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――物凄い光景だった。絶景だった。とても、この世のものとは思われなかった。
とてつもない人が自分を期待に満ちた目で見上げていた。拳を上げ、歓声を上げていた。
リョウは目を見開いて客を静かに見下ろし、期待に満ちた笑みを溢すと、アキを振り返った。アキも満面の笑みでスティックを高々と掲げる。それが振り落とされた瞬間、七万人は一斉に異世界へと連れ去られた。
「Blood stain child」――ミリアの受けた傷をそのまま具現化したその曲は、今七万人の観衆相手に同じ痛みを植え付けた。暴力、恐怖、それがやがて殺意に至るプロセスは、人々の心の奥底に眠る同質の感情をまざまざと浮かび上がらせていった。
リフを刻みながらリョウはちらとミリアを一瞥した。ミリアは七万人相手に一歩も怯むこともなく、あの父親を目の前に見ているかの如き、敵愾心に満ち満ちた眼差しで以て睨んでいた。何を――? それはたしかに眼前に展開されている客であった。しかしミリアが実際に見て、いるものは――、過去の経験であり、自分を形作った全てのものであった。痛苦も悪夢も全てを必然に変える力、それがミリアのギターには漲っていた。
やがてソロが到来すると、ミリアは一気に高まった歓声の渦の中に自ら躍り出、煽るようにステージ中央に進み出て音を奏でた。――絶望にも、死にも屈しない。この身が朽ちようとも、成すべきと信ずることを絶対に成し遂げてみせる。リョウの夢を、自分が叶えるのだ。強固な意志は音になって人々を突き刺していく。
そしてリョウがその音を継ぐ。全ての苦悩を、悲嘆を、闇を、突き抜けていく強さが、ミリアのそれと完璧に連なっていた。自分の背に刻まれた死ぬまで癒えぬ傷が、自らの存在を誇示するようにカッと熱を持つ。リョウはその時、自分の得た傷をこの上なく誇らしく思った。全ての痛苦が、ここに唯一無二の音として昇華されて行く。全ての傷が必然性あるものであったと、どうしようもなく確信されていく。自分の人生には僅かたりとも無駄と言えるものはなかった。心身に受けた傷も、人に対して抱いた恨みも憎悪も、何もかも。自分が自分としてこの世に生を受けた全てが、有難かった。
父に虐待を受け、そして施設に入りギターと出会い、シュンとアキと出会い、ミリアと出会った。全ては必然であった。だから今、自分がここにいる。ここでギターを奏でている。心からの雄叫びを上げている。
シュンもアキも、それぞれがここまで至るプロセスをまざまざと思い起こしていた。曲を支える一音一音が、今までの全ての延長線上にあることを確信させる。全ては線の上に。繋がっていく。
客席にはモッシュが起き、そして幾つものサークルピットが起きた。目の前にかつて見たことのないような、数万規模の巨大な渦が生じていく。それはあたかも底知れぬ淵へと誘う大穴のように見えた。地獄への通路。リョウはにやりと笑んでそれを眺め下す。どこに誘われようと、自分は乗り越えて見せる。そんな自負が沸々と沸き起こって来るのである。どんな地獄の底からでも、遥か上空に広がる高みへと己が力で進んでいく。ステージの下も上も、それだけの力に満ちていた。全てはLast Rebellionの音が類稀なるエネルギーを生み出したのである。
リョウはその中に一葉の写真でしか見たことのない母親の姿を思い起こし、ミリアを深く愛したジュンヤの姿を思い起こし、同じくミリアに自分の夢を見たアイミを思い起こし、メタルを愛しながら急逝した園城の姿を思い起こした。彼等の姿に、リョウは更なる力を奮い起こした。
曲は次々に展開していく。もとよりMCなんぞはしない主義であるので、観客も中断されることなく思い思いに暴れ、騒ぎ、Last Rebellionが生み出した世界に没頭している。絶望の血濡れの牢獄から、天へと身を突き上げていく。あちこちに観客たちの走り回る渦が生じ、それが衝突して一つになり一層巨大化していく。リョウはそれを眺め下ろしながら、創造主の眼差しでどこまでも突き進むが如きリフを刻み、声を限りにがなり立てた。それを三人がしっかと支えていく。それはあたかも世界を形作る大地であった。震撼こそせよ、一部の崩れさえなかった。全てを支え、切った。完全なる世界が悠々と構築されていった。
殊に客の目を引いていたのはやはりミリアであった。兼ねてより話題を集めていた存在ではあるものの、客はいざその姿を目の辺りにすると、その存在がリョウとはまた別の次元において燦然と輝き渡っているのを目の当たりにさせられた。
白人の目から見れば痩せっぽちたただの子供にしか見えぬミリアが、ここまで力強く全てを圧倒する音を生み出し得ることに、ただただ驚嘆するしかなかったのである。
その背後にあるものは、とかく、自分の傷に真正面から向き合い、その上でリョウの夢を叶えているという自負、それだけであった。それだけでミリアは数万人もの人の心に残るギターを弾いた。ミリアはひたすら、突き上げるように、自分の覚えた苦悩に、それを齎してくれた環境に、感謝を覚えていた。父が自分を傷つけ、そして死んでいったからこそ自分はリョウと出会えた。ギターと出会えた。自分の傷がギターを通して誰かの力となり、それによって自分の居場所を得た。ミリアは自分の生と、それを取り巻く環境の全てに感謝を、くるしいぐらいに感じていた。
リョウは虚空に向かって吠え立てた。自分の全てを絞り出すように。この日のために、自分は生きて来たし、出会って来た。自分を成り立たせている全ての物体と精神とが、そう叫んでいる。リョウはここで己が命が途絶えたとしても(突然の災害で、あるいは人災で)、何も後悔することはないだろうとも思われた。いつもであればライブ後半ともなれば喉の奥が枯れるような感覚が出たり、右腕が痺れを覚えたりするはずであったが、ヴァッケンという地のなせるわざか、一向にそれに類した感覚はなかった。このまま何時間でも、永遠にでもライブが続行できるような気がしていた。エネルギーがステージの上と下を循環しているようでもあった。しかし終わりはやってくる―ー。
リョウは最後の曲のイントロを奏でた。それは自分一人きりのアルペジオである。本来であればミリアが担当する部分であったが、リハを重ねていたある夜、
「ここはリョウが弾いたらいいわよう。」ミリアは一小節だけ弾いた後、そう言って手を止めた。
「そのアルペジオはお前だろ。俺はその間水飲むんだよ。」
「知ってるけど……。」ミリアは自分の胸中にあるものを適切に表現するための言葉を探っていく。 「これは、最後の曲だから。これで、ヴァッケンのステージにさよならすることになるから。……リョウが自分で納得して幕を閉じたのがいいの。」
シュンとアキもそう言われれば、そうかもしれないといった風に腕組みをした。
「アルペジオから、次のリフにエフェクター変えるのは、そう手間じゃねえだろ。ちっとやってみたら。」
「こうだな。」と言ってリョウはアルペジオを弾き、足元のOne Controlを二台、がちゃがちゃと踏んでリフに入ってみせた。
「余裕だろ。」シュンは呆気なく答えた。
「何でお前まで俺に弾かせたがんだよ。」
「だってミリアが言うから……。」
「ミリアが言やあ、何でもイエスなのかよ。」
「そうじゃあねえけど……」シュンは肩を竦め、「ミリアはお前のこととお前の曲と、お前のパフォーマンスを一番理解してっかんな。」と言った。
リョウは苦い顔をして再びミリアに向き合った。
「あのね、リョウが弾いたらリョウもだけど、みんな納得するの。」ミリアは考え、考え言った。「やっぱし、最後の音って一番お客さんの耳に残るから、これがLast Rebellionだなって思い続けるものになるから。だから、それをリョウが弾くのが一番当り前だと思う。だってこれは、リョウの曲だし。リョウの傷に向かっていくトンネルがこのアルペジオでしょう? だからリョウが弾いた方がちゃんと説得力が出るの。お客さんもそうしたら胸にすとんと落ちて、めでたし、めでたしって思うはずだの。」
リョウは暫く黙していたが、「そうか。」と呟いた。そして「わーかったよ……。」とそっぽを向いたので、ミリアとシュン、アキは笑みを交わし合った。
その、曲が到来した。あたかもあらかじめ定められた物語の最終章の如く、悠々と確固たる必然性をもってリョウはどこまでも響き渡るアルペジオを奏でた。
七万人は波を打ったように静まり返り、一つの大きなうねりを作りながらリョウの一音一音に身を揺蕩え、耳を澄ませた。ミリアはその光景に涙ぐみたくなった。この清らかな音に含まれた溢れいずる思いに誰もが同じ思いを寄せている。肌の色も、国籍も、言語も宗教も何もかも超えて、ひとえにリョウの思いに共鳴している。そして突如、曲風は変わる。激しく、熱く、何もかもを焼き尽くす憎悪へと。Last Rebellionの世界が最後の時代を眼前に映し出そうとした。
ミリアは激しく頭を振りしだきながら、リフを刻んでいった。いかなる絶望にも堂々と打ち勝っていける、屈強なるリフを。それはリョウの音と完璧に同一に重なり、最初にミリアがステージに上がったあの時の衝撃と恐懼を全ての観客に齎した。それが単なるテクニックの問題ではなく、同じ経験と痛苦を覚えているからこそであるということが痛い程に解されて、その人生の奇跡に衝撃と恐懼を覚えさせた。
やがて最後のアルペジオが、再びリョウの曲に酔いしれる人々を、空がそうするように大きく包み込んでいく。その最後の一音が空に消えると同時に、観客の地鳴りのするような歓声が響き渡った。
全てが想像以上に完璧であった。僅かなミスさえ見出せなかった。リョウの世界を明らかに今までで一番明瞭に具現化していた。リョウはその奇蹟に暫く身の震えを止めることができなかった。諤々と、恥ずかしい程に脚が震えていた。
その時、歓声に交じってどこからか、「リョウ」と囁きかけるような声が聞こえた気がして、リョウは慌てて周囲を目回した。ミリアは観客に向かって笑顔で手を振っている。――だから、ミリアではない。その時、不思議に思いながらふと見上げた空に浮かんでいる雲が、どこかあの写真の母親の笑顔を想起させるものであることに気付いてリョウは驚いた。リョウは一瞬目を見開いて、それから目尻に一粒の涙を浮かべ、その雲を暫くの間見上げていた。




