11.Stimulation
丘を越え、川を越え、黒竜の背に乗って令嬢と女騎士が森の中を進み続ける。
時に見かける獣も、黒竜の姿に恐れをなしてか近付いてくることはなく、ほとんど減速することなく、黒竜は悠々と泳ぎ続ける。
それから数時間は経過し、真昼が近づいてきた頃だろうか。
辺りに生える樹々がまばらになり、少しずつ景色が明るくなり始めた。
「…見えてきました」
前方を見据えていたアイシアが、小さく呟く。
するとセリアも、木々の間から覗いて見える街並みに表情を引き締め、思わずごくりと息を呑む。
森が開け、それは視界に入って来た。
見た目の印象は、酷く狭っ苦しい街、という風景だった。
周囲を丘に囲まれ、擂鉢状の窪地の中にたくさんの家屋が敷き詰められている。
地平線よりも低い位置に地面があるために、陽の光が入りにくく全体的に薄暗く見える。風の流れも歪なのか、使い古された空気が籠もっているようにも思える。
だが、反対に街の造りはしっかりと、そして優れたものに見えた。
壁に使われている漆喰は上質なものなのか、薄暗い中でもその美しさをはっきりと表し、歪み一つなく建てられている。それにより家々はパズルのように整然とした配置がなされている。
人が住むには少し問題を感じる環境、しかしその分金が使われた裕福そうなそれがガーランドの街だった。
「あれが、ガーランドの街……」
「噂には聞いていましたが、薬品の輸出でずいぶんと発展しているようですね。…確かに、これなら特効薬も期待できるでしょう」
「…そうね」
黒竜の背を降り、丘の上から街並みを眺めるアイシアの呟きに、セリアが頷くもその表情は重い。
ぎゅっ、ときつく手を握るその姿をやったアイシアは唇を噛み締め、慰めるように彼女の肩に手を置いた。
「……ここまで来れば、帝国の兵も手出しはできないでしょう。あとは、領主の館を訪ねるだけです」
むしろその先にこそ大きな問題があるが、今更そのことを悩んでいる暇はない。
内心の嫌悪や恐怖を隠し、気丈に振る舞おうとする主の献身に、女騎士はひたすら自分の無力を悔やむ。胸の痛みを無視し、しびれるほどに拳を握りしめる。
ふぅ、とため息を吐いたアイシアは、それまで沈黙していた背後の黒竜に目をやる。
「ここまで…世話になったな。もう十分だ、この先は我々だけで―――」
これ以上の付き添いは必要ない、いや、ついて来てはならないと黒竜に告げるアイシア。
その際、彼女の目がわずかに見開かれた。
アイシアが言いきるよりも先に、黒竜はずぶずぶと影の中に沈んでいく。自分の役目は終わったというように、命じられることなく自ら姿を消す。
セリアが気付き、振り向いた時には、黒竜の角が影の中に消え、そして彼の影も消え去っていた。
「…頼むまでもなかったか」
「どうしましょう……ちゃんとお礼を言えていませんでしたのに」
「そうですね…これでは恩を返す機会もなくなってしまいました」
「……そうね、もう、会えないかもしれないのね」
無念を顔に出すアイシアに、寂しげにつぶやき、同意を示すセリア。
二人はしばらくの間、影の消えた地面を見下ろし、去っていった黒竜の事を想う。
突如現れ、獣とは思えない気遣いを見せ、護衛を買って出るように同行し身を守ってくれた、謎ばかりを持つ不思議な存在。
この先会うことはもうないかもしれないが、きっと彼の事を忘れる事はないだろう。
「……行きましょう、彼の助けを無駄にするわけにはいきません」
「はっ」
セリアはやがて、迷いを振り切るように踵を返し、歩き出す。
アイシアも表情を引き締めると、今一度何もない地面に向けて首を垂れ、名も知らぬ黒竜に謝意を示す。
そうして二人は、悲壮な覚悟を顔の下に隠し、街の入り口に向かって歩き出していった。
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(……ようやく歩き出したか)
移動していく頭上の二つの気配に、黒竜は待っていたとばかりに泳ぎだす。
自分が影に潜ってから数分。何やらぶつぶつと話していたが、やがて二人はどこか重い足取りで歩き出した。
自分に向けられていたように思えたが、言葉のわからない彼にとってはただの独り言でしかない。
ともに移動していた時の表情を見る限り、申し訳なさそうな、負い目を抱くようなものに感じられたため、少なくとも罵倒などではないだろう。
危険な獣にしか見えない自分に対し、取り繕う必要などないのだから。
(さて、どうにもあの二人の行く末が気になる故についていくと決めたものの、これからどうするか……人ではない俺がこれ以上関わるのもどうかと思うが、中途半端に退くのもな)
影の上の気配を探ると、女性と少女が向かう先には、自分が指針にしていた、多くの気配が集まったな所がある。
彼女達の目的地も、人里の位置を知っていたわけでもない。
追われる身である彼女達を、安易に同族の気配を多く感じる場所に連れていくのは早まったかと思っていた。だが道中、何も言われなかったことを考えるに、行き先はあの場所で間違いなかったのだろう。
だがその事以上に、それにはある懸念があった。
(一体あの二人は、何をあそこまで思いつめる必要があったのか……行きたくなければ行かなければよいものを)
彼女達の足として森の中を移動していた際、何度も目にした表情が思い出される。
時を経るたびに、そして森の出口が近づくたびに、彼女達の、特に女性の表情は険しいものになっていった。そしてともにいる少女に、痛々しげな視線を送り続けていた。
彼女達の事情など知る由もない。
しかし、先に進まざるを得ない何かしらの問題を抱えていることは、それにも理解できた。
(せっかく命を拾ったというのに、なぜああも落ち着かない顔をしているのか。あの場で命を失わずに済んだと素直に喜ぶことなく、ただ安堵する…うむ、やはりよくわからんな)
もやもやとした考えを続け、それは頭上を歩く二人の後を追う。
泳ぎながら、それは片腕で自分の腹を摩り、まだまだ余裕がある事を確認し少しばかり安堵した。
(昨晩たらふく獲物を喰ったおかげか、しばらく物を喰わずとも良さそうだ……流石にあれらの前で、同族を食い散らかすのは気が引けるからな)
影の上の気配を見て、女性達と同族の生物の気配以外は、あまり感じられない。
いることにはいるが、一箇所に固めて集められているのを見るに、おそらく家畜か何かだ。他人の手で大事に育てられている者を横から掻っ攫うことも、それの性格上どうにも咎められる。
そして何より、もしこの地に集う生物を食らったりすれば、あとから加わったあの女性達に何らかの影響が出る事だろう。
ただの獣であれば何の問題もない食事だが、その所為でせっかく命を拾った彼女達の今後に、大きな影響が及ぶ可能性が出てしまう。
つまり、それが本能のまま捕食しに向かえる獲物が、今のところ近くに存在しないということだ。
(はぁ、こんな事なら好奇心であの子達に近づくんじゃなかった……自分で始めた事とはいえ、こうも制限が多くなると鬱陶しくなるな)
厄介事に私情で首を突っ込んだ以上、途中で投げ出すことは咎められる。
面倒な道を選んでしまったものだと、そして面倒な存在になってしまったものだと、それは自身に呆れる。
なまじ獣らしからぬ、感情を持ってしまったがために、何も考えず行動する事ができなくなった。
自分の前に現われた生物を本能のまま捕食するという選択が、ただの獲物ではないと認識するようになったためにとれなくなった。
そしてその他とは違うと認識した存在の為に、腹が減っても迂闊に捕食に向かえなくなってしまった。
(人ならざる怪物のくせに、どうしてこうも気を遣わなくてはならぬのか……)
まったくもって度し難いことだ、とそれは独り言ちる。
自身を獣と割り切り、彼女達を切り捨て自分の欲を満たすこともできない。こんな目に遭っているのに、彼女達への興味の方が勝って、今更方針を変える気にもなれない。
(あの子達があの顔をしなくなるまで。取り敢えずはこの方針で行きたいが……いつまでかかることやらな。それまで俺の胃の腑が堪えられればいいのだが)
少しずつ、少しずつ減っていく胃の中身を理解しつつ、それは目を細める。
獲物を捕らえ、食らうだけの毎日に代わる新たな刺激を、獣としてではない別の本能が求めていると、感じながら。




