17.Starvation
腹の中が、空っぽだった。
胃の部分が痛みを訴えていて、空いた空間がひたすら虚しさを嘆き、叫んでいる。
もう少し、もう少し。
見守ると決めたあの二人の人間がこの地を去るまで、もしくはあの二人の目が近くになくなるまで、獲物を追うことは堪えようと努めてきた。
だが、もう駄目だった。
耐えに耐えて、耐え続けて、堪えなければと自分を律し続けていたが、最早我慢の限界だった。
(……腹が、減った)
獲物を一つ呑み込んだが、まだまだ足りない。体が次の獲物を求めている。
見渡せば、そこらで棒立ちになっている肉がある。鎧に身を包んでいるが、然して固くもなさそうな薄っぺらい皮ばかり、噛み砕き、丸呑みにしてしまっても問題ない。
数はたかだか数十、全て腹に納めたところで大して満足感は得られそうにない。しかし、少しでいいからこの飢えを抑えたいと、生存本能が叫んでいた。
(腹が減った…腹が減った……!)
グルルル……と唸り声が漏れ、牙の間からだらだらと唾液が溢れ出る。
ぼたぼたと滴り落ちる粘っこい液体が、それの真下の床にに落ち、水溜まりを作る。そして、じゅうじゅうと煙を上げて床を溶かし始める。
焦げた鼻に刺さる匂いが漂うが、そんなこと全く気にならなかった。
見下ろすと、獲物に囲まれる位置にあの二人がいることに気付く。
女達は影から再び姿を現したそれを見て、驚愕で大きく目を見開いていた。最初に会った時と全く同じ構造であったが、今のそれがその事を思い出す余裕はない。
剣を手に、固まって立ち尽くす二人でさえも、それには美味そうな獲物に見えてしまっていたからだ。
(腹が減った…! 腹が……腹が減った…! 腹が減った!)
「――、――――――――!?」
「―――、―――――!!」
ふと、すぐ横から耳障りな音が聞こえる。
ぎろりと目を向ければ、獲物がそれに向けて槍を構え、怯えた表情で声を上げている。槍の穂先で鱗を突き、唾を撒き散らしながら何やら叫んでいる。
意味が分からずとも、それが罵倒を意味する言葉なのだということは、何となく察せられた。
無理もない、とはそれも思う。
今自分は、食欲に促されるままに彼らの仲間らしき一人を呑み込んだばかりなのだ。突然の凶行に警戒し、敵意を抱かない生物は一つとして存在しないだろう。
だが、どうでもよかった。
何か言われようと、敵意を向けられようと、今のそれは一つの事にのみ集中していた。
(腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った!!!)
すなわち、己の飢えを抑えることのみに。
思考の全てが塗り潰されていく。辛うじて残っていた、あの二人の動向を見届けるという目的だけは保たれていたはずなのに、それさえも一つの欲に飲み込まれていく。
たった一本残っていた理性の鎖が、とてつもない力で引き千切られていく。
すぐ近くから聞こえてくる、獲物の放つ音でより一層その欲望は膨れ上がっていく。
活きの好い獲物、喰い甲斐のありそうな獲物、たらふく食べられそうな獲物。自身の感覚器官が飢えで研ぎ澄まされ、獲物の放つ臭いがより一層強く感じられてくる。
(―――もう、いいか。我慢しなくても)
そしてやがて、プツリと。
それを繋ぎとめていた理性の鎖が、千切れた。
△▼△▼△▼△▼△
「グルアアアアアアアアアア!!」
再び上がる、大気そのものが恐怖するかのような衝撃を放つ、黒竜の咆哮。
まるで重い水を頭からぶっかけられたかのような圧が、その場にいる誰もの身に降りかかり、全身を縛り付けられたかのように動けなくなる。
槍を突きつける体勢のまま、衛兵達は一人残らず固められてしまった。
「ひっ…ひぃいい!」
何とか身動きをとれた者も、できたことといえば情けない悲鳴をあげて後退る事だけ。
そうした彼も、次の瞬間には首を伸ばした黒竜に頭からかぶりつかれ、下半身のみを残して尻餅をつく。どぱっ!と噴き出す血が、噴水のようにあたりに撒き散らされた。
「何なんだこいつはぁ!?」
「こっ…殺せぇ!」
あっという間に食い殺された仲間のなれの果てを見て、ようやくまた何人かが我に返り、未知の脅威を排除しようと動き出す。
腐っても、屋敷の守護を任せられている腕利きの兵士。我を取り戻した後の動きは素早く、黒竜の身体を、生物の急所であるはずの喉元や頭蓋の裏を狙って、槍の刃先を突き出す。
だが、渾身の力で突き出した槍の穂先は、ギンッと甲高い音を立てて弾かれ、あるいは刃を欠けさせ、る。
火花を散らせて跳ね返る槍に目を見開き、衛兵達は唖然とした表情で固まっていた。
「なっ―――」
信じがたいといった顔で、体勢を崩す衛兵達。
咄嗟の反応も頭から抜け出て、無防備を晒す彼らに、今度は振り向いた黒竜が牙を剥き、大きく口を開けて飛び掛かる。
今度は一口で一人を丸呑みにし、黒竜の口の端から鮮血が溢れ出す。容易く鎧を噛み砕き、肉と骨を両断していく。
その間にも、黒竜は影の中から腕を出し、近くに居た衛兵を捕まえ、空いた口にどんどん放り込む。
捕食と咀嚼の動きを一度も緩めることなく、自分の見える範囲にいる獲物を片っ端から捕らえ、食い千切っていく。
「う…うわあああ!」
「この化け物がぁ!!」
中には無謀にも再び槍を突き出す者もいたが、それは黒竜が乱雑に振るった片腕の一撃で簡単に吹き飛ばされ、両手足をひしゃげさせて落下する。
そして潰れた肉を、黒竜は腕を伸ばして摘まみ上げ、口の中に放り込み呑み込んでいく。
無数の肉片を辺りに撒き散らし、黒竜は次から次へと衛兵達に食らいつき、一つ残らず平らげていく。
〝暴食〟の欲に駆られたその姿は、実に怪物と呼ぶに相応しく、地獄に等しい惨状を作り上げていった。
「グオオオオオオオオオオ!!」
「な……何だ、これは」
レギンはその光景を、呆然と見ている事しかできなかった。
自分を守るために雇った盾と槍が、何の前触れもなく現れた怪物によって一方的に屠られ、ただの肉片となって呑み込まれていく。幻覚か悪夢と思い込みたくとも、それができないほどに濃厚な血の匂いが蔓延している。
やがてレギンの両脚から力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。
ただ一人、螺旋階段の上という異なる場所に立っていたために、人間が為す術なく食い殺されていく光景を、ずっと見せつけられる羽目になっていた。
「何なんだあの、化け物は…! て、てめぇらか!? てめぇらがあの化け物を呼んだのか、この糞女共が!!」
「……当たらずとも、遠からずというべきか」
助けを求めてか、逃げ道を探してか、きょろきょろと尻餅をついたまま辺りを見渡していたレギンは、階段の下で二人で立ち尽くしている女騎士と令嬢を見つけ、目を吊り上げる。
自分の恐怖を紛らわせる、言いがかりに等しい喚き声に、アイシアは頬を引き攣らせながら、目を逸らしていた。
「あの方……ずっと着いて来て下さっていたのですね」
「そのようですね…どうやらその間、何も口にできていなかったようですが」
歓喜の咆哮を上げ、逃げ惑う衛兵達を捕まえ口の中に放り込んでいく黒竜。
まるで長い間絶食でもしていたような、久しぶりの獲物に我を失っている様子の怪物に、アイシアは冷や汗を垂らす。
本音を言えば、この状況で現れてくれたことは非常にありがたい。あのままでは、自分一人が衛兵達を突破することはおろか、セリアを逃がす事さえできたかどうかも怪しかった。
数の利で囲まれるだけでなく、どこにまた伏兵がいるかもわからない四面楚歌の状況。一人でも道連れに、と意気込んだはいいが、一人も傷をつけられないまま捕らわれ、無念のまま辱めを受けていた可能性もあった。
(だが…あの状態の彼に近づくのは危険だ。どう見ても、今の彼に正気はない……どれだけ空腹を我慢して、私達を見守ってくれていたんだ、お人好しめ)
狂い暴れる黒竜を見つめ、アイシアはきつく唇を噛み締める。
かつて同じように、アイシア達に襲い掛かろうとしていた帝国兵達を屠った時は、まだ理性的でアイシア達に対する敵意の無さを示す余裕があった。
しかし、今の黒竜はその逆。目に入ったものは何であろうと、例え知己であるアイシア達であろうと躊躇いなく食い殺しかねない迫力がある。
螺旋階段の影に退き、欄干の間から様子を伺いながら、アイシアとセリアは広がる真っ赤な惨状を見ている以外にできなかった。
「……くそっ」
ふと、頭上でそんな声が聞こえ、アイシアはハッと目を見開く。
振り向けば、レギンが黒竜に忌々しげな視線を送りながら、惨状に背を向けて這い出す姿が確認できた。衛兵達の誰一人に振り向くことなく、脇目もふらずに。
「……セリア様、こちらでお待ちを。彼からは姿が見えないよう、お気をつけて」
「アイシア!?」
「あの男だけは…せめて彼ではなく、私の手で始末をつけたいのです!」
顔を手で覆い、代わりに聞こえてくる肉や骨が砕ける音に肩を震わせていたセリアに一言告げて、アイシアは螺旋階段を駆け上っていく。
まだ一度も血を吸っていない剣を振りかざし、どたどたと情けない姿を晒すレギンの後を追いかける。
「待て! ガーランド!」
「ぐぅ…!」
剣を片手に、鬼のような形相で向かってくる女騎士に、レギンは一瞬冷えた目を向けるが、すぐさまキッと表情を改め、よたよたと覚束ない動きで立ち上がる。
肥満体型をぶるぶる揺らし、彼は壁際に向かい、飾られた斧槍を外して身構えた。
「くっ……来るんじゃねぇ、この魔女め! よくも、よくも俺の国を無茶苦茶にしてくれやがったな!?」
レギンの身の丈を遥かに超える長さの、派手な装飾が施された見た目だけは立派な業物。
しかし彼が使うには重すぎたようで、両手で持ってもふらふらと穂先が安定していない。重量に引っ張られ、仁王立ちしてなお身体が傾き、その都度斧槍を無理矢理構え直している。
命を懸けて戦ったことなど一度もない、己が愉しむ事ばかり享受してきた男の、情けない反抗の姿がそこにあった。
「あんな化け物をよこしやがって…! もうてめぇを性玩具にするのはやめだ! ここでぶっ殺してやらぁ!!」
「…彼は私の使い魔でもなんでもない。ただのお人好しな、紳士的な怪物だ」
「ふざけんな! てめぇのせいだ! てめぇらがいなきゃ、こんな事にはならなかったんだ糞女め!!」
唾を吐き、目を血走らせ、罵る声を放つレギンに、アイシアは剣を構えて嘆息する。
もう、この男の言っていることは無茶苦茶だ。確かにこの地に来たのは、セリアとアイシアの独断で、この男の計画の内には入っていなかったかもしれない。
しかし、その行為に走った根本的な原因は、この醜悪な男が建てた卑劣で恥知らずな野望によるものであると、何故忘れているのか。
「自分の罪を棚に上げ、他者を責め立てる……貴様のような悍ましい人間は、私は見たことがない」
「うるせぇええ!! お前らが悪いんだよぉ!! さっさと…さっさと死にやがれ糞がぁ!!」
「……救いようがないな」
癇癪を起した子供のように、ぶんぶんと斧槍を振り回し喚き散らすレギン。型も何もない、力任せに刃を振るうだけのそれに、アイシアは目を細める。
すると次の瞬間、アイシアは勢いよく飛び出し、レギンのすぐ目の前にまで移動する。
大振りで、女騎士をただ近づけさせまいとしていただけだったレギンの懐に入り込み、剣を斧槍の刃に絡ませ、僅かに力を込めて払い除ける。
たったそれだけで、レギンの手から斧槍が弾き飛ばされ、遠く階段の下の床に突き刺さった。
「これで終わりだ……セリア様を悲しませた報いを受けるがいい」
「ひっ…ひ、ひぃい! ひぃっ!!」
至近距離で、怒り狂うアイシアの目を見てしまったレギンは、顔中から液体を噴き出させ、ずるずるとへたりこむ。
彼の股からジワリと液体が滲み、鼻につく臭いが辺りに広がっていくが、アイシアは最初から嫌悪に満ちた目を向けるだけで、一切表情を変えない。
この場で彼を、彼がセリア達に対して妄想していたように、惨たらしい形で甚振るつもりで、剣の切先を突き付けていた。
「うおああああ!!」
「逃げられると思うな、屑め…!」
恐怖が限界にまで達したのか、レギンは喉元に向けられる刃を力尽くで払いのけ、這う這うの体でアイシアから離れようとする。
樽のような身体が、転がるように移動する様を見下ろし、アイシアはじっくりとその後を追う。
レギンに後ろを振り向く余裕はない。ひたすら女騎士の凶刃から離れる事だけを考え、そして屋敷の出口だけを目指し、螺旋階段の上から飛び降りようとした。
「ゴルルルル!!」
「あっ」
「ギャッ―――」
だが、レギンが欄干を乗り越えた丁度その時、宙に舞った肥満の身体を、黒竜がぱくりと頬張った。
牙の間からレギンの両足が覗き、しばらくバタバタと元気に振り回されていたそれが、口の中に消える。
黒竜は頬張った肉の塊を舌で転がし、やがて眉間にしわを寄せたかと思うと、べっ!と思い切り吐き捨てた。
べちゃっ、と床に転がる、白目を剥いて気を失ったレギンを睨みつけ、黒龍は苛立たしげに唾を吐くのだった。




