プロローグ
それは、深い深い闇の中でじっと息を潜めていた。
光も、音も、匂いも、何も感じられない完全なる黒の世界。上下左右、そして前後もはっきりとしない、〝無〟としか表現しようがない異様な空間。
そこがそれの縄張りであり、何者も侵すことのできない領域であった。
そんな世界を、それは悠々と泳ぐ。
自我を得た時から持っていた鰭を動かし、己にとっての『前』へ向かって突き進んでいく。
ガチガチと噛み合わせた牙が口の奥で音を鳴らし、ゴリゴリと全身を覆う鱗が軋む音を立て、何も無い闇の先を二つの目が見据え、実際に進んでいるかどうかも曖昧なまま泳ぎ続ける。
それを突き動かす本能はただ一つ―――「腹が減った」という原始的な意思のみであった。
ふと、闇の世界を当てもなく進んでいたそれが、ピクリと反応する。
目で姿を捉えたわけでも、音を捉えたわけでも、匂いを捉えたわけでもない。
気付いた時には習得していた、生物の気配を捉える能力により、それは自分の欲を満たしうる獲物の存在を知覚する。
ぐっ、と全身に力を込め、気配を感じる方へと浮上しながら、それは一層強くなる欲に牙を剥き出しにして、嗤った。
▼△▼△▼△▼
「ぎゃははは! お~っと、そこの馬車止まりなぁ!」
オルトリーア子爵令嬢オリヴィア・オルトリーアは現在、人生最大の窮地に陥っていた。
友人であるワラビア伯爵家の一人娘、アイリス・ワラビアの婚約披露パーティーに出席し、無事に役目を終えて領地に帰還する途中、突如野盗に囲まれてしまったのである。
「痛い目に遭いたくなかったらぁ……大人しく黙って死んでくれやぁ!」
「そこにいるオジョウサマだけ置いてな! ぎゃはは!」
「くそっ…! なんでこんな場所に野盗など…!?」
「お嬢様を守れ! 命に代えてもだぞ!」
オルトーリア領は子爵の手腕が優れ、何より身分差など気にせず気さくに接するような好人物で、領民からの不満も滅多に上がらないことで有名な土地だった。
隣り合った領との交流も良好で、もし落魄れるような者がいるとすれば、それは余程運に恵まれていないか、根っからのどうしようもない屑であるかと言われるほどである。
故にここで狼藉を働いている彼らは、そのどうしようもない屑である。そしてそれはこの領地だけではない、周りの領地であぶれたどうしようもない連中が集まってできた集団なのである。
両親に愛され、生まれてこの方争い事とは無縁の生活を送っていたオリヴィアは、初めて向けられた他者からの悪意に晒され、すっかり怯えて縮こまってしまっていた。
同乗していた護衛達がすかさず応戦するものの、襲撃など予想できないほど平穏が続き、若干腕が鈍ってしまった彼らではいささか分が悪い。
そのうえ、集まってきた野盗の数は護衛の約三倍はいて、勇ましく立ち向かう暇さえなく、護衛達は次々に倒れていった。
「ああ…そんな」
ついには、最後の護衛も苦悶の声を上げて斃れ、馬車には何の力もないオリヴィアの身が残されてしまう。
怯えて、青い顔で震える彼女が乗る馬車を取り囲み、野盗はニタニタと下卑た笑みを浮かべた。
「ひゃははは! 残念だったなぁ、もうあんたを守ってくれる奴は一人もいないぜぇ!」
「わかったらさっさと出てこいよ! 身代金と一緒に、お前さんも可愛がってやるぜぇ!」
涎を垂らし、血に濡れた刀剣をちらつかせる野盗がじりじりと近づいてくる光景を、オリヴィアは恐怖で固まったまま凝視する他にない。
貴族令嬢として、自衛手段として剣を習ってはいるものの、元来争い事が苦手な彼女はそれをまともに扱えない。このような大々的な襲撃を前にしてしまった今、オリヴィアの身体は完全に言う事を聞かなくなってしまっていた。
「誰か……だれかぁ…!」
「ぎゃはははは! 助けを呼んだって無駄だぜ! ここに人が近づくことはほとんどないって、調べがついてるからなぁ!」
「だから今日ここで襲ったのさぁ! 可哀想になぁ!」
貴族の少女が怯える姿にますます気を良くし、野盗は待ちきれないとばかりに馬車に乗り込もうとする。
迫り来る垢塗れの男の手を前に、オリヴィアはきつく瞼を閉じると、何者にも触れさせまいとするように頭を抱えて丸くなる。
無情にも、そのような抵抗は意味をなさず、野盗の男の手がオリヴィアの服にかけられる。
その、寸前の事であった。
ごりゴキぶちっ、と聞きなれない音が響くとともに、野盗の男の姿が掻き消えた。
「……あ?」
「え…」
馬車を取り囲み、仲間が令嬢を引きずり出すのを待っていた他の野盗達は、目の前で突然起きた現象に目を瞬かせ、立ち尽くす。
そんな彼らの足元に、ぼたぼたっと大量の鮮血が降り注ぎ、辺りを真っ赤に染め上げていく。そして、鉄の匂いが蔓延し始めたその中心に、べちゃっと大きな何かが落下する。
「……ぁ、が」
それは、先ほど令嬢を引きずり出そうとしていた男の、あまりに変わり果てた姿だった。
腰から下を失い、断面を晒した彼は、自身も何が起きたのか全く分からない様子で天を仰ぎ、大きく目を見開いて声ならぬ声を漏らしていた。
ぴくぴくと残った体を痙攣させ、視界に映った仲間に手を伸ばすが、やがてその手も力を失い、瞳孔が開いて完全に沈黙する。
野盗達は呆然となり、男の亡骸と広がっていく血溜りを凝視していたが、徐々に顔から血の気を引かせ、がたがたと震え始める。
恐怖が頂点へと達し始めたその時。
〝それ〟は、上空から己の姿をあらわにした。
「―――ォオオオアアアアアアア!!」
頭上から響き渡る方向に、野盗達は全員そろってびくっと肩を震わせ、一斉に視線を上げる。
そして、急速な勢いで落下してくるその存在を知覚した直後、また別の仲間がその姿を消してしまう。
「ギッ――」「ぐべっ――」
悲鳴とも思えない短すぎる声を最期に、二人が巨大な影に覆われ、その場から消失する。
声に我に返ったほかの野盗が振り向くも、そこには赤く染まった道路があるだけで、先ほどまでそこにいたはずの仲間の姿は見当たらない。
まるで最初から誰もいなかったかのような静寂があるだけである。
「なっ……何だ、何が起こって――」
きょろきょろと辺りを見渡し、異変に慄く一人のすぐ後ろで、また一人の姿が消え失せる。
慌てて振り向くも、これまでと同じく何も見あたらない。
野盗達の顔中に汗が浮かび、過剰な呼吸が思考を乱していく。いや、すでに真面に考える事はできなくなり、微かな悲鳴が響くたびに振り向くほかにない。
いつしか汗だけでなく、涙や鼻水も勝手に溢れ出て、誰もが顔をぐちゃぐちゃに歪めていく。恐怖が暴走し、生存本能さえ狂わせていく。
姿の見えない何かを前に、彼らの肉体は勝手にそれぞれの制御から離れていた。
「ひっ…ひぃ!? 助け――」
「いやだ……いやだいやだいやだ! おかあちゃ――」
ぶつっ、ぶつっ、と仲間の声が不自然に途切れ、とうとう一人を残して聞こえなくなる。
周囲に残っているのは、襲いくる何かの食べ残しであろう肉片と残骸である血飛沫の跡のみ。数秒と経たないうちに、馬車の周囲は赤黒く彩られていた。
「ひっ、ひぃい…う、嘘だろ……なんで、こんな…」
残ったたった一人は、その場にへたり込み震える事しかできない。股間の堰も決壊し、生温かい液体が地面に漏れ出すも、それを気に掛ける余裕など一切ない。
強張った全身の筋肉のせいで、断末魔さえ上げられずにいた。
「っ……! あ、あれは…」
固まっていた最後の一人は、不意にある事に気付く。
次々に消えていく仲間達とは裏腹に、馬車の中の令嬢は傷ひとつついていない。まるで彼女だけを避けるように、惨劇の跡が残っていない事に。
男は意を決し、馬車の中に向かって勢いよく飛び込み、急いで扉を閉じる。
なぜそこだけ無事なのか、逃げ場のない閉じた空間に自ら入り込んで大丈夫なのか。そんなことを考える余裕さえなく男は、気を失っているのか縮こまったままの令嬢を無視し、息を殺して身を顰める。
口を手で覆い、声が漏れ出ないよう必死に呼吸を押さえ、窓の外から様子を伺う。
姿が外に見えないように気を付け、仲間と護衛の亡骸が散らばる道路を見渡し、襲ってきた何かの姿を探す。だが、一向にその姿は見当たらない。
「……い、ない…?」
一分が過ぎ、五分が過ぎ、まるで永遠に続くような時間が流れていく。
馬車ごと襲われるという、最悪の可能性を考えていた男だったが、どれだけ待っても何も起こらない事に、徐々に肩から力を抜き始める。
音一つない周囲を見渡し、微塵も動かない令嬢を見やり、男はそこでようやく大きく安堵の息をつく。
最初から最後まで何が起こったのか、何が襲ってきたのかわからないままであったが、兎に角知らない間に窮地は脱する事ができたようだと、男は深く深く息を吐き、脱力した。
「はっ…ははは、や、やった。生きてる、生きてるぞ……はは、ははははは」
いまだ止まらない震えをどうにか抑えつつ、男は安堵でずるずると馬車の中の座席を滑り落ちる。
死なずに済んだ、殺されずに済んだという安心感で、ここからいったいどうするべきなのかという思考もできないほど、彼の精神は摩耗していた。
だから、天井を仰いだ自分の目に映ったそれを前に、彼は動く事ができなかった。
「……え?」
巨大な貌が、そこにはあった。
漆黒の鱗に覆われた皮膚に、鋭く並んだ牙。縦に裂けた瞳孔が男を写し、グルルル…と低い唸り声を響かせる、凶悪な蜥蜴の貌が、そこにあったのだ。
そして、男が正気を取り戻すより先に。
馬車の内側にできた影から抜け出てきたそれは、男の上半身を呑み込み、ぶぢりと噛み千切っていた。
「……ん」
窓の外から差し込んできた赤い光に、オリヴィアは少しずつ意識が浮上していくのを感じる。
体中が痛く、筋肉が固まっている事を訝しむが、それは自分が自ら身を丸くして縮こまっていたからだと思い出し、のろのろと姿勢を正し小さく呻く。
「あれ…私、無事で……なにもされなかったのでしょうか」
ふと視線を下げ、自らの衣服が傷ひとつないままであることを不思議そうに見つめる。
下卑た笑みを浮かべ、手を伸ばしてきた彼らの鼻息の荒さを思い出し、オリヴィアはぶるりと身を震わせる。純潔を穢され、死んだほうがましな目に遭わされていてもおかしくはなかったはずなのに、と。
そこでふと、オリヴィアは視界の端で動く何かに気がつく。
目覚めたばかりで、今一つ焦点が合わない目を動かし、馬車の外にいるそれに目を凝らしてみる。
「グルルル……!」
「ヒッ…!」
そこにいたのは、紛う事なき龍であった。
陽光に照らされながらもそれすら吸い込むような、夜の闇より暗い黒を身に纏い、ぎちぎちと耳障りな金属音を響かせる、長く太い体躯を持つ、珊瑚のような角と鰭を生やした龍である。
何より異様だったのは、龍の身体が地面から生えていたこと―――いや、影の中からその身をあらわにしていたことであった。
まるで水面から浮き上がっているかのように、その龍は自らが生み出した影の中に肉体の殆どを沈めていた。
龍はオリヴィアの悲鳴に気付くと、鱗の鎧に覆われた体を動かし、赤い血のような目を向ける。
生物とは思えない、生物に対する殺意や敵意に染まったようなその目に射抜かれ、オリヴィアは後退りガタンッと馬車の壁にぶつかる。
激しい音が辺りに響くと、竜はずぶずぶと影を泳ぎ、オリヴィアの元へと近づいていく。
真っ赤に濡れた血が口を彩る、得体の知れない怪物が近づいてくる姿を目の当たりにした令嬢は。
やがてパタリと、糸が切れた人形のように倒れ込み、再び気を失うのだった。
▼△▼△▼△▼
(……何も気絶することはなかったんじゃないのか? …いや、するか、普通は)
それなりに膨れた腹に満足しつつ、最後に浮上した際に目にした人間の少女の反応を思い返し、影の中を泳ぐ龍は脳内でぼやいていた。
己がこうして人外となり、通常の生物ではありえない生態を受け入れるようになってから随分経つが、やはりかつての思考が抜けきらないのは確かであった。
(あの子には少し、悪いことをしたか……以前の俺も、自分が異様な怪物に遭遇したら気を失うか、悲鳴をあげて逃げ出すかしていただろう。…嘆いたところで、俺の姿が変わるわけではないがな)
ため息をつきそうになるも、今の自分は呼吸を必要としない存在であり、息もはけないために、内心で肩を竦めるだけに留める。
今の姿になって数年、抜けきらない人間の頃の習慣に呆れつつ、黒龍はぐっと影の中を漕ぐ鰭に力を込めた。
(さて……明日はどうしたものか。とりあえず、美味い物が喰えれば現状はそれだけで十分なんだがな―――)
徐々に胃袋から消え始める満足感を嘆きつつ、黒龍は―――影山禮司は先を目指す。
かつて地球と呼ばれる世界で死に、知らぬ間に中世ヨーロッパのような世界の〝何か〟に生まれ変わっていた、自身の過去の記憶を遡りながら。