ赤に染まっているが、目立った外傷はない。おそらく黒竜の口の中にあった血が、頬張られた際に付着したのだろう。

 悪運の強い奴だと、アイシアはフンと冷たい表情で鼻を鳴らした。


「セリア様、この男はどういたしましょう。ここまでの蛮行、この場で首を刎ねても、彼に食べて貰っても、誰にも咎められることはないでしょうが…」

「……できれば、法での裁きを求めたいです。一時の感情で人の命を奪う事は、貴方にもしてほしくないですし……それにあの方も、一度吐き出したぐらいですし、食べたくはないのではないでしょうか」

「…そうですね、余計なことを申しました」


 転がっている男に、アイシアはもう嫌悪以外の感情を抱けない。

 悪臭を放つ虫けらのような、とにかく視界から外したくて仕方がない、主を穢しかけた下劣な男。この場で始末してやりたかったが、当の主からそれを止められては応じざるを得ない。


 悶々とした気分を持て余していたアイシアは、ふと背後から近づく黒竜に気付く。

 何を思ってか、アイシア達に片腕を伸ばして来る黒竜。アイシアはハッと我に返ると、伸ばされた鋭い爪を手に取り、ギュッと握りしめた。


「また…貴殿に救われてしまったな。どれだけ我々は恩を重ねなければならないのか、貴殿は本当にひどい奴だぞ」


 血に濡れた爪を撫で、そして落ち着きを取り戻した黒竜の目を見つめ、女騎士はふっと微笑む。

 何故だか頬が熱くなり、きょとんとした顔で見下ろして来る黒竜から目を離せない。こちらが何を言っているのかまるでわかっていない様子が、何故だか愛おしくて仕方がない。

 爪に触れる手に力が籠もり出すと、その様子を見つめていたセリアが、くすくすロ笑い声をあげだした。


「アイシア。素敵な竜の殿方に見惚れるのは結構だけど、もういい加減現実に戻ってきてくださらない?」


 主からの指摘に、アイシアはカッと頬を赤くする。悪戯っぽい笑みを浮かべ、意味深な雰囲気を醸し出すセリアに、アイシアはたまらず詰め寄った。


「セリア様…! そのように私をからかうのはおやめください! 彼は恩人、感謝を伝えることぐらい当たり前のことです! 何もおかしくはありません!」

「そんな恋する乙女のような顔で言われたって、説得力がないわよ?」

「こっ…!? んんっ……御冗談を」


 一度大きく咳ばらいをし、アイシアはどくどくと騒がしくなる心臓の音を誤魔化す。

 着実におかしくなっている自分の気持ちを無視し、女騎士は無理矢理黒竜から目を逸らす。あのままでは、本格的に何か妙な事をしでかしそうで、自分で自分が恐ろしかった。


(……それもこれも、彼が怪物らしからぬことばかりするからだ。怨むぞ…!)

「あ、貴方の言う通りですね、セリア様。こんな事をしている場合ではありません……私が見たことを、詳しく説明させていただきます」


 アイシアは即座に表情を引き締め、主に向き直る。

 そして、レギンの執務室で手に入れた書類と彼の語る内容―――王国の裏切り者と帝国との癒着について、それに纏わる恐るべき陰謀についてを、流行る気持ちを抑えて簡潔に語る。


 予想通り、全てを知ったセリアは真っ青な顔で固まり、信じられないといった様子で立ち尽くす。

 わなわなと手を震わせ、足元に転がるレギンを鋭い目で睨みつけた。


「…こんな男の為に、民は、お父様は…!」

「帝国が動き出す前に、一刻も早く王都へ向かいましょう。陛下にこの事実を伝えなければ、ツーベルク領は勿論、この国も危機に陥ります……ですが、御父上や領民の事は」


 怒りに震えるセリアに、アイシアは胸が締め付けられるような気持ちのまま告げる。

 アイシアが忠誠を誓ったのはセリア、守るべきは彼女と彼女が大事にしている全てだ。それ以外のものの優先順位は下であり、本音を言えば後回しにしたい。

 どうにかして薬を手に入れ、病で苦しむ領民達を優先的に救いたい。


 だが、帝国が責めてくるかもしれないという今の状況においてはこの順位は覆る。

 レギンの語った計画通りならば、真っ先に危険なのはツーベルク領で間違いないが、薬で彼らを救ったところですくわれる事にはならない。弱り切った彼らでは、帝国の進軍を止めるどころか戦いにすらないらないだろう。


 故に必要なのは、一刻も早くこの事実を王国に伝え、軍を派遣してもらうことだ。

 帝国が進軍の準備段階にあるなら、今すぐに伝えればこちらも相応の用意が可能であり、王国の危機もツーベルク領も同時に救う事ができるはず。


「セリア様…お辛いとは思いますが、どうか」

「……そうね、そうしなければ、誰も救えないのだものね」


 だが、理解はできても納得はできないというのが人間というもの。

 必要な事とはいえ、セリア達が王都に向かう間、本当に救いたいツーベルクの人々を見殺しにしてしまうことが、セリアにはたまらなく苦しい事であった。


「…く、くくくっ。甘い連中だな、本当に…」


 暗い表情で俯いていたアイシア達。

 そこへ、悪意に満ちた不気味な笑い声が響き、女性達は慌てて視線を足元に落とした。


 気を失っていたはずのレギンが、いつの間にか目を覚まし、アイシアとセリアにニタニタと悪魔のような笑みを見せていたのだ。


「もう…もう遅いわ。今から王都に向かったところでな…」

「何だと? どういうことだ!?」

「言葉通りだ……もう時間の猶予はない。貴様らが今から王都に向かったところで、何の意味もない……この国も、ツーベルクも、全て帝国に食い荒らされるんだよ」


 厳しい目で、同時に言い表しがたい嫌な予感を覚えたアイシアがレギンを睨む。

 その直後、彼女たちは子の下劣な男の言葉の意味に気付き、蒼白な顔で絶句した。


「わかったようだな……そうだ、もう帝国は動いている。お前が効いた、俺と帝国の通信……あれが行われた時点で、帝国はツーベルクに進軍を開始しているんだよ。もう十分に毒を流しきったからな…」


 真っ青な顔で棒立ちになる、女騎士と令嬢。

 レギンは彼女達のその絶望しきった顔が大層気に入ったのか、くつくつと肩を震わせて愉悦を表す。見る見るうちに顔を真っ赤にするアイシアに、彼はより一層悪意をあらわにした。


「貴様…! どれだけ私達を馬鹿にすれば!?」

「ほらほらどうした…? こんな所で時間を無駄にしていていいのか? さっさと王都に向かわなければ、何もかもが終わるぞ? まぁ、今からいったところで全部無駄だろうがな……くく、クハハハハハ!!」


 我慢の限界だとでも言うように、レギンは血走った目でアイシア達を見上げ、哄笑をあげる。


 その姿は、まさに人心など微塵も持ち合わせない悪魔のよう。

 人の不幸と苦しみを糧にする最悪の存在で、気付けばアイシアは、下卑た顔を見せつける彼の顔面を思い切り蹴りつけ、強制的に黙らせていた。


「この、屑め…!」

「アイシア……急がなければ、急がなければ、民が、お父様が、この国が!」

「セリア様…!」


 再び気を失うレギンを、何度も蹴りつけこのまま殺してしまいたくなるアイシア。

 だが、我を失った様子で縋りついてくるセリアの声で正気に戻り、キッと視線を背後に―――所在なさげに、口周りに付いた血を舐め取っていた黒竜に向ける。


「恥を承知で頼む…! もう一度、もう一度私達を背に乗せて運んではくれないか!? 事は一刻を争う事態なのだ! 礼はたまった分をまとめて返してみせる……だから、頼む!」


 アイシアは黒竜に縋りつき、鋭い鱗をきつく掴んで懇願する。

 セリアや、他に誰かの視線があろうと構わず、言葉も通じているかもわからない怪物に向けて声を張り上げる。

 滑稽に見えようが、正気に見えなくとも関係ない。

 今この場で取れる最善の行動を取れなければ、絶対に後悔すると確信し、必死に頭を下げ続ける。


「頼む…! 貴殿だけが頼りなのだ! 何を要求されたっていい、だから……頼む!」

「アイシア…! いいえ、代価を要求するのなら、どうか私に! 私に自由にできる者は……この身体でも、何でもお渡しします! ですからどうか…! 民を…お父様を!」


 訝しげに首を傾げ、見下ろして来る黒竜。

 唸る事も、吠える事もしない怪物の態度に、アイシアもセリアも悔し気に歯を食い縛る。


 やはり、無謀な考えだったのかと、自分達の見通しの甘さをひたすらに悔みかけた、その時。


「…グルルル」


 アイシアとセリアに背を向け、小さく唸り声をあげた黒竜が、ニヤリと口角を上げて目を向ける。

 丁度、出会ったばかりの頃に、自ら手助けを申し出た時と同じように。

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