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タクシーを降り、荷物を預け終えると、そのタイミングでシュンとアキもやってきた。よお、とあたかもスタジオ前で出会った時のような手軽さでもって二人は手を挙げる。その所作が無意識裡に緊張していたリョウにこの上ない安堵感を齎す。
「あーあ、緊張して寝れねえモンかと思いきや、ぐっすり眠って気付けば朝の八時だし、結構俺は鈍感なのかもしんねえ。繊細なミュージシャンだと思ってたのになあ。」シュンはそう言って笑った。
「あら、ミリアもだわよう。昨日は何の夢も見ないぐらいに眠ったわ。」俺の布団でな、とリョウは口には出さずに思った。「それから飛行機乗ったらまた、寝んの。この前事務所のひとにアイマスクっていうの貰ってきたんだから。」
「寝る子は育つ。」シュンはきっぱりと言い放つと、「俺らはもっと大きくなって、リョウを超えちまうかもしんねえな。」と笑った。
「うん。」ミリアは心得顔に肯く。「身長があと十五センチ伸びたら、ステージモデルにしてやるって社長から言われてんの。そしたらパリコレとか出れるんだって。」
「ふうん、お前、ステージモデルになりてえのか。」
「ううん、ミリアはステージギタリストの方がいい。」
「ギタリストはまあ、身長は関係ねえしな。その方がいいな。」
パスポートのチェックを受け、搭乗口を歩いて行く。CAの手助けを得ながら荷物を上げて椅子に座り込むと、ミリアはリョウに向かって「これから12時間だわねえ。フランクフルト。ミリア、ドイツのこと調べてきたのよう。」そう言ってそそくさとハンドバッグの中から一冊の本を取り出す。いつ買い込んだのだか、ドイツ観光の本である。
「白ちゃんのお土産って、これなの。ほら、これ。ドイツにあるシュタイフっていう、テディベア作ってる会社のネズミちゃんだわよう。かっわいいのよう。」
「ほお。」リョウは至極どうでもよさそうに雑誌を覗き込む。余程思い入れがあるのだろう。ネズミのぬいぐるみの写真にはぐりぐりと盛んにボールペンで丸が付けられている。
「たしかにあの剥げ散らかしたのよりいいな。」
「剥げ散らかしたなんて、言っちゃダメ。あれは白ちゃんの大事なお友達なんだから。ふふ、これ白ちゃん気に入ってくれるかなあ。」
「つうか、お、おい! お前、これ」リョウはミリアの本を引っ手繰って凝視した。「こんなんで、40ユーロって……日本円で5000円ぐれえすんじゃねえか! 高過ぎんだろ! こんなん、ペットショップのレジ前に置いてある300円ぐれえのでいいだろが!」
「ダメよう!」ミリアは咄嗟に本を奪い返すと、リョウを睨んだ。「リョウは白ちゃんのことになると断然ケチケチなんだから。スウィートルームも普通でいいとか、まーったく、そんなんじゃあダメなの。白ちゃんは特別上品なんだから。白ちゃんの大事なお友達も5000円ぐらいすんの!」
ネズミが猫の大事な友達になるのか、リョウはよくわからぬままシートに身を凭れかけて、目を閉じた。
「あとね、ミリア用にはこの猫のぬいぐるみなの。」再び本を開いて、うっとりとミリアは中を見詰める。「ここのシュタイフって会社のぬいぐるみ、どれもこれも可愛すぎるのよう。ドイツって言えば、ジャーマンメタルとマイケル・シェンカーとルドルフ・シェンカーぐらいしか知らなかったけど、こんなに可愛いぬいぐるみ会社があったのよう。……猫ちゃん何色にしよっかなあ。白ちゃんの白もいいし、でも、黒も茶色も可愛いのよねえ。お顔を見て決めよっと。」
その時リョウはふと以前見た夢を思い出した。
「そういや、猫っていやあよお。」リョウは言い出す前から小さく一つ噴き出して、「お前が新しく猫貰って来た夢見てよお。しかも、お前、俺が貰って来たんだって言い張ってさ。白と間違えてんじゃねえのって言ったんだけど、そうじゃねえって。……でもお前が可愛い可愛いって撫で回してるから、まあ、なんか否定もできなくってよお。俺ぁあんま夢なんか見ねえし覚えちゃいねえが、ありゃあ、やたらはっきりした夢だったなあ。疲れてたんかなあ。」
「ふうん。」ミリアは真顔で肯くと、「……リョウ、猫ちゃん欲しいの?」と尋ねた。
「いらねえ! 白で十分だ! 白で! 二匹いたら一泊1万6千円コースだかんな! んなことになったらうかうかツアーもできねえ!」
「あっはは! でも白ちゃん、猫のお友達いたらきっと楽しいわよう。」
「お友達はハゲネズミとその高ぇネズミで十分だ。」きっぱりと言い放った。
「そっか。」ミリアは暫し考え込んだ。
その時出発を告げるアナウンスが流れ出し、エンジンが掛けられる。ミリアは本をしまうと、バッグの中からリボンとフリルの付いたアイマスクを取り出したが、装着はせずに窓の外を見つめ、何やら考え事をしているようであった。
リョウはさっさとアイマスクを付けて、寝始める。夕飯を食べ、寝て、起きて、朝食を食べたらハンブルクだ。自分の夢を実現する場だ。リョウは滾る胸中を落ち着かせようと、大きな溜息を一つ吐いた。




