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卒業式が終わると、全国ツアーに向けての準備となる。ミリアはその前に事務所の社長の家を訪問した。社長とアサミの間に二人目の子供が誕生したためである。
二人目も女の子だと聞かされていたミリアは、ヨーロッパツアーの最中、フランスの老舗の洋服店でお祝いの子供服を購入して来たのである。
「大丈夫、大丈夫。もうちょっと、頭を上げて抱っこしてあげて。」アサミにそう言われ、ミリアは慣れぬ手付きで柔らかな赤子の頭を持ち上げる。赤子は不思議そうに目の前にあるミリアの顔を見上げる。
「ミリアのお顔、じっと見てる。」ミリアは満足げな笑みを漏らし、上半身を幾分倒して赤子の顔を間近に覗き返す。
「うふふ、ミリアさんのこと好きみたい。」
「ミリアちゃんのこと、好き。」上の娘はもうすぐ五つになる。ミリアの横にぴたりとくっ付いてそう言った。
「本当? 嬉しい。」ミリアはその言葉に勇気を得て、つい先ほどアサミがしていたように、不器用そうに赤子を揺すった。きゃっきゃ、と赤子は今度は声を立て笑い出す。
「笑った、笑った。」
「ほら、なかなか他の人に抱っこされて笑ったりしないんですよ。パパが抱っこしたって泣くんだから。」
「社長、かわいそう。」そう言ったミリアと長女の深刻そうな眼差しが交錯する。
「かわいそうで悪かったな。」と不機嫌を装い社長がトレイを手にリビングの扉を開けた。
「あら、ありがとう。」アサミはそう言って立ち上がり、トレイを受け取る。
「まあ、あなたが作ったの、これ。」
「じゃあ誰が手づくりサンドウィッチを配達してくれるんだ。」社長はどこか投げやりに言った。
「美味しそう。ミリアさん、食べて。結衣ちゃんも食べる?」
「うん。イチゴ。」結衣、と呼ばれた長女はめざとく苺とクリームの入ったサンドウィッチを見つけ手を伸ばそうとする。
「結衣、手を洗ってきなさい。苺は君のものだから。卵はミリアで、トマトとレタスは君だ。」社長は自分に不似合なこのような行為を、それ故つっけんどんに言わざるを得ないのである。
「はあい。」結衣はとことことドアを開けて部屋を出て行く。
「社長ありがとう。ミリア、卵大好き。」
「そんなのとうの昔に知ってるよ。」社長はそう言ってミリアが抱いている赤子を覗き込んで、人差し指で頬を優しく突いた。赤子は不思議そうな顔をする。
「……ミリアは今日はオフだったのか?」
「うん。来週からはツアーだけど。」
「まさか国内でこんなに集客できるようになるとはなあ。」社長はくすぐったいような顔をして言った。
「社長が準備してくれたからだわよう。」
にわかに人気を得ることとなったLast Rebellionは、さすがにリョウの片手間だけでは三十数か所を回る全国ツアーの準備や手筈などはできるわけもなく、社長が、というよりは社長のモデル事務所がLast Rebellionを所属させ、一切合切の面倒を見ることとなったのである。若い女性モデルをメインとする会社にデスメタルバンドの加入は意外、というよりはもはや世間を唖然とさせるに相応しい珍事であったが、ミリアが長年所属し続けてきた事務所であるし、何より社長とリョウとは互いに熟知し合っているのであるから、内実においては何の問題もなかった。それに、これだけの規模となったのだから新たにどこぞの事務所に所属しなければならないことは必定な訳で、その中でよく知った事務所があったということはそれだけでリョウたちにとっては僥倖と言わざるを得ないのであった。
「まあ、……こんなに人気になって帰ってくるとはな、正直思わなんだからなあ……。」
「そ、そんでミリアたちのせいで忙しくなってお仕事ばっかしてるから、亜衣ちゃんお顔覚えらんなくって、社長が抱っこすると泣いちゃうの?」ミリアははっとなって社長にしがみ付くようにして詰問した。
「ば、ばか! 私の仕事は何も君たちのバックアップだけじゃあない! うちはモデル事務所だからな! 君たちには専属のマネージャーだって付けた訳だし、あいつが大抵のことは何でもやってくれているし、勝手に変な風に考えないでくれ!」
「でも、でも。」ミリアは血相を変えて、「社長働き過ぎて、亜衣ちゃんはパパの顔も覚えらんなくなって、もうちょっと大きくなって社長の顔見て『どなた様ですか?』 ってなっちゃったら、ミリア、ミリア……。」口元を覆った。
「大丈夫ですよ。」アサミがくすくすと笑い出す。「社長はどんなに忙しいって言っても、ちゃんと毎日帰ってくるんですから。それに、しっかり働いて貰わないと、私たちも路頭に迷ってしまいますからね。」アサミが朗らかな笑みを浮かべながら言う。
「アサミさんと結衣ちゃん、亜衣ちゃんが暮らしていけるように、頑張ってるのね。」
「それから黒崎ミリアと、その他大勢のモデルたちが暮らしていけるようにな。」
「そっかあ!」ミリアは思わず大きな声を発し、赤子が驚いて泣き始める。
「ああ、ごめんなさいごめんなさい。アサミさん、ママ、はい。抱っこお願い。」
アサミはくすくす笑いながら赤子を抱き上げた。
「社長のお顔、早く覚えるといいわねえ。」
「人情ってもんがないんだよ、この子は。昨日は風呂にも入れてやったというのに。全く誰に似たんだか。」
「ほら、パパよ。」そう言ったアサミの腕の中では既に泣き止んだ赤子がにっこりと微笑んでいる。
社長は何か尊いものでも見るように目を細め、赤子を見た。「……まさか、五十手前で自分の子供が二人もできるなんて、思いもしなかったなあ。」
「え、そうなの。」
「今まで仕事人間で、家族のことなんか真面目に考えてみたことも、なかったからなあ。」
「でもね、私が子どもが欲しいって言ったから。」
ミリアはじっと赤子を見詰める。真っ白な肌に、大きな瞳がくるくると動いている。遠慮もなく、自由にあちこちを見ている。ミリアは思わずそっと人差し指で赤子の頬に軽く触れた。いつかこんな可愛い子が自分にも、あったら――。そう思わずにはいられない。リョウに似た、子供を。
「ミリアも、……子どもが欲しいな。」ミリアはしかしそんなことをリョウは全く考えていないであろうことに思い当たり、溜め息を吐いた。リョウの夢はヴァッケンでライブを行うこと――これに尽きる。まだ見ぬ観客たちの前で演奏をし、自分の音楽をたくさんの人に聴いて貰うこと。それ以外には、作曲の為に食事も忘れるぐらいなのであるから三大欲求さえ希薄ではないのかと思われる程である。ミリアはしかし決してそれを批判したいわけではない。むしろ自分もその隣で演奏をしてリョウの夢が叶うのを、一番近くで見たいと思う。そのために全てを賭けて尽力したいと思う。でもだとすれば、子供などは考えるべきではない。ミリアはそう思い至った。
「子供ばかりは授かりものだからなあ。子供がいることの幸せもあれば、リョウと二人きりで生きていく幸せもある。どっちが本当の幸せかは神様が選んでくれるんだろうよ。」
「うん。」ミリアは照れたように肯いた。
「でも、もし、もしだが、ミリアに子どもができたら、リョウはああ見えて子煩悩になるんじゃあないか。中学生だったミリアをモデルにスカウトした時なんかは、えらい形相で責め立てられたもんだからなあ。スカウトをして、保護者に直接お話をさせて頂く機会は多々あるが、あそこまで鬼の形相で迫られたのは、今も昔もリョウだけだよ。」
「それだけミリアさんのことを思っていたのでしょう。」
ミリアはその時のリョウを懐かしく思い出す。ライブを終えたばかりの楽屋で、ライブでがなり立てたそのままの形相でほとんど暴言と思しき言葉を吐きながら、初対面の社長を叱咤するが如く、モデルの仕事の内容を訊き出していたのを。
リョウに自分の子供ができたとしたら、ああいう風に全力で守ろうとするのかもしれないと思えば、自ずとミリアの頬には笑みが浮かんだ。――しかし、ミリアはそこでふととある疑念に逢着する。リョウはいい。リョウは愛に溢れた人間だ。しかし自分は子どもを愛することができるのであろうか。子どもを愛する? それは一体どういうことであろう。抱き上げて笑わせることであろうか、いざという時に喧嘩腰になって戦うことであろうか。世の母親たちはどのようにして、我が子を愛するのであろう。ミリアは自分が母親から愛されたことがないということに思い至り、下唇を噛み締めた。